すべての王国の終わり Ⅲ

 輝く月と共に、カンパネルラの銀線が力なく垂れていくのが見えた。


(これ、で)


 その光景を見た瞬間、虚脱感と共に、ヴェルヌの身体がぐらりと傾いだ。

 総身が凍てついていた。指を動かすことすら能わず、惨めにカンパネルラの上を転げ落ちる。頬の皮膚が氷に張り付き、自重に伴って剥がれ、また張り付く。

「ぐゅっ、ごぶお、えっ」

 体が回転するたびに、むき出しになった左手の筋繊維がカンパネルラの霜甲と癒合し、体重に引かれてぶちぶちと引き千切れる。見えない死の神殿、その階へと突き落とされる贄のように。


(これで、エカチェリーナさんには――)


 霞む目に赤吹雪の空が映った。

 空には線条があった。カンパネルラの銀線が、再び広がっている。

 ヴェルヌの吐息がひゅっと窄まった。

 死の銀閃を掻い潜り、無謬の砲撃を突破し、砲弾を制作するための吸気口ごと氷爆石の爆轟を内部に炸裂させた。それだけだった。事この局面に至っては、生物としての規模が圧倒的に異なるという前提すら問題にならない。ただ、月穿ちカンパネルラの有する核――雪花鉱に届かなかっただけだ。

 氷惨は半有機生命であり、内蔵する雪花鉱の破壊以外に活動を停止させる術は存在しない。カンパネルラは氷の砲弾を鍛造・装填する能力を一時的に喪失したのみであり、磁性流体――銀線の制御能力は依然として健在である。カンパネルラの放つ流銀が震え、這いつくばるヴェルヌの命を刈り取ろうとした。


 故に、この局面までがヴェルヌの予観の内だった。

 

 その未来は既にジュール・ヴェルヌの――『鸚鵡貝』ノーチラスの手の内に握られている。


「――ムラマサさん!」


 その声に応えるように、

 氷気を、

 黒い疾風がつんざいた。

 

 カンパネルラの霜甲が融解するほどの速力で加速している。

 氷の台地を踏み抜きながら、接地と共に刀を逆手で旋回させたのが辛うじて解った。その一瞬でさえも、次の攻撃のための中継の動作でしかない。

 瞬間、竜巻じみた剣圧が突沸し、ヴェルヌを取り囲もうとしていた銀の触手が寸断された。ぶつ切りとなった磁性流体の断面は、燃える石炭のように赤熱している。

 カンパネルラの有する磁性流体は界面活性剤・溶液・強磁性の微粒子の三要素から成立し、磁力線に沿って形状を変化させる。しかし、ムラマサの音を越える斬撃は摩擦と衝撃波によって溶液を蒸発させ、同時に生み出される熱が磁性粒子を減磁させた。よって、磁力で編まれたカンパネルラの銀線が再結集することはない。氷惨たる月穿ちカンパネルラに仮に言語機能があったのならば、はセンシ=ムラマサを正しく天敵と称しただろう。

 文字に違わぬ死線を風となって跳び越えながら、ムラマサはヴェルヌを抱えてカンパネルラの殺戮圏より離脱した。

 

 そして、その跳躍と交錯する影がある。

 上方からの風圧。吹雪を貫いて降り注ぐ、破壊の質量の群れが。

 それは砲撃だ。

 カンパネルラの霜甲を粉砕し、柘榴型に切削している――


                  +


 氷爆主砲≪高軌の橋≫ハイペリオン付近、ブリッジ。

 ネッド=スナイデルはバルト海戦線所属戦艦『帰鳥』リントゥーコトの射撃中央統括として、観測塔より≪高軌の橋≫の旋回手や仰俯手、砲手に指示を出し続けていた。

 ヴェルヌからの通信が途絶した時点で、オーメスは即座に機甲戦術を実行した。随伴歩兵――ムラマサがカンパネルラの砲撃から艦船を保護し、返す刀で『帰鳥』の艦砲射撃により標的を粉砕する。ムラマサはネッドの知る限り最高の歩兵だ。どのような機甲戦にも追随可能な速度と、どのような兵器でも両断可能な剣腕を併せ持っている。


(問題は、そんなヤツが現状オーメスと同じくらいの不穏分子ってことだが――カンパネルラのアホが暴れ回っている以上、ムラマサは約束を果たすだろう)


 月穿ちカンパネルラは明確に軍事目標を共有した砲撃を行っている。ガリアに続くアラスカへの襲撃はエカチェリーナを狙ったものとしか考えられないし、『雷帝』がこの世から喪われた場合には、世界政府の勢力版図は一気にその様相を変えるだろう。

