メリーさんは心配症

夏生

メリーさんは心配症

 ぴこん、と軽快な音が鳴る。

 送って五秒後につく既読。他人はそれをホラーだと言う。


「メリーさん、相変わらず早いなあ」

「早いなあ。じゃない。怖いわ!」

 放課後。が呑気にスマホを見ながら微笑んでいると、画面を後ろから覗いていた友人、が、声を荒げてそう叫んだ。

 スマホの画面に表示されているのは、羊のアイコンと【メリーさん】の五文字。可愛いようで由紀が怖いと感じるのは、ひとえにとある怪談のせいだろう。

『私、メリーさん。今、貴方の後ろに居るの』

 捨てた筈の人形から電話がかかり、電話の度に人形が近づくという話は、日本人なら誰でも知っている、有名な都市伝説だ。

「怖くないよ。メリーさんは、ちょっと心配性なだけなんだって。私が小さい頃から家で働いてくれているし、ちょっと過保護なだけ」

「全然ちょっとに思えないんだけど? しかも今、あんたちょっとって二回言ったでしょ」

「気のせいだよ」

 腕を組んで胡散臭いものでも見るかのような由紀に、春はぴしゃりと言い切った。

メリーさん。

 春が幼い頃からそう呼ぶ人物は、今年二十五になる、春の年上の執事だ。彼は、東坂家に長く仕える執事を生業とする家の養子で、数年前までは海外で勉学に励んでいた。優秀な彼は飛び級で大学まで卒業し、日本に帰国。それからはずっと、春の執事として、東坂家に住み込みで働いてくれている。

 綺麗な黒髪に、青みがかった瞳。純粋な日本人ではあるけれど、少し他人とは違う色合いの瞳をした青年は、いつもきっちりと執事服に身を包み、春の日々の生活のフォローをしてくれている。

