第69話 太刀魚の塩焼き(3)

「お嬢様、お目覚めください――」


 いつものようにベラが耳元で目を覚ますように声をかける。


 ラウラは本当に朝に弱いのだが、昨日は旧王城での晩餐会が行われたため、しっかりとワインを飲まされていたし、複数の貴族の子息たちに何度も食後のダンスに付き合わされて足腰もかなり疲れていた。

 特にカスティス伯爵家の長男、エルナンドは自分はリードが上手いと思っているのか、くるくるとラウラを回転させた。ダンスにおいて女性を回転させるとより華やかに見えるものなのだが、回転する側の女性としては余計な筋力を使うので疲れてしまう。ただ、リードしている側の男性は、面白いように相手の女性が回転するので楽しくなるし、華やかなダンスを見ている人たちからすれば上手いように見えてしまうのだ。

 そうして疲れたタイミングでまた男たちは集まってくるのである。しかも酒を片手に……。


 マルティ伯爵家の別邸に戻ってきてからというもの、ラウラはほとんど記憶がない。

 何度か水を飲まされたり、服を脱がされて全身をベラに拭ってもらっているのだがそれさえも記憶に残っていないほど酒がまわったのだ。

 そして、いまはベッドに突っ伏して眠っていた。



 いつものように十数回も声を掛けたときだった。


「んあっ?」


 ガバッと上半身を反らせて、ラウラが貴族子女らしからぬ声を上げた。

 ベラは一瞬目を丸くしてラウラを見つめると、声を押し殺して肩を揺らすのだが、そのことにラウラが気がついてしまうと面倒なことになる。なので、なんとか笑ってしまいそうになるのを噛み殺すと、勉めて冷静な表情と口調をつくり声をかける。


「おはようございます、お嬢様」


 まだ、自分がいつ、どうのようにしてこの部屋に戻ってきたのかを思い出せないラウラはなんとか思い出そうと考えていたのだが、ズキンズキンと頭痛がする。また、筋肉痛も発症しているが、それ以上に身体がとても重く、動くのも面倒になってきた。


「おはよう、ベラ……今日の予定は何だったかしら?」


 ゆっくりと仰向けになって倒れ込みながらラウラはベラに尋ねる。

 二日酔いによる思考能力の低下が著しいラウラに対し、素面のベラは冷静だ。


「朝二つの鐘の時間に、クリスティーヌ様のお店にて朝食。昼一つの鐘の時間にはエステバン商会の方が新しいドレスの採寸に来られます。その後、昼二つの鐘の時間にオソリオ子爵家のカタリナ様がご挨拶に来られ、昼三つの鐘の時間には――」


 ようやくベッドから降りたラウラはバシャバシャと顔を洗いながら予定を聞く。冷たい水は一気にラウラの眠気を覚醒させるが、二日酔いまでは改善しない。


「そう、ありがとう。今日も忙しいわね……」


 ベラからタオルを受け取り、顔を拭うと既に先をつぶして柔らかくした小枝を咥え、歯磨きを始めた。


「最初に伺うクリスティーヌ様のお店は交流街の東通りを少し入ったところにあるそうです。そんなに大きなお店ではないそうで、街着の方がよいとオルギン商会の者が申しておりましたので、こちらをご用意しました」


 ベラがベッドの上に広げたのは三種類の服。

 完全なお忍び用で町娘風の服と、旅の最中に着ていた服、パニエの必要がない外出用のドレスである。


「これにするわ」


 ラウラはあまり悩むこともなく、外出用のドレスを指した。









 収穫祭の間はシャルを外に出すこともできず、クリスはひとりで店の前の掃除をしていた。

 マルゲリットの中心街はいつも賑わっているが、東通りは住民たちの生活の場でもあるので普段は騒ぐような者たちはいない。だが、収穫祭はマルゲリットの外からやってくる人たちも多く、朝まで騒いだ男たちが流れ込んで眠りこけていたりする。


「ま、仕方ないわね……」


 クリスは大きな溜息を吐き、諦めたように独り呟く。

 店の前は毎日のようにシャルが掃除をしていて普段はとても綺麗で清潔なのだが、今朝は酔った男たちがやらかしたいろんなものが散乱している。これをシャルに見せずに済むだけでもまだよかったと思いながら、クリスは店先の階段上から路地を見渡して得意の水魔法を使う。

 ぶつぶつと呪文を唱えると、路地の左右から水が溢れ出し、クリスの前に流れ込み、一瞬にしてその姿を消した。水の魔法で洗い流し、空間魔法でその水をどこかに飛ばしたのだ。

