第25話 カレイの干物(2)
パメラの目の前には、ペラッペラのカレイが二枚、
ペラッペラである。
大きさは、体長が十八センチ程度の大きさで、一番厚みのあるところでも一センチに満たない程度だ。
元々カレイといえば、海底の砂地に隠れ、目の前を通った小魚などを食べていて、その身は薄くて当然なのかもしれないのだが、食べるにはとても小さくて可哀想な気になってくる。とはいえ、既に火あぶりの刑にされて鰭を焦がしているし、一晩以上は何かに刺して干したような穴もあいているので、手遅れであることは間違いない。
「子どもの『カレイ』かしら……」
そう心の中で思ったつもりだが、声にでていたようだ。
しかし、これほどまでに小さなカレイを食べたことがないので、パメラは食べ方に困ってしまう。
「あら? 『アオサ』のお味噌汁、とても気に入っていただいたんですね!
もう一杯、どうですか?」
クリスは少し嬉しそうで、弾むような声でおかわりを勧めてくる。
この店は、ごはんはおかわり自由と聞いているが、味噌汁まではどうなのだろうと心配になるパメラだが、アオサの味噌汁は海辺育ちのパメラにとって、身体ではなく心に染み入るような味わいがあり、クリスの誘惑には抗うことができない。
「ええ、いただくわ!」
パメラは左手で味噌汁椀を持つと、クリスに突き出すようにおかわりをお願いしてしまう。
ちょっとこれは気合が入りすぎたと赤くなるパメラだが、アオサの味噌汁というものが出てくるまで時間がかかるのなら、このカレイにも手をつけてみたい。
だが、初めて見る魚なので、この小ささだと、どこまで食べられるかということも判断できない。
「それと、この魚なんだけど……どこまで食べられるの?」
パメラが指さす先には、2匹のカレイが手つかずで寝転んでいる。
クリスとしては、まだ熱いうちに食べてもらいたい料理だったのだが、仕方がない。箸を使って、食べ方を教えることにする。
クリスはパメラの丸盆に置いてある利休箸を取ると、食べ方を説明する。
「他の魚と同じで、背骨に沿って箸を入れていきます。フォークやナイフでもいいですよ」
うんうんと、パメラは頷く。
「そして、背中側と腹側に開いたら、背骨の頭の付け根を抑えて折って背骨を剥がします」
うんうんと、またパメラは頷く。
パメラも驚くほど、とてもきれいに背骨が剥がれている。
「以上です」
パメラはまた呆けた顔をし、クリスの顔を見る。
よく考えると、他の魚は背中、腹と食べてから骨を外すのだが、この魚の場合は最初に骨を全部はずしてしまっている。
腹骨や上神経骨、鰭のまわりの小骨はどうすればいいのか全然わからない。
「え? え?」
パメラが戸惑っていると、クリスは骨を外した身を使って説明する。
「この『カレイ』は背骨と頭以外は全部食べられるくらいの大きさのものをお出ししています。
そこのお醤油を少し垂らすと、また味が濃厚になって美味しいですよ!
騙されたと思って、そのままパクッといっちゃってください!」
とても軽いノリでクリスが説明するが、確かに子どもなら骨も柔らかいだろうとパメラはフォークで背中の身の部分を剥がし、口に放り込む。
「うっ!」
パメラが一度咀嚼すると、海の中で育ったカレイの身は、海辺の強い日差しを受けて干され、身のタンパク質をアミノ酸へ昇華させていて、その小さい身の割に恐ろしく濃厚な旨味で舌を襲う。また、肉の厚みが絶妙で、これ以上薄いと物足りないが、これ以上分厚いとたんぱく質がすべて分解される前に腐敗がはじまるギリギリのラインを保っている。更に、塩加減も絶妙で、海水につけて干すことで魚の身の味を完璧に引き出している。そして、鰭の部分は焦げているが、その焦げがパリパリとした食感と、仄かな苦味や香りを加えていてとても美味い。
だが、問題は風味だ。
口の中には焦げた鰭の香りや、軽いアンモニア臭がするのだが、その奥に感じるのは海辺の町の匂いだ。海岸で走り回ったり、砂浜で遊んだりするときの香りではなく、海から少しだけ離れた場所でたくさん干されている魚が放つ、潮と魚が入り混じった匂い……これは生まれ育ったタリーファの街の匂いだ。
「パメラさん! どうしたの? だいじょうぶ?」
クリスが慌ててパメラに声をかける。
だが、パメラも何が起きているのか気が付かない。
「どうして泣いてるの?」
「え?」
パメラはクリスの心配する一言に、ようやく自分が涙を流していることに気が付く。
だが、その涙は止まらない。
「あれ? どうしてかしら……なんで……」
パメラは溢れる涙を何度も拭き取るが、止まる気配がない。
目にゴミでも入ったのかと、慌ててクリスが新しいおしぼりを持ってくるほどだ。
パメラはそのおしぼりを受け取ると、目元をその熱で温める。
「ふぅ……きもちいいわっ!