 メリーさん――本名は、影から春を守る、心配性の執事なのだ。

「ええと。なになに? お父さんから頼まれた仕事を片付けていたから、迎えはこれからになる……?」

 春はスマホをタップしながら、ふむふむと頷いた。授業が終わるころ、いつも校門前まで車で迎えに来てくれる彼だが、どうやら今日はまだ、到着していないらしい。

「あんたも、自分で帰るから迎えは要らないって送りなさいよ。春」

「……でも、もうこっち来てるみたいだよ?」

「は?」

「ほら」

 はい、と画面を開いたままのスマホを手渡され、由紀は思わず首を傾げた。

 そうして、

「何これ! 怖い、怖い!」

 画面に更新される情報に、由紀は顔を青褪めさせた。

 ぴこん、ぴこん、ぴこん! 由紀の手の中で、スマホは軽快なリズムを刻む。

『今、お屋敷を出ました』

『今、三丁目のビルの前です』

『今、二丁目の交差点です』

『今、学校の近くの公衆電話の前です』

 これでは、あの有名な怪談そのものだ。

「メリーさん、もうすぐ着くみたいだね」

「あんたはなんでそう冷静なの!?」

「だっていつものことだから」

 顔を顰めながら自分に詰め寄る由紀に対し、春はけろりとした表情で言った。

「家を出た時は手動だろうけど、後の分は位置情報から勝手に打ち込めるようにシステム作ったって言っていたし。スマホしながら運転しているわけじゃないから、大丈夫だよ」

「そういう問題じゃないし、余計怖いわ!」

 自分の主人の登下校のためにシステムを作る男――有能なのはいいとして、徹底具合が最早狂気の沙汰だ。

 その時。

『今、校門前に居ます』

 ピコンという楽しげな音の後、画面に表示された文字を見て、

『私、メリーさん。今、校門前に居るの』

 由紀の頭の中で明の文章が、そう変換されたのは言うまでも無かった。


 翌朝。

「というわけで、合コンするわよ。合コン」

「どういうわけでそうなったの?」

 由紀は登校するとすぐ、のほほんと朝から教室でティータイムをしていた春に、指を突きつけて宣言した。

「私にはメリーさんがいるから大丈夫だよ?」

春はけろりと笑ってみせた。

だが次の瞬間、ばん! と由紀が大きな音を立てて机を叩いた。

「それが問題だって言ってるんだっての!」

メリーさんお手製紅茶の入った水筒が、ぐらりと大きく傾く。

春は反射で、何とか倒れるのを阻止した。由紀にバレないよう、ほっと息を吐く。

「まったくもう。春はあの男なんか放っておいて、いい男を探すべきなんだから。春は可愛いし一応お嬢様だから、狙ってる男子も多いんだよ。……大体、せっかくの高校生活、ストーカー男に管理されて放課後にどこにも行けないなんておかしいじゃない」

 はあ。と、大きな溜め息を吐く由紀。春は、由紀の言葉に首を傾げた。由紀は、自分の放課後の心配をしているんだろうか?

「由紀ちゃん一緒に放課後デートしたかったの? 由紀ちゃんとデートするためなら、私メリーさんにお願いするよ。あとメリーさんはストーカーじゃないよ?」

「アイツがついて来ちゃ意味がないの」

 首を傾げる春に、由紀は眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに言った。

「とりあえず、明日の放課後は何か言い訳をして空けておきなさい。いい?」

 否という返事は許さない。由紀の圧に押されて、春は数秒悩んだ後、こくりと頷いた。

「……わかった」

 ぎゅっと、水筒を握る手に力が籠る。春はただ、下を向くことしか出来なかった。


 嘘を吐くのは気が引けたが、友達との約束の為なら仕方ない。春が下校する車の中で、メリーさんを呼べば、彼はいつものように柔らかい声で「はい」と返事をした。

「メリーさん。明日は由紀ちゃんとお出かけするから、お迎えも夕飯も要りません。帰りは由紀ちゃんが送ってくれるってことになっているので」

 こんな風に、春がメリーさんにお願いをするのは初めてだった。

「パパやママには内緒にして欲しいんです。……駄目でしょうか?」

 ルームミラー越しに、彼の青の瞳とばっちり目が合う。まるで深い海みたいな色に見つめられると、一瞬ドキリとする。

 心の中まで、見透かされているみたいで。

 しかし春の想像は杞憂に終わった。彼の返答は随分と拍子抜けだった。

「いいですよ」

 表情一つ変えず彼は言う。

「では私は、私が必要となるかもしれませんので、もしもの時のために待機だけしておきますね」

 まるで業務連絡。その言葉に、春はまたまた、俯くことしか出来なかった。

 

 異世界って、多分こんな場所の事を言うのだろうな。

春が人生初、カラオケに来た感想はそれだった。受付はまるでホテルのフロントみたいな造りをしているのに、安っぽそうなシャンデリアの光が、床に反射してひどく眩しい。

エレベーターは妙に小さくて、絨毯は高級感を出すためなのか赤かった。四隅を彩るのは、無駄にギラギラした装飾だ。しかも窮屈な空間の中で、喋ったこともないような相手と体がぶつかりそうになって、とてもじゃないが落ち着けない。

「大丈夫か?」

 身長の低い春が、由紀に隠れて顔を強張らせていると、春のすぐ横に立っていた黒髪の少年が声を掛けてきた。

「大丈夫、です」

 本当は、大丈夫ではないけれど。せっかく由紀が、自分のために開いてくれたのだ。台無しにするわけにはいかない。

春はエスカレーターから降りると、後ろから押されるように部屋に向かった。

「まず自己紹介から行きましょうか!」

 合コンの幹事は、女は由紀で、男は茶髪の少年だった。ほの暗い小さな空間には、剥き出しのエアコンと、ミラーボール。陥没した天井に電灯が少々。通路と室内を繋ぐ扉はガラス製で、こじゃれた模様が描かれていた。

