24人目 男女に捧ぐ       ☆☆☆☆☆

 女が居た。この女には彼氏が居た。

 その彼氏は、恋人のことになると心配性が発動する性格ではあったが、女のことを一番に考えてくれていた。男は煩悩の数(百八つ)だけ性癖を持っており、そっちの営みに関しては、毎日のように新しい快哉を叫んでいた。

 変態に付き合う者もまた変態、である。


   * * *


 付き合い始めた頃は、お金の有無なんて気にしなかった。一緒に居るだけで愉しかった。誰でも一度は経験する、恋人との心情である。けれど長年付き合ううち、女は男に将来性を感じなくなっていた。『優しい』とか『好き』とかだけでは、男女の関係はどうにもならない。女の人生において、『不安』こそが大敵だった。『不安』を振り払って生きたいと切に願っていた。

 だから歳を重ねるごとに、『不安』が勝っていったのだ。

 また、女の性格は割とルーズで、約束を破ることも多々あった。そういった事情が交じり合い、女はある時、自ら別れを切り出した。

 自分をどこまでも好いてくれている人に応えられない情けなさ。次に約束を破った時の言い訳。楽しいはずの予定は、いつからかプレッシャーになっていたのだ。

『あなたの彼氏をやめようと思う』

 考えあぐね、考えぬいた年末――出張中の男に送ったメッセージがそれだった。

 男は『それで後悔しないの?』と返してきた。

 女は『わからない』とすぐに返した。

 

 ――曖昧な会話では、事実上の『別れ』を告げられず、年を越した。

 帰省していた男から土産をもらい、一緒に初詣にゆき、とうとうひと月以上も別れ話には触れなかった。

 二月。女は、男の家へ呼ばれた。いつもどおり雑談をして、いつもどおりに夕飯を作って、少しだけ飲酒をした。

 同じ一室に居るのに、互いの距離はロンドンとパリくらいあった。同じ布団で寝ているのに、ツインベッドのようだった。女が避けていたのだ。また、男はそれに気づいていたのだ。このまま自然消滅してしまうのだろうか。あの話を避けていた翌日、とうとう男が切り出してきた。

 ふたりの関係を続けるか、終わらせるかと。


 女はすべてを伝えた。このまま好きでいられる自信がない、という導入から。

 一方、男は床を見据え、黙って聞いていた。

 これでは、女の一方的な感情で終わってしまうだろう。

「そっちはどう思ってるの?」

 女は半ば、答えを知りながら聞いていた――男の気持ちを――男の答えを――これからの自分たちの行く末を。

「お前がそう言うなら、俺はなにも口は出せない。それで……良いよ」

 男の返答を皮切りに、会話はぶつりと途切れ、狭いワンルームには終わりの見えない沈黙が漂った。男は机に突っ伏し、女は気疲れから布団の上で寝てしまった。


「――もう十八時だぞ」

 男の声で女は目覚めた。青が黒に変わった窓の外は、別れの刻を表していた。けれど女は、しばらく帰り支度もせずに布団の上に座っていた。スクランブルエッグのように混ざり合った感情の中、

「……駅まで送ってって」

 女は最後のお願いをした。

「なんで……ひとりで帰れるだろ」

 面食らった男の呆れ果てた表情は、想像の範囲内だった。仕方がない――女はしょんぼりと帰り支度を始め、どれほどか経ったあと、

「わかったよ。行きゃあ良いんだろ」

 男がヤケクソ気味に女の要求を呑んでくれたのだ。こんなバカなお願い無視して、追い出せば良いのに。男は最後までお人よしバカだった。


 ふたりは寒風に吹かれながら、駅に足を向けた。けれど男は、さっさと歩き出してしまった。今まで小さな歩調に合わせてくれていた男が、どんどん離れてゆくのだ。女は必死に小走りでついてゆき腕を掴んでみるが、それも振り払われてしまう。

 別れを切り出した女のために、わざわざ駅まで付き合ってくれている男。今思うと、残酷な要求だったのかもしれない。

 人気のまばらな改札に着いてふたりは足を止めた。女は改札の前で、最後に軽く手を振ったが、男はポケットに手を突っこんだまま、なにも反応しなかった。

 いつもは背中が見えなくなるまで見守ってくれていた男は、女が改札を抜ける前に、もう背を向けていた。


 ここまで無表情を突き通していた男。今どんな顔をして雑踏の中に居るのだろう。

 けろっとして笑っているのだろうか? 泣きながら帰宅しているのだろうか?

 判断材料は、帰宅途中に必ず送られてくる『またね。気をつけて帰って』というメッセージが届かないこと。


 この選択が正解だったのかどうか、定かではない。

 けれど、である。

 兄と妹、親友、家族――ふたりの関係性が、これのどれかだったら上手くいっただろうか? 女は一片の後悔と、大きな未来を抱いて電車に乗りこんだ。

 二度と降りることはない、日本の切れ端で長息をつきながら。

 なに、次の相手とは上手くいくさ。

                                   了

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