ありがとう!」
おしぼりを目の上に乗せたまま、パメラは上を向いたまま動こうとしない。
とても心配そうに、クリスはその姿を見つめる。さっきから相談があると言われていたのに、少し冷たくしてしまったかとクリスは少し後悔していた。
「ご相談があるとおっしゃっていましたけど、お話をうかがいましょうか?」
営業時間中だが、そうも言っていられない。
ちょうど四人席に一人でパメラは座っていたので、クリスは正面に座る。
パメラは目を塞いで上を見ているので、クリスが座ったのに気が付かないようで、その目元を温めるおしぼりに癒されていた。
「ごはんもってきたのっ!
おかわりは自由なの!いっぱいた……」
細い腕に小さな身体でお櫃を運んできたシャルも、そこで何が起こっているのかわからず、一瞬とまってしまう。
特に、張り詰めた空気があるわけでもなく、ただ天井を見上げるような姿勢でおしぼりを目に載せた女性がクリスの前に座っているだけだ。
だが、その女性は鼻をすすり、小刻みに震え続けている。
「べてなの……」
そっとお櫃を置くと、音を立てずにシャルはさがっていく。
その様子を見ていたクリスは、ニコリと笑顔を見せて、だいじょうぶだよと声に出さず頷く。
気が付けば、朝三つの鐘が鳴り、店を閉める準備はシュウとシャルの二人が始めていた。
といっても、引き戸の外にかけた「めし」と書いた暖簾を片付けてカギをかけるだけの仕事だ。
この間、パメラは目におしぼりをのせたまま天を仰いでいた。
クリスがそこにいるのがわかっているが、なぜか涙がとまらなかったからだ。
だが、さすがに三十分近く経過すれば、パメラも落ち着きを取り戻してくる。目の上にのせたおしぼりを取り、正面に座るクリスに向かってパメラは笑顔を見せる。
「ごめんなさいね、あまりにいろんな想いが身体の中を通り抜けていったみたいで、感極まっちゃったみたいだわ……」
そう口に出すと、パメラは冷えてしまったお茶を飲む。
冷えていても、茶葉と湯の量がバランスがよく、タンニンの程よい渋みと、アミノ酸に由来する旨味が舌を包み込む。
「この店のお茶は、冷えていても美味しいわね……」
パメラのホッとした表情を見ると、その言葉は、お世辞にも嫌味にも聞こえない。
すると、パメラはポツリポツリと、想いを口にする。
「前にも話したと思うけれど、わたしと夫のエヴァンは海辺の街で生まれ育ったの。
ここから馬車で十日はかかる場所……タリーファって場所ね。
街は地引網で捕れる魚と、船で捕る魚……いろんな魚であふれかえっていて、例え貧しくても干物を作れるくらい、魚をもらえたのよ」
両手の肘をテーブルに乗せて手のひらに顎をのせると、パメラは遠くを見つめるように話を続ける。
「朝から漁を手伝って受け取る魚でお腹を満たすと、残ったお魚で干物をつくるの。
わたしの家も、エヴァンの家もたくさん魚を干していたの。ほとんどが、『アジ』や『イワシ』だったけどね。
船で捕ってきた『鱈」は、この街や王都みたいに遠い街で売るために干していて、とても臭かったわ」
クスリとパメラは笑う。鱈は自己消化する酵素を持っているので、死ぬとすぐに腐敗が始まるので匂うのだ。
「街は、魚を干す匂いと、潮の匂いが混ざってた……この、カレイの香りがそれだったの……
もう十年以上帰っていなくて、思い出しちゃったのよ……故郷の香りを……」
すると、パメラは視線を落とし、クリスを見つめると幸せそうな表情に変わり、ニッコリと微笑む。
「ありがとう」
「いえ、それはその『カレイ』の手柄ですから……」
クリスは少し恐縮して返事する。シュウも頭をポリポリと掻いているだけだ。
「わたしはね……この街の不潔で汚れた匂いに耐え切れなくなっていたの。
クリスちゃんも、シュウさんもわかるでしょう?