 路面全体はしっとりと濡れた状態になっているが、そこに汚物は残っておらず、きれいさっぱり洗浄された。

 開店前で誰もいないときであるし、今朝の汚れ方は見るに耐えない状態だったからとクリスは自分に言い訳をする。普段のように店の準備をしてから掃除をする時間がなかったというのも言い訳として用意していたが、それは明日以降に使うことになりそうだ。


 すると、ガラガラと車輪の音をたてて居住区の方から馬車が路地に入って来た。車両部分には大きくマルティ伯爵家の紋章が描かれていて、左右に護衛らしき厳つい男がついている。

 クリスの前に車両が停止すると、馭者台から降りた男が踏み台を下ろし、車両の扉を開く。

 最初にベラが降り、そのベラの差し伸ばした手を取ってラウラが扉から顔を出す。その瞳は明らかにクリスを見つめているのだが、目はまん丸く開かれていて、驚いていることがわかる。それはクリスが見たこともないような衣装を着ていて、見たこともないような髪型と髪飾りをしているからだ。

 だが、そこは伯爵家の次女として充分な教育を受けているからだろう。

 勉めて動揺していることを隠しつつ、ラウラは車両から降り立つと、スカートを両手で摘み、左足を引いて会釈をする。


「クリスティーヌ様、ごきげんよう」

「ええ、ラウラ様もごきげんよう」


 クリスは貴族らしい挨拶を送ってきたラウラに対し、同じように言葉を返す。ただ、クリスとしてはこのままの状態は少し困るのだ。


「――と堅苦しい挨拶は後にして、この馬車があると店が営業できないわ。食事が終わる頃にまた迎えに来ていただくことにしていただいてよろしいかしら?」

「ええ、もちろんですわ――」


 クリスの要望に対して返事をするか否か、ラウラは馭者に対して視線を送る。

 馭者もそのあたりはすぐに理解したようで、踏み台を片付けると扉を閉じた。


 それを見ながらクリスはカンデに伝えた条件を確認するため、ラウラに尋ねる。


「あと、四人まで座れる席を用意しているの。護衛の方も入っていただいてもいいのだけれど――さすがに同席はなさらないでしょうし、そちらの侍女の方とお二人ということでいいかしら?」

「ええ……ただ、オルギン商会の者が来たら同席させてもいいかしら?」


 同じものを食べておかねば、カンデも今後の商談に影響を受けることになる。ラウラはそのあたりはこれまでの付き合いで判っているが、それなら一緒に食べれば済むことだ。

 だが、クリスはカンデ以外にオルギン商会の人間を知らない。オルギン商会を名乗る強盗や暴漢がいた場合のことを考えると、それなりの対策が必要となる。


「そうですわね……カンデさんであれば、ご一緒できるようにします。他の方は事実確認ができないので普通のお客様として扱うことにしますね。では、開店前ですけど先にお入りください」


 クリスが一歩引いて、引き戸の前を空けるとラウラは階段を上がって中へと入っていった。







 引き戸の中に入ると、そこは別世界であった。

 まず、空気が清浄でひんやりとしていて、何かを煮る美味しそうな香りが漂っている。

 そして、目に入るのは、角がない丸い小石が敷き詰められた場所に据え付けられた大きな石臼である。その石臼の後ろには竹で組まれた台があり、そこから伸びた別の竹の先からちょろちょろと水が流れ、大きな石臼に溜まっている。その水はとても透明度が高く、水面にはいくつかの花が浮かんでいる。


「まあ、なんて綺麗な花なんでしょう……」


 紫や赤紫から徐々に白へと色が変化したたくさんの花弁が、黄色い雄しべを守るように咲いている。

 マルゲリットやプラドの街に存在しない花である。ラウラが珍しがるのも不思議ではない。


「これは『睡蓮』の花よ。触らないでね」


 ラウラは思わず手を伸ばしそうになるのだが、クリスが牽制した。

 精巧な造花なので、匂いがするわけでもなく、手触りは実物とは全く異なるものだ。そんな花だといって誤魔化せるようなものではない。

 だが、それを知ったラウラに「どうやってつくるのか」と尋ねられたり、「わたくしもこれと同じものが欲しい」などと言われると困る。


「手が気触かぶれるわよ」

「――ヒッ」


 ラウラは伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。

 その姿を見て、これくらい脅しておけばこっそりと持って帰ろうとはしないだろうとクリスは安堵する。




 入り口の空間から間仕切りを抜けると、今度は右手にカウンター席があり、ずらりと椅子が並んでいる。その向こうには厨房が見えているのだが、そこには変わった白い衣装を着た短髪の男が背を向けて立っていた。


