11人目 高速バスの女      ★★★★☆

 江戸時代の旅人は、多い時だと十里も歩いたそうです。

 ですが現代では、移動方法は徒歩のみならず。

 自家用車、在来線、新幹線。あるいは、高速バス。

 遠い目をしながら――『さぞかし、楽な旅路なのだろうなあ』


   ✽ ✽


 数年前のゴールデンウィーク。私が昼行ちゅうこうバスを利用したのは、東京ジャーニーのためでした。ですが、バスはいわゆる格安の交通手段です。新幹線とは違い、車内は左右の二列シートで、座席の間に肘掛がないタイプでした。

 車内にいささか不安を覚えつつ、乗車手続をして予約したシートに落ち着き、長旅に向けた準備をしていると、私の隣――窓側に座ったのは、二十代前半の顔立ちをした女でした。隔たりのないふたつの席で、隣同士になる他人。肘掛がない以上、そこにある壁は互いの『忖度』でしょう。

 車内アナウンスとともにバスが動き出し、意識がなくなりそうな旅路が始まりました。さて、これから乗客たちは選択しなくてはいけません。時間を無下にするか、有用な財産にするか――五時間以上の旅路で、どちらかの選択を。

 眠気のなかった私はイヤホンをしたのち、電子書籍リーダーを開くと、目が回りそうな活字を読み始めました。

 バスが新東名しんとうめいに入っておよそ十分。なにやら横から等身大の圧迫を感じ、ふと窓側に目をやると隣の女が睡眠していました。それもまた生理現象ですし、なんの変哲もない日常です。ただひとつ――姿を除いて。


 隣の女は靴を脱ぎ捨て、膝を抱え、背中を丸め、窓側を向いた状態で寝ていたのです。――もう少しわかりやすく言うと、

【狭い縦幅(座席)に対して、広い横幅(人間)が収まろうとしている】

 という状態なのです。そもそも、物理的に収まらない体勢なのです。ですから、これから起こる、睡眠時無意識領土侵犯は目に見えていたのです。

 ――案の定。私の席は、時間経過とともに女の背中で浸食されてゆきました。

 では、睡眠時無意識領土侵犯は果たして生理現象なのでしょうか? 否!


 皆さんがなにを言いたいか、わかります。なぜ私が、女の無礼を黙って受け入れていたかでしょう。確かに、傍観者からすれば『注意しろ』が正しい答えなのです。

 けれど私は事を荒立てたくないのです。もっと言うと、どこぞのバカ女と会話なんてしたくないのです。公でこんな愚行に及ぶ女と、まともな話し合いは不可能なのです。名駅めいえきから乗ったということは、この女は金山かなやまに入り浸る田舎モンなのです!

 私は半ばパニックを起こし、自分を棚に上げて、圧倒的偏見と圧倒的風評被害をまき散らしながら、防御手段を思案しました。

 インターセプトに使用できるはずのカバンは、もう入れこむ隙間がありません。私にできるのは身を挺したブロックのみ。が、この女――本当に夢の中なのか、はたまた狸寝入りなのか? 一瞬起きて、もぞもぞして、また同じ体勢に落ち着きます。逆にその寝方、ツラくないの? かなり斜めっていますが。

 静かな攻防が繰り広げられること二時間弱。バスはサービスエリアへ到着し、ブレイクタイムに入りました。私は後半戦がないことを祈り、用を足して車内へ戻ると、隣の女は同じポーズで微動だにしていませんでした。むしろ、さっきより侵犯レベルが増えている気がします。

 もうやめて……!

 ここまでくると私の戦意はなくなっています。げんなりしながら対抗意識を捨てたあとは、座席の中央に座っていても女の背中が当たるような状態が続き、たまに道路の継目で揺られた衝撃で女の位置がずれ、小突かれるようなストレスを与えられ続けました。


   ✽ ✽


 私は思うのです。まともな人間が浮世で生きられるのは、こういうおかしい人間の存在によって、均衡を保たれているからなのだと!

 女はギバー(与える人)で、私はテイカー(受け取る人)だったのだと!

 バスで経験した多大なストレスは、『有用な財産』になったのだとー!

 自分を正当化し、理性を保つ悪例。


 なにはともあれ、東京に着いた現実を喜びましょう。楽な旅路ではありませんでしたがね。徒歩よりマシ、というレベルです。ごめんね、江戸時代の人たち。

 行きから前途多難のゴールデンウィークは、

【12人目 隣人は密かにシコる】

 に続きます。


                                   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます