第82話 牛肉の野菜炒め(1)

 冬に向かう前の秋空は、とても澄んだ青色をしている。

 秋の収穫祭が終了し、その青一色に塗りつぶされた空の下で店の前の掃除をしているのは今日もクリスである。

 収穫祭が終了した翌日から数日間は屋台の回収作業が行われ、大工や力仕事を任せられる傭兵たちがまだまだ活躍している。そして、商人たちは違う街の収穫祭へと向かう前にマルゲリットの街で仕入れを済ませるために忙しい。

 出入りする人間が多い中、まだシャルに外の掃除させるわけにいかないということだ。


 もちろん、また翌年まで飲めや騒げやと酒を交わす機会も減ってしまうということもあって、最終日となれば彼方此方の飲食店や宿屋で大酒を飲みまわっていた男たちも多く、ここ数日の中で最も街は汚れていた。


 クリスは引き戸を開いたところで両腕を組むと店の前を眺める。

 この路地も酔っ払いたちによってかなり汚されている状況だ。


「まぁ、しかたないわね……」


 まず店の階段周辺を掃除し終えたクリスは、店の前に水の魔法をかけると、その水を空間魔法で汚れごと消し去ってしまう。

 この街の近くにはサン・リブレム聖なる川という大河が流れているので、その中にでも飛ばしているのだろう。

 路面は当然濡れているので、最後の仕上げと言わんばかりに風魔法を使って路地の表面を乾かしてしまう。


「これでだいじょうぶかな?」


 クリスが階段を降りて路地側から店の方を振り返ると、壁にもそこで小用を済ませた跡が残っている。クリスは毎日この店の前を丁寧に掃除してきたシャルのことを考えると怒りが込み上げてくるが、犯人探しをするわけにもいかない。

 諦めて、また水魔法を使って綺麗に洗い流し、風魔法で乾かしてしまう。


 この街の衛生観念は低い。

 エドガルドが下水の工事を始めると言っても、その意味を理解している者たちは少ない。既に生活用水――野菜や食器、服の洗濯など――で使う水を流すための小さな水路が各戸にあって街の外側に流れる堀に流されているのだが、それを拡張する程度だと考えている者も多く、なかなか工事の規模を伝えられずにエドガルドも苦労しているという。

 祭りの最中に話を聞いても、アルコールが入っている状態で理解力が低下しているのだから無理もない。


 もう一度、店の周囲を見回してしっかりと洗浄できたことを確認したクリスが店の中へ戻ろうとしたそのとき、角からマルティ伯爵家の紋章をつけた馬車が曲がってくるのが見えた。

 クリスはそれを見てとても嫌そうな顔をする。

 馬車の屋根には窓から捨てられた汚物が付着していることが多く、また店の前を洗浄する必要があるからだ。決して、ラウラと仲が悪いわけではない。


 ガラガラと音を立てて店の階段前に馬車が停止すると、馭者が急いで踏み台を用意し、扉を開く。

 先に馬車から出てきたのはマルティ伯爵本人で、後から手を引かれてラウラが降りてくる。


「おはようございます、クリスティーヌ様」


 マルティ伯爵は帽子を脱いで簡易な挨拶を済ませる。

 ここが旧王城の外であり、正式な場ではないこともあって特に畏まった口上が必要ではないと判断したためである。


「クリスティーヌ様、おはようございます」


 ラウラもスカートの裾を軽く摘んで足を引くと、首を軽く倒す簡易な挨拶をする。

 挨拶をされる側のクリスとしては、自分の方が地位が上にあるので頭を下げる必要がない。それにここはただの料理屋なので、気楽に接することにしている。


「おはようございます。先日もそうでしたが、親子でいらっしゃるなんて余程気に入っていただけたようですね?」


 二日前――トビウオのお刺身を出した日に、二人は来店していた。

 さすがに、伯爵家当主と一緒に食事するとなるとベラが同席することはなく、二人で四人席を占拠していた。


 基本的に予約客や特別料理を出す時以外は使わないので問題ないが、例えば他の貴族が噂を聞いてやってきたとなると四人席が一つというのは心もとない。これ以上に客が入れる場所となると奥の和室を使うしかないという状況である。

 しかし、奥にある和室はテレビやゲーム機があり、クリスやシュウ、シャルの着替えなどがハンガーで吊るされている場所なので、客に開放することもできない。

 将来のことを考えるとこれは大きな問題ではあるのだが、引き戸の先が裏なんばの店に繋がっているだけなので、店の中を拡張するなどということができないのが辛いところである。


