2日目-1

 枕が変わるどころか星が違う。月は、27日かけて自転する。地球時間の一日、24時間には夜がない。寝袋にすっぽり入ったが寝つけなくて少量の眠剤入りゼリーにお世話になった。何とか少し眠ることができた。

 耳に歌が流れる。宇宙センターからの目覚ましだ。ラジオ体操の歌。そうだった、作業前体操が義務づけられていた。ラジオ体操はどうしても学校を思い出してしまう。見本がないとうろ覚えだ。義姉はと見ると完ペキで、今までに見た誰よりもキビキビしている。さすが月。『体が覚えてんだよねー!』そうかこの人は、ヤンキーでも学校に行っていて、なんだかんだで夏休みのラジオ体操も通っていたんだ。

 今日は何もすることがなかった。スマホがないのが痛い。昔の人は暇な時はどうしていたんだろう。仕方なくぼくは暇つぶしを考える。大人はネットを使わない工夫をやたら喜ぶ。のせられるみたいで実にシャクだ。ネットのない社会なんてもう現実的じゃないのにどうして体験させたがるのか、ぼくは理解できない。でも今は、目の前の暇が最大の敵だ。

 昨日使った、サンプル採取のための火ばさみがあった。ぼくは地面に、大きな四角を描く。

『何やってんの』

 義姉が寄ってきた。

「暇つぶしです。マンガを描いてみようかと」

『えっ、マンガ描けんの』

「わかりません。4コママンガなら、とりあえず完結させられるかと」

『へえー、カケルくん人類で初めて月にマンガ描いた人、って教科書に載っちゃうかもね』

 そう言われると、悪い気はしない。

 義姉が見ている中、枠の中に、棒人間を1人描く。吹き出しの中のセリフを考えるが、どうにも出てこない。しばらく考えこんでぼくは苦しまぎれで記入する。

[あーヒマだ]

『で?』

 2コマ目。棒人間をとりあえず描く。困った。セリフが何も浮かばない。行き詰まったぼくは「やっぱりやめます」と火ばさみをしまおうとした。

『ちょっと貸して』義姉が火ばさみをひったくって、棒人間の横に野球ボールと飛んできたような三本線を描き足した。不思議だ。ボールを描くだけで、とたんにまた選択肢が出てくる。ぼくは再度火ばさみを受け取る。吹き出しを描きその中に書く。[わあー]

 3コマ目。どうしよう。とりあえず飛んできたこのボールをなんとかしなければならない。ぼくは棒人間の右手にボールをのせる。効果音[パシッ!]セリフ[とった!]

『へー、捕ったのか。素手か。地味にスゲエなこいつ』

 反応があるのは悪くない気持ちだった。

 4コマ目、棒人間を描く。また考える。ぼくは内心しまったと思う。3コマ目でボールを捕ってしまったから話が終わってしまった。今度は長考する。

 義姉がまた『貸して』と手を伸ばしてきた。義姉は今度も野球ボールを描く。1個、2個。増えてる。今度はぼくが「かして」と手を伸ばす。3個、4個。ぼくがボールを増やすたび、義姉が笑った。ぼくも笑った。無数のボールが降ってくる。オチのついた4コママンガができた。

『人類初だ』

「教科書にのりますかね」

『載ったらどうする?』

「こんな絵じゃ、はずかしいですね」

『でもできたじゃん』

「そうですね、できましたね」

 地上でノートに書いたマンガなら、後であまりの下手さに耐えられずもしかしたら捨ててしまっていたかもしれない。でも、これは残しておいていい気がした。月なら、誰もばかにしない。


「お義姉さんて、おもしろいですね」

『そんなことないよ。でも、カケルくんとこんなにしゃべったの初めてだよね』

「お義姉さんて、笑うんですね」

『……えっ?』

 義姉が、動揺している。何か、悪いことを言ったかもしれない。

「あ、なんかすいません。ぼく、ひきこもってて、見たことなかったんで」

 義姉が、つぶやくように言う。

『あたしは、強い男の人が好きなんだ。あたしみたいな女は、強い男の人に守ってもらわないと、生きのびられないから』

 なんでそんな答えになるのか全然わからなかったけど、聞きながらぼくは屈強な兄の顔を思い出していた。ぼくも力では全然兄にかなわない。いや、力でも、か。隣にいる義姉が急に小さく見える。ロケットおっぱいを持っていると男が寄ってきて嫌なことをされるのかもしれない。ぼくだって、つい昨日義姉に発射したじゃないか。ごめんなさい。お義姉さん、ごめんなさい。

『あのさ、前から言おうと思ってたけど』

「は、はいっ?」

『毛のこと』

「ひいいっ! ごめんなさい! お義姉さん、ごめんなさい!」ぼくは飛び跳ねて、それでもおさまらなくてどうしようもなくて、何年ぶりかで地面に頭を何度も打ちつけた。頭に加わる物理的衝撃が動揺をしずめていく。

『いや、カケルくん、責めてるんじゃなくて。あのね、永久脱毛ってあるんだけど、どうかなって』

 永久脱毛?

 すばらしいマジックワードだった。一瞬で頭が静かになる。考えたことがないわけではなかった。調べてすぐあきらめたのだ。

「えっと……それは、大人の女の人がするものですよね。あと、法外なお金をとられたり、他のエステの勧誘を受けたりとか、危ないって」

『それ思い込み偏りすぎ何情報。毛が生えるのに男も女も関係ない。メンズ脱毛もやってる。料金だって今は、体験2回ならお小遣いぐらいだよ。カケルくんが外に出れない理由が毛なら、兄さんも考えてくれるって。何なら帰ったら、あたしもプッシュするからさ』

 ぼくの創世記だった。光があった。

 義姉が聖母に見える。泣きそうだ。母がいたらこんな感じか。無性にぼくは義姉に甘えたくなった。

「うわあ、ああ、うわああああ」ぼくが義姉の胸に向かって突進すると、思い切り突き飛ばされた。

『……気持ち悪っ』

 そう吐き捨てて、義姉はコックピットにこもってしまった。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 たぶんそれはぼくがこの世で最も恐れていた言葉だった。

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