 厨房にいるシュウは集中しているのではなく、クリスからラウラが来たらすべて対応するから相手にしなくていいと言われている。店内から見えない場所ではあるが、シャルも厨房内で小鉢に漬物を盛り付ける作業を手伝っている。

 かつてのクリスもそうだったのだが、貴族としての高い矜持を持つラウラは遠い異国の人間であっても平民に簡単に声をかけられたくないと考えるところがある。「無礼である」などとシュウが言われることがないようにするための配慮だ。


「さて、もう少し砕けた感じで話をするわね」


 クリスが唐突に言葉遣いを変えた。

 そのあまりの変わりようにラウラだけでなく、ベラも目を丸くする。


「席はこちらよ」


 クリスが先導して歩き始めると、ラウラとベラも恐る恐る後ろをついて歩く。

 といっても、小さな店なのですぐにカウンター席を通り過ぎるのだが、そこでクリスが立ち止まった。


「こちらは『トイレ』ね。中には魔道具があるので、使いたいときは声をかけてくださいね」

「まあ、魔道具ですの?」


 ラウラは驚いて、思わず声を上げた。当然だ、トイレの魔道具など聞いたことがない。


「ええ、『トイレ』には陶器でできた壺のようなものがあるのだけど、蓋がついているの。扉を開けると、その蓋が勝手に開くようになっていてね、座って用を済ませると水が中を洗い流してくれるのよ」


 実際にボタンを押すとノズルが出てきて洗浄してくれる機能まで付いているのだが、クリスはそこまでの説明はしない。必ずしもラウラがトイレを使用するとは言えないし、無理に使わせるとクセになってしまう恐れがある。


「まあ、それはすごいわ! 是非使ってみたいですわ」


 水が洗い流してくれるという機能まで付いていることに感心したラウラは、更に魔道具としての水洗式トイレに興味を抱いた。収穫祭初日にエドガルドが言っていた、下水に流れる仕組みにつながるなどとはまだ思ってもいない。

 だが、クリスは少し話しすぎたと反省した。使ってみたいとまで言わせてしまったのだから、壁に取り付けられたボタンを見て質問されたりする可能性まで出てくることになる。


「いや、無理に行く場所でもないからね?」

「えっ、ええ……そうですわね」


 視線を定めることなくそのまま俯いてしまったラウラは、どうみても動揺している。

 ただ、生理現象のことなので必要ならばトイレへの案内はしないといけないと、クリスは肚を決めて座席へと案内した。



 テーブルの前に立つと、ラウラは言葉を失った。

 自宅ではとても大きく長いテーブルを贅沢に使って食事をするラウラも、様々な街の店で食事をする際は小さなテーブルで食べるのが庶民では普通だと知っている。それでもこれまで食べに行った店では、ラウラに八人ぐらいは同席できる大きさがあるテーブルが用意されていたので、クリスの店のテーブルを見てその小ささに驚いたのだ。


「こんなに小さな食卓で、料理がすべて並びますの?」


 我慢できずにラウラが怪訝な視線とともにクリスに尋ねた。

 だが、クリスにとっては想定内の質問である。


「うちが提供する料理は一汁一菜。主菜一品に汁物、主食となる『ごはん』の三つが基本なの。あとはお茶請けとしての『お漬物』かしらね……それも、小鉢程度の大きさだから、この程度の大きさでも問題ないのよ」


 クリスはいつものメニューの説明に絡め、ラウラの質問に回答する。

 特別料理と称してすき焼きなどを出す場合を除き、基本的には丸盆ひとつの上で完結できるように考えられている。


「それにね、貴族の食事は大きなお皿に少量の料理を載せて供されるでしょう?」

「ええ、たしかにお皿が大きいわ」


 クリスの言葉にラウラも同意する。

 裕福な貴族の料理は大きなテーブルに多数の料理を並べ、そこから食べたいものを指定すれば給仕係の使用人が取り分けて運んでくる。その取り分ける皿が大きいのに対し、指定する料理は複数あるのだから取り分ける量が小さくなってしまう。

 ただ、大きな皿に少量の料理を盛り付けるメリットもある。


「大きなお皿に少しだけ盛り付けられていると、お皿の余白を生かして美味しそうに盛り付けることができるし、食べる側は贅沢をしている気持ちになるものなの。でも、料理の数が少なくて食べる量が同じなら食卓も小さくても済むものなのよ」