「ええ、なかなか海のものを食べる機会というのがないものですから、可能な限り食べに来たいと思っておりました。ですが収穫祭も終わり、このあと自領へと戻らねばなりませんので、最後にと思い、また参じた次第です」


 さすがにマルティ伯爵はクリスに対して言葉を崩すことがない。

 だが、その眼光には隙きがなく、抜け目のない性格であることが見て取れる。


「まぁ、ありがとうございます。さ、奥へどうぞ……」


 クリスは先に二人を店内に案内する。貴族が来ているとなると、入りたくないと考える街の人達も多く、これから並び始める時間帯になることを考えると先に入れてしまった方が気が楽なのだ。

 また、帰るときも営業時間終了時までゆっくりと座らせておけばいい。


 クリスは二人が席につくと、すぐに今日のメニューを説明した。


「今日の『魚朝食』は『秋鮭のバター焼き』です。それでいいですか?」


 最初から海のものを食べに来たと言っているのだから、クリスは他の料理を説明する気もない。

 マルティ伯爵とラウラはお互いに目線を合わせ、異議がないことを互いに確認した。


「では、その『秋鮭のバター焼き』というのをいただこう。二人分お願いします」

「はい、ありがとうございます」


 マルティ伯爵は立場を崩そうとしないが、それは仕方がないとクリスも諦めてなるべく自然に受け答えしようと努める。


 ちなみに、秋鮭のバター焼きは養殖のオーシャントラウト銀鮭の内臓を取り除き、輪切りにしたものに塩コショウと小麦粉をはたいてバターで焼いたもの……ムニエルである。タルタルソースと付け合せと生野菜などがついた洋食風の料理になっている。


 既にシュウはこれから始まる魚料理の注文ラッシュに備えて既に銀鮭のバター焼きの大量生産に入っている。

 通常ならカウンター席だけの分で売り切れる想定の仕入れ数なので、フライパンを四つ使って二人前ずつ焼く準備を始めていた。


「テーブル席、『魚定食』二人前お願いします」

「あいよっ」


 クリスはお茶とおしぼりの準備だけをシャルに頼んで、開店準備のために引き戸のある場所へと向かった。






「クォーンカーン……クォーンカーン……」

「ガララッ」


 朝二つの鐘が鳴ると、内側で待ち構えていたかのようにクリスが引き戸を開く。

 店の階段横には既に行列ができていて、はじめての客がまた数名並んでいた。

 クリスが順にカウンターの奥へと座るように誘導していくと、オセフが七番目に並んでいる。


「オセフさん、おはようございます」

「やあ、おはよう」


 オセフがクリスを見ると挨拶を返すのだが、どうもクリスの表情が冴えない。

 何か言い出し辛いといった表情をしているので、オセフの方が声を掛けた。


「どうしたんだい?」

「それがですね、たぶん前の方で『魚朝食』が売り切れるんですよ。お貴族様が先にお二人でいらしているので……ごめんなさい。でも、他の料理も美味しいものばかりですから是非今日は試してみてください」

「ああ、そういうことか……仕方ない、そのときは何かオススメの料理をいただくことにするよ」


 オセフは特に気にしていないという様子でクリスの案内に従うと、カウンター席に座った。

 オセフの右隣……一番端に座った男もクリスの説明を聞いて少し残念そうにするが、仕方がないと諦めたような表情をしている。

 収穫祭の期間中は魚朝食のみとしていたのだが、収穫祭が終われば元のメニューに戻る。運良く、先に入った六名のうちで一名だけでも魚朝食以外のものを頼んでくれればオセフにも魚朝食を食べる機会がある。恐らくカウンター端に座った男も似たようなことを考えて座っているだろう。


 クリスは全員が着席したのを確認すると、先ずはマリティ伯爵とラウラにお茶とおしぼりを持って行き、すぐにカウンターの中へと戻ってきた。


「おまたせしました。収穫祭の期間中は『魚朝食』のみとしていましたが、今日からは通常営業になります。当店は一汁一菜のお店でして、肉と魚、卵、野菜料理から一つ選んでいただくことになっています。

 肉は『鶏朝食』、『豚朝食』、『牛朝食』の3種類から選んでいただきます。

 卵は『鶏』の卵です」


 クリスはそこまで一気に説明すると、少し呼吸を整える。


「今日の『鶏朝食』は『焼きつくね』、『豚朝食』は『生姜焼き』、『牛朝食』は『牛肉の野菜炒め』です。『魚朝食』は『銀鮭のバター焼き』です。なお、今日の『魚朝食』は限定六食とさせていただきます。すみません」