 合コンのために集められたのは、合計八人。女性陣は春、由紀、少しは派手めな女の子と、大人しそうな眼鏡の子。男性陣は幹事である少年を始めとして、一人を除いて皆何故か茶髪だった。

 中でも一番派手な少年は、色を抜いているのか金色に近かったが、どこかぱりっとした髪質は、一度濡らした紙を乾かした後みたいで、妙な違和感があって春は落ち着かなかった。

 どう考えても場違いだ。

 一度も染めたことのない長い黒髪を、春がつまんで俯いていると、先程の少年が再び春に声を掛けてきた。

「大丈夫か? 顔色悪いように見えるけど」

 硬質な髪の下に、茶色の瞳が見えた。

 琥珀のような瞳。色付きガラスを被せただけの瞳じゃないことは、柔らかな輪郭が教えてくれる。

 ーーこの人、少しだけメリーさんに似ている。

「……貴方は、誰?」

 春は思わず、彼に訊ねていた。

 場違いな自分。それはこの空間に一人だけだと思っていたのに、彼の瞳を見ていると、妙に安心出来た。

「俺は。アンタは東坂春さん、だろ? こういう場所に来るタイプには思えなかったから、気になってはいたけど。やっぱ顔色悪いし……ホント、大丈夫か?」

 彼の声色からは、春に対する配慮が感じられる。しかしその一方で、彼の言葉の端々には、妙に棘のようなものを春は感じた。

「大丈夫」

 自分言い聞かせるように、春は言う。すると少年は顔を顰めて、

「体調悪いなら帰った方がいい。多分、アンタここに居ても楽しくないと思うし。というか俺は数合わせだし、早く帰りたい」

 なんて言った。

「え」

 思わず唖然としてしまう。

「数合わせ?」

「まあ、俺は一昨日彼女と別れたから、新しい彼女作れってアイツが」

 彰人はテーブルの下で、幹事を指差した。

 一昨日別れたばかりで、新しい彼女? 春には、彰人の言葉の全てが理解不能だった。

 自分の中での常識が覆される感覚――いや、そもそも、春の中の「常識」が一般的ではなかったのかもしれないけれど。

 幹事の男は、ノリノリでラブソングを歌う。それに合わせるように、誰かがタンバリンを叩いたり、マラカスを振ったりする。

 なんだか眩暈がした。

「……お手洗い行ってくる」

 俯いたまま、春がぼそりと呟いて立ち上がれば、室内は一瞬、しんと静まり返った。しかし、カラオケのテロップが更新されると、何事もなかったように男は歌を再開した。

 春は、音から逃げるように廊下を歩いた。

 カラオケの中のトイレは、予想していたよりは大分綺麗だった。大きな鏡があって、鏡は綺麗に磨かれ、オレンジ色の明かりが灯っている。鏡の中の自分は、彰人が聞きたくなるのも分かるくらい、顔色が悪かった。

 それを緩和するように、今は柔らかい光が春を包んでいた。

「はあ……」

 春は鏡の中の自分を見て溜息を吐いた。どうも自分は、人のフツウがわからないらしい。

 上手く言えないが、今の自分の感情は、初めてファーストフードの店に行ったときとよく似ているような気がした。

 少しだけ、吐き気がする。

 春は、むかむかする胸を押さえながら、ありし日のことを思い出していた。

 以前春は由紀とでかけたファーストフード店で、体調を崩したことがある。

「確か、あの時は……」

 あの日は、由紀が唐突に言い出したこともあり、明の監視付きだった。店のトイレでぐったりとした春を、明は抱えて家まで運んでくれたのだ。

「……メリー、さん」

 名前を呼べば、胸が温かくなるのを感じた。あと少し、嬉しくなる。

 どうしてだろう?