この街は本当に臭いの……」
パメラの表情は、目元から力を失うかのように悲しそうな顔へ変わっていく。
シャルも生まれ育った農村と比べると地獄のような匂いであることはわかっているのか、うんうんと頷いている。
この街で生まれ育ったクリスは少し複雑な表情をしているが、臭いことは事実であることは否定できない。
「空間魔法があればなんとかなるかと思って、今日はクリスちゃんに相談しにきたのよ。
空間魔法なら、うちの店を周囲から遮断して、臭いにおいを消し去ってくれるって思ってたの。
そうすれば、クリスちゃんや、そこの女の子みたいに髪に香水を振る楽しみもあるじゃない?」
クリスとシャルは香水なんて使っていないと思いながらも、いまはそれを言うタイミングではないことを悟り、口を噤んでコクコクと頷く。
「でも、もういいわ。
この『カレイ』が教えてくれたのよ……」
そこには冷めてしまったカレイがほぼ手つかずで残っていた。
白いごはんも、アオサの味噌汁も冷めてしまっている。
だが、誰もそのことを気にしておらず、パメラは話を続ける。
「わたしが一番求めていたのは、潮と魚が干される匂いが混ざった、故郷の香りだったのよ」
すると、パメラは少し遠くを見るような目つきに戻る。
「この街で十年以上かけて働いて、『干し鱈』もたーくさん売ったわ。
この街の人はみんなとても明るくて、やさしい人たちばかり……とても幸せよ」
そして、何かを決意したかのような表情に戻ると、シュウとクリスを交互に見つめて話した。
「でも、この十年で故郷のことを忘れかけていたの……わたしは故郷に帰りたいの!
エヴァンと相談して、帰省することに決めたわ!」
「ああ、すごくいいことだと思います」
シュウがパメラの言葉を受けて、返す。
十年経てばいろんなものが変わるのが日本だが、
人はそれなりに年齢を重ねているだろうが、必ず会えば思い出し、昔語りをし、楽しく笑って、心を癒すことができるはずだ。
「あら、ごめんなさい。
ほとんど食べていなかったわね……どうしようかしら……」
パメラはようやく、すべての料理が冷め、お店も今日の営業時間が終了していることに気がつく。
だが、このまま帰るのは故郷の街の匂いを思い出させてくれたカレイの干物がもったいない。
「ちょっとまってください」
同じように思ったのか、シュウはそう言うと、カレイがのった皿を持って厨房に戻っていった。
「どうするのかしら?」
「さぁ?」
「きになるの……」
パメラとクリス、シャルは厨房へと入っていったシュウを見つめていたが、5分もたたずに、シュウが帰ってきた。
皿の上には、ほぐしたカレイの干物を混ぜて握ったおにぎりが4つ並んでいる。
「おにぎりにしてきました」
シュウは、そう言うと、茶色と黒っぽい色をした竹の皮をテーブルに敷き、その上におにぎりを並べる。
水で濡らした布で拭いた竹の皮は艶々としていて、ほんのりと竹の香りも漂ってくる。
「これは竹の皮……ってなんで言うんだ?」
その竹皮でおにぎりを包み、同じ皮でできた紐を使ってくるくると括ると、その包みのことを説明しようとするのだが、この
「『竹』の皮よ」
クリスが助け舟をだすと、シュウはすまないと片手をあげて礼をして話す。
「防腐防臭効果のある『竹』の皮で包んでありますが、早めに食べてください」
パメラは大事そうにおにぎりの包みを受け取ると、会計を済ませ、元気よく干物店に戻っていった。
そのうしろ姿を見てシュウがつぶやく。
「タリーファの街に帰省できるといいな」
「だいじょうぶ、あのおにぎりがあるから」
クリスはそう言うと、シュウの腕にしがみついた。
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