 ここでまたクリスは頭を下げた。

 マルティ伯爵家の父娘がやってくるのが予想外だったので仕方がない。だが、クリスの素性を知っている人からすれば「頭を上げてください」とでも言いたくなることであるのだが、他に誰もしないところを見ると今日の客は殆どが商人や傭兵など、他領の人たちが多いのかも知れない。事実、クリスが名前を呼びかけた客はオセフだけであった。


「順番にご注文を伺いますので、後に入られた方はしばらくお待ち下さいね」


 注文はシャルに交代して、クリスは奥に座っているマルティ伯爵家父娘に漬物を配りに向かった。

 そしてしばらくすると、オセフが注文する番がまわってきた。


「オセフさん、ご注文聞きに来たの。でも、『魚朝食』は売り切れなの。ごめんなさい」

「いいよ、それはシャルちゃんのせいではないだろ。オススメはあるかい?」


 クリスが尋ねられた時のオススメ料理はその相手の仕事などを考えて、疲れているなら豚を選んだり、筋肉仕事をしている人なら良質なタンパク質を含む鶏肉を勧めたりするのだが、シャルはそこまでの知識はない。

 顎に指をあてて少し考えるふりをすると、シャルはオセフにメニューを提案する。


「今日は『牛玉ピー』だから、『牛朝食』がおすすめなの!」


 オセフは「牛玉ピー」ってなんだと思ったりするのだが、せっかくのおすすめ料理なので、それを頼むことにした。


「じゃあ、シャルちゃんのオススメ料理にしようか。『牛朝食』でお願いするよ」

「はいなのっ! 『牛朝食』一人前なのっ!」

「あいよっ」


 クリスが注文を入れる際とは調子が違うのにオセフが気づくが、注文は通っているので気にすることはない。


「あ、オセフさん。この時期の大工は忙しいって聞くけど、仕事の方は大丈夫なの?」


 四人席から戻ってきたクリスがオセフに尋ねる。

 本来なら収穫祭が終了したばかりのこの時期の大工は忙しいはずだ。組み立てた屋台の解体作業は大工の仕事だからだ。


「心配ない。息子や弟子たちでもできる仕事だからな。それに、ここで食ったらオレも仕事に戻るさ」

「やっぱり忙しいんじゃない……サボりはだめよ」


 クリスはくすくすと笑いながら、カウンターの中に入って行った。漬物の用意をするためである。

 八つの小鉢を並べ、足元から取り出した容器から胡瓜と茄子の糠漬けを取り出すと、据付のシンクで糠を洗い流し、胡瓜は斜め切り、茄子は銀杏切りに切り分けて各小鉢へ均等に盛り付ける。そして違う容器を取り出すとそこから白菜の浅漬けを取り出し、布巾に包んで水気を絞って各小鉢の隙間に盛り付けた。

 それをカウンター越しに一人ひとり配っていく。

 普段であれば漬物は先に用意してから店を開くのだが、今日は開店前からお貴族様が来てしまっているし、先に用意することで普段は表面が乾き気味の漬物を出していることに少し後ろめたさのようなものを感じていたので、今日は切りたてを試している。


 ことりと音を立てて置かれた小鉢の漬物を見たオセフは、思わずその表面の瑞々しさに目を瞠る。特に艶々と黒い茄子の皮がとても薄く、身がしっかりと詰まっていて目を引く存在だ。胡瓜はまだ表面の緑色が鮮やかで、白菜は漬け汁を絞ったクリスの指のあとが残っている。


「どうぞ、今日は『胡瓜』と『ナス』の『糠漬け』、『白菜の浅漬け』です」

「ありがとう」


 クリスの言葉に応じてオセフは礼の言葉を返すと、以前に教わったとおり少し醤油を垂らして、すぐに箸を持つと茄子の漬物を口に運ぶ。

 口の中にぬか漬けになった茄子の香りが広がり、噛んだ瞬間じゅわりと旨味が迸る。とてもしっとりとした実の部分が柔らかく、また噛めば旨味が飛び出す。


 初めて食べた茄子の糠漬けの美味さにオセフが舌鼓を打っていると、隣の席に料理が運ばれてきた。


 その料理をちらりとオセフは盗み見る。

 まあるい穴の開いたような身には薄らと衣がついていて、少し焦げたような茶色をしている。その焦げ方にはムラがなく、均一に火が通っていることを伺わせる。そして、その衣からバターの香りがふわりと漂ってくると、オセフは口の中に涎が出てくるのを感じた。