 だが、如何なる方法によってか、ヴェルヌがカンパネルラの砲撃を停止させた。したがって、ネッドたちは一方的に射線を確保できる。

 そして、≪銛撃ち≫の前に射界を差し出すということは――


「≪銛撃ち≫より一番砲塔、弾着送れ」

弾着確認ブレイク・オーバー!』

『続いて『帰鳥』より≪銛撃ち≫、FFE効力射確認!』

「第二砲塔は右旋回プラス2度、第三砲塔仰角プラス4度で斉射!」

 

 矢継ぎ早に射弾修正が行われる。彼の必中の異能は、近代射撃概論の基礎を覆して余 りあるものであったが、ネッドは砲術や射撃理論を同時に誰よりも深く理解しようと努めた。なぜなら、ネッド自身もまた己の≪銛撃ち≫の異能の本質を理解していたからだ。それは短絡的な見地では彼自身の特殊な感覚質による福音だと解釈できるが、同時に彼のみが理論も実証も破棄して認識できる一種の力学とも言える。そして艦隊戦において、必中の艦砲射撃というものは存在し得ない。だが、『必中』の異能を一般的な理論に落とし込み、他の射手や観測手と共有できるとするならば――いつ終わるとも知れぬ氷惨の戦いに備え、彼自身も全容を識別できないその理論を後世に蓄積・解明できたとするならば? 

 

 「戦術理論の実証蓄積を私の艦でやるとはね。見かけよりずっと優秀な軍人だってよく言われないかい」

 艦橋からその様子を見ていたオーメスは、ネッドに煙草の箱を投げ渡す。

「気利くじゃねェか、バルト海の姫サマ。アンタのお気に入りを助けたンだからこのくらいの役得はあっても良いと思ってたところだ」

「ンフフ。『鸚鵡貝』のお気に入り、の間違いじゃないのかい」

「どうだかな」

 ネッドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「オレは優秀な兵隊だからな、互換性のない『英雄』なんてモンは信じてねェんだよ。だってのにどいつもこいつもヴェルヌを持ち上げやがる」

「ンフフ。ヴェルヌ君は散華のガリアを倒した張本人だろう。この期に及んできみら自身がプロパガンダを否定するのかい?」

 オーメスは薄く唇を曲げて、ネッドを嘲弄した。

「誰しもがテメエのねじ曲がった世界観通りに動いてると思うなよ。オレは友軍を助けてるだけだ――おい、効力射どうなってる!」

『斉射、全弾直撃! 着弾時間四十五秒!』

「上出来だ! 次弾装填急げ、射弾修正は最低限でいい! 『祈凍宗』フロストハンズの神殿を盛大に壊し奉って差し上げろ!」

 ネッドは怒鳴りつけてから、オーメスをゆっくりと振り返る。

 狼じみた面に潜む、群れからはぐれた獲物を憐れむような瞳だった。

「なあ。現実を……見た方が良い、氷将補さん。今オレらが物語を背負わせようとしているのは、空想科学小説とメシが好きな十八のガキだ」

 ≪銛撃ち≫はもはや今の砲撃の結果を顧みることすらしない。

 必中の未来は決定されたもので、ネッドの思考は既に次弾の射撃へと移行していた。すなわち、どのようにムラマサを援護し、重傷だと考えられるヴェルヌを退却させるかを。ネッドにとって戦場はもはや過去と同じような自己表現の場ではなく、ただの手段に過ぎなかった。

「英雄なんて、人間には役不足だ。アイツだけじゃない。誰にとっても」

「彼自身がそれを望んでいる」

「違ェよ。結局の所アンタも、ヴェルヌに絆されてるだけだろ。やんなきゃいけねェことやってるだけの奴に、自分の願いまで載っけンなよ」

「それはひょっとして、私のことかい。スナイデル氷佐」

「それ以外ねェだろうが。オレはアンタがこの馬鹿げた神話をブッ壊してくれるんじゃないかと内心期待してたんだがな――このままじゃアンタ、ヴェルヌの敵にすらなれやしねェぜ」

「なるほど、きみの論旨はよく理解したよ」

 オーメスは煙草に火を点け、ゆっくりと喫う。そしてこともあろうに、本来吐き出すべき煙をゆっくりと飲み下した。ぎくん、とオーメスの表情が強張る。

「ごほっ、げぇ、ほ!」

 一人咽るオーメスの奇行を、ネッドは困惑した表情で眺めた。

「いかれてる……クスリでもやってるのか?」

「まあ、聞いてよ。解るだろ、私にはご覧の通り自由意志があるんだ。ニコチンたっぷりの煙も呑み込めるんだ。戦争が要請する物語性なんてどうでも良い。すべてを自分の意志で決めることが出来る。文字通り、全てだ」