 クリスが説明しながら椅子を引いて座るように促したせいか、ラウラとベラはようやく席に着く。


「確かに皿は小さくても済むかもしれないけど……」


 美味しいものはいろいろと手をつけたいと思っているラウラにはどうも納得がいかないらしい。

 甘いもの、酸っぱいもの、辛いもの、苦いもの……極端である必要はないが、味覚を変えながら楽しめるくらいには美味しい料理がいくつもある方が満足できるとラウラは思っている。


「大丈夫よ、うちの料理は美味しいから一品でも満足すると思うわよ」


 クリスは自信満々といった感じで、踵を返すとカウンター席の方に向かって行った。

 すると、揺れるクリスの髪からふうわりと花のようなとてもいい香りが漂う。


「あら、いい香り……」


 店の外は悪臭が漂っていたが、店内に入ると厨房から漂う香りばかり気にしていたラウラは、ようやくクリスの髪の香りに気がついた。だが、もうクリスは目に入る場所にいない。


「そうですわね……」


 同席していたベラも、クリスがいなくなったのであれば声に出しやすいのだろう。


 そのとき、ラウラはクリスに接して感じたことを頭の中で整理していた。

 春祭りの時期に会ったときと比べ、クリスはとても美しくなっていた。それに、当時は雪のような白さの髪をしていたが、今は少し青みがかっていてキラキラと光を反射するほど艶があり、しかもサラサラと風に流されていた。油を使えば香りも艶も出るが髪はべたりと重くなるものだが、クリスの髪はサラサラとした髪をしているのだからラウラには納得できない。どのように髪を手入れすればクリスのようになるのか知りたくて堪らない。


「戻ってきたら、いろいろと訊かなければいけませんわね……」


 そんな訊きたいことを頭の中で整理しながら、ラウラは独り呟いた。







 厨房を覗き込んだクリスは、小鉢に漬物を盛る作業を終えたシャルに声を掛ける。


「シャルちゃん、お茶の準備――お願いしていい?」

「はーい」


 元気に返事をして厨房に戻るシャルの後ろ姿を見て、クリスは開店準備にかかる。

 といっても、店の引き戸を開け、暖簾を掛けたら並んでいる客を店内に案内するだけである。


 ひたひたと草履の音を立てながら、クリスは足早に店の入り口に急ぐと引き戸を開く。

 店の前にできた行列の先頭はカンデ・オルギンだ。


「おはようございます、開店しますね」


 軽く頭を下げて、暖簾を掛けるといつもの鐘が鳴り響く。


「クォーンカーン……クォーンカーン……」


 一番に待ち構えていたカンデは、入口でクリスに尋ねる。


「こちらに来る時、護衛らしき人たちと馬車が通り過ぎていったが――」

「ええ、奥にある四人席に座って待っています。カンデさんが来たら同席させるようにとのことですよ」


 カンデはがっくりと肩を落とし、店に入って行く。

 ラウラと食事を共にするとなると、平民としてはゆっくりと料理を味わう楽しみが減る。ただ、クリスがラウラからそう言付かっているということであれば、同席しないわけにはいかない。

 やはり、貴族の言葉は平民にとっては命令になるのだ。







「お席はこちらです」


 カンデを案内したクリスは、そう言うとカンデと入れ替わるようにカウンター席の方に戻ってしまった。


「ラウラ様にはご機嫌麗しゅう――」

「いいから早くお掛けなさい」


 カンデが仰々しい挨拶を始めると、その途中であるにも関わらずラウラが制した。

 ラウラはカンデを案内してきたクリスに話しかけたかったのだが、カンデが長々とした挨拶を始めた隙に戻ってしまったので話しかけることができなかったのだ。

 ぷうと頬を膨らませると、ラウラは不機嫌そうにカンデを見た。


「こんなに食卓が小さいとは思いませんでしたわ……」


 平民たちが朝食を食べに来る店である。

 朝からそんなに多くの料理が並ぶことはないのだが、カンデはそこを指摘されるとは思ってもみなかった。


「まあ、朝食でございますし……」


 バツが悪そうにカンデが答えると、そこにクリスがやってくる。


「おまたせしました」


 クリスは手際よくお茶を配ると、続けておしぼりを広げ、ラウラに手渡す。


「食事の前に手を拭いてください。男性は顔を拭いたりするけど、お化粧が落ちるので女性はやめた方がいいわね――」

「あの、クリスティーヌ様。その髪の香りと艶はどのようになさってるの?」


 先程から考えてきた疑問を、今が好機とラウラが投げかけた。

 だが、クリスはこの場では返そうとしない。


「うーん、先に料理を注文してもらっていいかしら?」


 クリスは首を傾げて、ラウラに返事した。

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