「こちらの『タルタルソース』をつけてお召し上がりくださいね」


 クリスが指すところには、付け合せとして葉野菜が添えられており、秋鮭と共に焼いたニンジンや玉蜀黍、ほうれん草なども並んでいるのだが、その横にはたっぷりと刻んだ野菜などが入った白いソースが添えられていた。


 オセフはタルタルソースをまだ経験したことがないので、いったいどんな味がするのだろうと想像する。だが、今日の魚朝食は売り切れなのだからオセフがあのタルタルソースを味わうことはないのである。そう思うと、オセフは隣席の男が食べる魚朝食の味が気になってしかたがない。先ほどからカウンターに左肘をついて、ちらりちらりと横目で銀鮭のバター焼きを覗き見ている。

 一方、オセフに料理を見られている隣席の男はその向こうの男が食べるのを見ているようで、オセフの視線には気がついていない。

 初めてこの店に来る客はこの店のマナーや食べ方などを知らないし、目の前には道具として木匙とフォーク、箸の三つの道具が並んでいるのだから、周りの客がどうしているのか気になるのだ。

 そして、オセフの隣席の男は木匙を手にとって味噌汁に手を伸ばした。

 それの緩慢な動作にオセフが少し焦れ始めたとき、炒めたタマネギの香りがふわりと漂い、クリスが声をかける。


「おまたせしました。今日の『牛朝食』、『牛肉の野菜炒め』です。この『マヨネーズ』をつけて食べると『白いごはん』にとても良く合いますので、是非試してみてくださいね」


 ことりと音を立ててオセフの前に置かれた丸盆には、いつものレイアウトで料理が並んでいる。

 左手前にあるのは、白い湯気を立てている炊きたてで艶々の白いごはん。右側には味噌汁が無垢の木を削ったような色をした味噌汁椀があって、そこには潰した里芋と小松菜の味噌汁が入っている。

 そして、奥には丸く浅い磁器の皿が置かれていて、その上に薄くスライスした牛肉と串切りにしたタマネギ、乱切りにしたピーマンを油で炒めた料理がどさりと盛り付けられている。牛肉を焼いたときにでる肉汁をタマネギが吸い込んで茶色く色づいていて、ピーマンは油と熱を吸って鮮やかな緑色に変わっており、ところどころ焦げ目が付く程度まで火が通っていることがわかる。

 そして、その横には隣の客が食べる秋鮭のバター焼きに添えられているソースとは異なる、黄色がかった白いものがぽってりと盛り上げるように添えられている。


「これが、『マヨネーズ』かい?」


 オセフはそれ以外にマヨネーズらしきものはないと思い、確認するかのように急須を取りに戻ってきたクリスに問いかけた。


「ええ、そうよ。『鶏卵』に油と酢、塩などを使って作るんです。生野菜にかける『ドレッシング』のようなものなんだけど、この料理に合うから試してみて下さい。もし足りなかったら、追加で出しますから」


 オセフの問いにそう返したクリスは、熱いお茶が入った急須を持って奥の四人席に向かっていった。

 それを目で追うと、ようやく箸を手にとって味噌汁椀を持つ。


 味噌汁椀の具を確認するように覗き込んで、オセフは箸を入れて分離した味噌汁をひと掻きすると、口縁に唇をあててズズッと啜り込む。

 いりこ出汁と味噌の香りが先ず鼻腔に抜け、潰した里芋のせいでとろみがついた味噌汁が口の中に流れ込むと、いりこ出汁と味噌が混ざった優しい味が舌を包む。

 これは、オセフが初めてこの店に来た時の味噌汁とはまた違った出汁の味だ。

 その出汁の味に、赤味噌の塩味と白味噌の甘味、発酵熟成した大豆の旨味が加わっていてじわりと舌に染み込んでくる。

 その味噌汁が喉をとおって胃袋へと落ちると、オセフは何故か「ほぅ」と息を吐いてしまう。


 啜ったことで息を吸ってから味噌汁を飲み込んだことで、息を吐くのを止めてしまうことも原因かもしれないが、最初の一口に温かい味噌汁を飲むとホッとするものだ。

 最初に味噌汁を一口飲むというマナーの理由は、箸先を濡らす、喉を湿らせるなどと聞いていたが、まず心を落ち着かせるという効果もあるのだろうとオセフは思った。

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