 オーメスはギャレーから水筒を引っ手繰って、乱暴に飲み干した。

「私は、散華のガリアを倒した英雄じゃない、ただのジュール・ヴェルヌを見て手を貸そうと思っただけだ。きみの言う所の十八の子供に協働することを、私は私自身の意志で以て決めた。そして」

 彼女はひょいと火の付いた煙草を自らの口の中に放り込む。

「おい!」

 ネッドの掣肘にも動じず、そのまま紙巻を飲み下した。咳き込み、膝を折る。だがその表情に宿るのは一層の鬼気だ。

「私の意志で、何の利もなく、彼の敵に回ることだって出来る。これほど馬鹿げていて気持ちのいいことがあるかな?」

「何が言いてェ」

「私は皮肉なことに、小説家と出会って物語から解放されたんだ」

 ネッドは艦橋の柱を蹴飛ばした。がろん、という音だけが虚しく木霊する。

「くそっ。どいつもこいつも、氷惨を倒したくないのかよ」

 忌々し気な表情で彼は毒づく。

「とにかく今は、オレ達でカンパネルラをやらなきゃ始まらねえだろ。このまま砲撃を続けて――」

「……いや」

「ああ?」

「月穿ちの様子がおかしい」

 オーメスの視線の先には、確かに月穿ちカンパネルラが目視できた。

 だが、その姿はもはや銀の四角錐ではない。

 カンパネルラはひしゃげた霜甲を覆うように、流体の金属を飴細工じみて広げた。ゆっくりと――銀の涙滴を横に倒したような、歪な形状に変貌している。

 それはさながら、海に浮かんだ槍の穂先にも見えた。

「……砲撃が停止したのなら」

 オーメスは囁くように呟いた。

「カンパネルラは砲塔形成に費やしていたリソースを、別の作戦行動に転用できるようになる。いま、奴が最も排除したいのは『帰鳥』の砲撃じゃないのか?」

 ネッドは弾かれるように顔を上げる。

 その視線の先には、槍の穂先のように変形したカンパネルラが。

衝角戦術ラムアタックか! こっちに体当たりしてくる気満々じゃねェか」

「ううん、参ったな。ぶつかられたら木っ端微塵だよ」

「こっちの最大戦速で月穿ち野郎をちぎれねェのか」

「無理だね。もっと海戦の勉強をしなよ、砲撃手さん」

 オーメスは鼻を鳴らしてネッドをあざ笑った。

「カンパネルラの砲撃能力は異常だ。恐らくは索敵をするための『波長』のようなものを放てるんだろう――赤吹雪が酷くなれば、我々は視界の不明瞭な中で一方的に追撃されることになる。背を向ければ終わりだ」

 ネッドはこの世の終わりのような顔をオーメスに見せた。

「指揮官が敗戦の理由をしたり顔で語ってどうすんだよ。どうせ策はあるんだろ」

「無論だとも。我々は前進してカンパネルラを迎撃する」

 

 オーメスがそう言うと同時に、『帰鳥』の付近のフリゲート艦が青色の光を打ち上げた。青色の噴煙がたなびく信号弾だ。ここバルト海戦線において、青色の信号弾が示す符牒は――『対象の保護、安全』。


「ムラマサか」

 ネッドは牙を剥きだした獣のように低く唸った。

「ヴェルヌくんを回収してくれたね。これで我々もあれを使える」

「まさか、テメェ」

「そうとも。『銀の女』アルテミスとやらだよ」

 オーメスは薄く唇をまげた。

「皮肉だとは思わないかい? 故郷を失った少女――マゼンテ=ネーヴェの生み出した火矢で、『祈凍宗』の王国は終わるんだ」


                   +


 アラスカへと向かう『宙駆け』の中では、マゼンテは端正な顔を思考に沈ませる。コンセイユは車内の激しい揺れにも意に介さず眠っている。光の差さない、鋼の棺のような『宙駆け』の中では、ネモだけが話し相手だった。