 春が顔を赤らめていると、とんとん、とノックオンが聞こえた。このトイレは内装こそ綺麗だが、一人ずつしか使用出来ない。春は慌てて鍵を開けた。自分は別に用を足したいわけではないのだから、待たせるのは悪い。

「すいません。今出ます」

 だが、春が慌てて扉を開けると、待っていたのは女性ではなく見知らぬ男だった。シュッと顔に何かを噴きかけられる。春がその事実に驚いている間に、黒い布のようなものを被せられた。

 一瞬の出来事。春には悲鳴を上げることも出来ない。

「作戦成功」

 誰かが言う。

 作戦って何ーー……?

 そう思ったがわからない。春の瞼は静かに下りた。

 ――暗転。

 


 流行の音楽を着信音にするのは、現代人の持つ権利の一つだ。

 春が席を立ってから、暗くされた室内でくるくる回るミラーボールを由紀が忌々し気に眺めていると、知らない電話番号から電話がかかって来た。

「すいません。今、春様はそちらにいらっしゃいますか」

 名乗りもせず、男は由紀にそう訊ねた。

 カラオケの音のせいで声は綺麗には聞こえないが、友人を「春様」と呼ぶ相手は、由紀の知るところ一人しかいない。

「なんでアンタが私のスマホ知ってるのよ」

 由紀は思わず舌打ちした。思いっきり顔を歪めていると、何故か彰人と目が合った。

「春様のご学友の個人情報は概ね把握しております」

 明は淡々と言う。やはり油断ならない。

 由紀は明に言いたいことは山ほどあったが、今は一応『合コン』中だ。一人席を立っている中、自分まで席を外すわけにもいかず、左手で口元を覆い小声で話す。

「春? トイレにさっき行った筈だけど」

「――……そうですか」

 明の言葉には、不自然な間があった。

「春様と貴方が一緒に居ないということがわかれば十分です」

 ツーツーツー。


 電話は一方的に切られた。由紀は規則的な音を立てる画面を見て、顔を強張らせた。

ーーまさか。

「……どうかしたのか」

 彰人が由紀に訊ねる。由紀は彼に返事はせずに、乱暴に扉を開いて廊下を走った。

 由紀の中に、言いようのない不安が広がっていく。

 由紀は、自分の答えに明の声が硬くなったことを、気付かずにはいられなかった。

「春!」

 由紀は、友人が居る筈の場所の扉を開けた。

 しかしそこにあったのは、自分が以前彼女の誕生日に贈り、今日も彼女が髪に挿していた筈の、桜のピンだけだった。

「は、る……」

 由紀はその場に崩れ落ちた。

 春が何者かに連れ去られた。そのための明の電話だったと、すぐに合点がいった。

自分が無理に連れ出したからこんなことになったのだ。これは全部自分のせいだ。

 あの子に、何かあったらどうしよう?

 由紀の手は震えていた。

「春! 春……!」

 半狂乱になって、ピンを手に少女の名を呼ぶ由紀を、彼女の異様さに気付き、追いかけてきていた彰人が抱きしめる。

「大丈夫だ。落ち着け。……彼女は、絶対無事だから」

 宥めるように彰人は言うと、縋るように自分の服を掴む少女を抱く手に、再びぎゅっと力を込めた。


 

 スピーカーから、下手な歌が聞こえた。

 甘ったるい歌詞に意味はあったのかもしれないが、形ばかりで中身のない少年が歌うと、途端歌は陳腐なものに変わる。明は、由紀との電話を無表情のまま切った。

 いつものように車に乗ると、スマホをスタンドに立てて、自作のシステムを立ち上げる。

 ぴこん、と軽快な音が鳴る。

 すると、スマホの画面上に、執事服を着た羊が現れた。真っ白な羊の角は黒い。その瞳は、明と同じ青色だ。

 羊はどこからか紙と筆を取り出す。いつの間にかスマホの背景に、赤いポストが出現していた。

 羊は、紙に筆で何かを書きつけている。

手紙らしい。

 羊は、手紙を封筒に入れると、赤いポストの前で立ち止まり、こう言った。


『メリーさんシステム、開始します』


 その言葉と同時に、明は車を発進させた。ナビが起動する。しかしその目的地が示すのは、決して入力された地名ではない。

「ーー春様」

青色の美しい目を細め、明はここには居ない少女のために、小さな声で呟いた。

「今、迎えに行きます」

 