「ネモ」

「うん?」

 ネモ・ピルグリムは凍槍の整備を止めて顔を上げた。

 淑女のため息のように、圧縮された氷気が槍の口金から漏れている。

「ええと……突拍子もない質問なのだけれど、もしも、もしもよ。貴女の能力で『銀の女』を防御しなければならないとしたら、どうするかしら?」

「ええっ」

 ネモはおぞましいものを見るような表情をした。

「あんた、あたしがこないだ雑誌買うのに借りた1ドル返してないのまだ根に持って……」

「ネッドさんならともかく、私をそこまで狂暴な輩だと思ってたの? そもそも、言われて初めて貸してたの思い出したわよ」

「マジか。じゃあ返さなくてもいい?」

「良い訳ないでしょう。『鸚鵡貝』たる者、常に誇りを持たずに何としますか。それより……」

「わかってるって。相変わらず細かい奴だなあ」

 ネモはこれ以上墓穴を掘らない内に、慌てて話題を変えることにした。

「『銀の女』は、先端から出て来る金属の噴流がヤバいんだろ? あたしだったら、ジェットを乱しやすいように、ウエハースみたいな構造を何枚も重ねて破片を炸裂させるかなあ」

「一考の価値はあるけれど、味方を巻き込む危険性があるわね。他には何かない?」

「ううん……じゃあ、そもそも噴流が届かないように、装甲と内部機構の間に空間を作っとくとか」

「距離をそのまま装甲とみなす設計思想ね」

 マゼンテは青みがかったブルネットを弄る。

「そのどちらも、カンパネルラの能力なら可能であってもおかしくはないわ――けれど、オーメスがそれを理解していないわけがない」

「あんた、『銀の女』の作り方をあのクソ女に教えたのか?」

「いいえ。けれど、彼女から『銀の女』の問題点を聞かれたわ」

「あの夕飯の時か」

 ネモは毒虫に咬まれたような苦々しい顔をした。

「あいつがどんだけろくでもないことを考えてるのかは知らないけど、『銀の女』はカンパネルラに通じないんだろ。だったら他のどんな砲弾でも――」

「……いいえ」

 マゼンテはしかし、ネモの答えを否定するように声を低く潜める。

 その瞳は遠く、バルト海の戦場に思いを馳せるような深い闇色をしていた。

「確かに、私も彼女のことは憎いわ。けれど、『銀の女』しかないのよ。もしもオーメスがそれに気付いているなら」


 彼女は信じている。凍土に刻まれた、英雄たちの物語を。

 幾多の王国が終わろうと、なおも残りゆくその轍を。


「私たちは必ず、月穿ちカンパネルラに勝てる」


 そして、エカチェリーナ氷佐を助けられる――。

 ネモはその言葉を聞いて、まっすぐマゼンテを見詰めた。

 オーメスがマゼンテの失われた故郷を貶めた事実は、どれほど時が経とうとネモの心に打ち込まれている。それは氷の大地に穿たれた鉄の鏃のように、抜けることはない。例え彼女がカンパネルラを殺そうとも、その物語は永遠にネモ・ピルグリムの内に彫刻される。


(マゼンテが、奴を赦したとして)


 ネモは時のあわいにマゼンテの美しい黒髪に手を伸ばそうとして、列車の振動で我に帰った。戒めるように、もう片方の手で自分の腕を掴む。己の節くれ堅くなった醜い身体を思い出して、自分自身を罰するかのように。


(あたしも彼女を赦すべきなのか。それが、美しい物語だって言うなら)


 ネモの唇が動こうとした瞬間。

 がごん!と、銅鑼をまとめて叩き割るような轟音が響いた。

 マゼンテが息を呑み、コンセイユが跳ね起きる。


「二人とも伏せろ!」


 ネモは反射的に床に手を付き、『硬化』を発動する。体表を『宙駆けタラリア』内壁の鋼鉄で鎧い、二人に覆いかぶさるような盾となった。

 更にがご、がぎり、と轟音が投射される。何か重量のある物体が、列車に直接体当たりを仕掛けているような音声。次々に『宙駆け』の装甲が陥没し、鋭利な突起物が車内に刺し込まれている。

 それは紅吹雪を纏った金属製の衝角――いわば、だった。

 吹雪が一気に流れ込み、ネモたちの頬を刺した。闘士型の襲撃ではない。重量上、『宙駆け』の速度に追随することはあり得ないからだ。

 故に、この音の発生源は――

駆導型ストランドだ!」

 駆導型。馬にも似た、高速機動能力を有する基構分化氷惨の一種。

 ネモがその名を叫ぶと同時に、視界が一気に弾き飛ばされ、回転する。

 車体が横転しているのだと理解した時には、ネモはコンセイユとマゼンテと纏めて鋼鉄の棺の中で攪拌されていた。時速300km/hの物体の内壁に叩き付けられれば、人体は容易に損壊する。ネモは二人を繭のように抱きかかえ、運動エネルギーの暴走のままに上下左右に吹き飛ばされる。金切り音と吹雪――そして駆導型による打突の残響が攪拌され、音の爆弾がクラッカーのようにネモの脳内で弾けた。

 回転。回転。

 車体の上部に吹き飛ばされる。その一瞬を見据え、ネモは二人を抱えたまま、硬化させた鋼鉄の貫手を突き出す。あまりにも容易く、鉄の破砕音と共に装甲が弾けた。慣性に従って、ネモとマゼンテ、そしてコンセイユは車内から弾き飛ばされる。

 ぼう、と吹き流される吹雪の音。狂い吹く赤吹雪の大地を削りながら、ネモは己の身体を橇のようにして雪を削った。雪煙と氷片が肌を叩いている。

 マゼンテとコンセイユは喋らない。死んでいるのでも怯えているのでもなく、舌を損傷することを恐れているのだ。つまり、ネモにとってはそれが全力を出す理由となる。硬化させた肘を接地させる要領で勢いを殺し、必死にマゼンテとコンセイユの小さな体をかき抱いた。


「う、お、お、おおおおおおおお!!」


 ”船乗り”は咆え猛り、肘を更に硬化させる。駆導型と同様の金属質の突起が形成され、隊装を突き破った。それがアイゼンのように、雪を刺し削りながら滑走を減速させる。ネモの脳内に自らの組織を急激に摩耗させる激痛が走ったが、歯茎から血が出るほどに歯を食いしばり、更に足にも力を籠めた。スパイクのような硬質な組織が軍靴を破って形成され、突き刺し、雪への抵抗を更に強める。

 ネモの咆哮に応じるように、滑走の勢いは徐々に衰えていく。

 そして、ネモの背中が冷たいものにがぐん!と当たった。

 振り返る。

 横倒しになった『宙駆け』の躯体が野ざらしになっていた。

 鉄の獣の死骸のように、火花の血を散らして動かない。

「か、緩衝材に……ごほっ、なってくれたのね」

 息も絶え絶えと言った具合のマゼンテが、やっと小さく呟いた。

 コンセイユも咳き込みながらネモの膝から這い出す。

「……死ぬかと、思ったぜ。オマエも大概出鱈目だな、ピルグリム」

 辺りを覆い隠していた雪煙が、徐々に晴れる。

 ネモはそこでやっと、マゼンテとコンセイユを見た。

 目立った外傷はなかった――多少の傷ならコンセイユが治癒させていただろうが、ネモはまずその事実に安堵し胸を撫で下ろした。

「礼の一つくらい言って欲しいもんだね。お医者さんってのは……礼儀知らずでもなれる職業なのかな」

 コンセイユはにやりと笑ってネモに手を差し出した。

「オマエみたいなバカは嫌いじゃねえ。飯作るのも上手いしな」

 ネモはその手を取り、鉄分を吸収して重量の増した身を起こす。

 辺りは装甲板や軌条の残骸が飛散し、鉄の恐竜の墓場のような有様だった。


 そして、周囲にはゆうに十騎を越える駆導型の群れが身を覗かせている。

 駆導型はいずれも、芯から紅い霜甲を纏っていた。通常の氷惨の霜甲のような、薄く紅がけぶったような色とはまったく異なっている。

 応戦しようにも、唯一の武器と言ってもいい凍弩や凍槍は無論車内の中に置き去りにされており、そのほかの装備も当然使用不能だ。

 アラスカへの帰還にあたって、襲撃を想定していなかったわけではない。だが、通常の氷惨の最高速度では、『宙駆け』に追いつくのは不可能であったはずだった。

 絶望的としか言いようのない状況に、ネモは呆然と笑う。

「ありえない。何なんだこいつら、この色……しかも、いきなり――」

「嘘だろ」

 どさりという物音。

 見ると、コンセイユが膝から崩れ落ちていた。

「こんな所に、居るわけがない。永久凍土に引きこもってるはずじゃなかったのか」

「……コンセイユさん?」

「ネモ」

 マゼンテが呻くように呟き、吹雪の向こうを指さした。

 揺らぐ氷の傍らに、人影がある。

 。氷惨の一大勢力圏であるロシア中部の、まさにその中心で。


 それは武骨な氷の甲冑を纏った、茫洋とした人型だった。

 人類に遍く脅威の中でただ一人、『凍土』の名を冠することを許された騎士。

 目視するだけで理解できる。その体躯の中に、幾千もの死と暴力が凍っている。

 ロシア戦線がなぜ凍血城塞と呼称されることになったか――その因果の元が、今まさにネモの眼前にっていた。


「栄光、個体だ。こいつは……」


 コンセイユ・ドナテッロの唇は――あるいは縋るように、その名を導く。

 彼ら『冬の騎士』と佇まいを同じくする、騎士たるその個体の銘を。


「不破凍土スヴェントヴィト」


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