 誰かの声が聞こえる。

 これは一体いつのことだろう? 多分ずっと、ずうっと昔の事。

 自分にとっては見馴れた景色。煌びやかな洋館の前に、傷だらけの少年が立っている。その日は雨が降っていて、少年はずぶ濡れ。足元は覚束ない。少年はただ、道を歩いていた。春は、雨がやまないなあと、部屋から外を眺めていたら、丁度その人影を見つけた。

 春は最初、お化けかなと思った。

 雨の中に彷徨う幽霊。怖い。ぞっとする。だけど、人間怖いもの見たさというのがある。春は、窓越しにお化けを観察していた。ゆらゆら、ゆらゆら。お化けは、力なく前へ進む。しかしある時、お化けはまるで糸の切れた人形みたいに、館の前でぱたりと倒れ込んだ。

『あ』

 幽霊なら、お化けなら。きっとそのうち消えるだろう。けれど十分経っても、その塊は動かなかった。冷たい雨だけが打ち付ける。

『春様!』

 夜。春は、メイドや両親の声を聞かず、一人館の外に出た。叩き付けるような雨が頬を叩く。傘を持たずに走り出した子どもの後を、大人たちが追う。春は塊の前で蹲る。

 塊は人形でもなく、お化けでもなく、少年だった。その時漸く、大人たちは自らの住む屋敷の前で、一人の少年の命が失われようとしていたことを知った。少年の頬を、幼い春がぺちぺち叩く。少年は目を覚まさない。春が心配そうに少年を眺めていると、冷え切った少年の体を、執事が抱き上げた。その後のことは、春は寝てしまったので、よくわからない。

 夢は、記憶は、ガラリと場所を変える。

 それは、今から十年ほど前のことだった。春は、一人の少年と出会った。

『おいで。春。紹介するよ。この子は今日からここで働くことになった、執事見習いの五月明くんだ』

 黒髪の、青い目の人。紹介された彼は、春にぎこちない笑みを浮かべていた。

『めー?』

『違うよ。めい、くん、だよ。春』

『め、めー?』

『……春』

『めいーひゃん。ひちゅじ! めいーひゃん!』

 明、という名前は、幼い春にとっては慣れない響きで。メリーという名前の方が、春にはしっくりきた。だから、彼のことは『メリーさん』そう呼ぶことに決定しました! と言わんばかりに春が言えば、笑顔が苦手なんだろう。さっきまで強張った表情をしていた明が、突然声を上げて笑った。そして、春の前に跪いて、彼は言った。

『春様。素敵な名前をありがとうございます。僕は貴方の『メリー』。貴方の執事になるために、今日から精進します』

 それからというもの、執事見習いとして働く明の後を、春が追い回す日々が続いた。春の両親はそんな姿を見て「金魚の糞いたいねえ」なんて言ったが、春が「違うもん!」と怒ると、彼は困ったように笑っていた。

 ある日。

『春は本当に五月君が大好きなんだなあ』

『将来は五月君と結婚するなんて言うかもしれませんよ』

 能天気な春の両親が、お茶を飲みながらそんな事を言った。

『奥様、旦那様!』

 二人の言葉に、明の顔がかっと赤く染まる。春は首を傾げる。

『けこ……?』

『お父さんや、お母さんみたいに、ずっと一緒に居るということだよ』

『いっしょ……』

 幼い春は、僅かに俯く。

『はゆ、めいーやんとけこする!』

 次の瞬間、ぱあっと明るい顔をしてそう言った春に、明が再び声を荒げた。

『は、春様!』

『ははっ。将来が楽しみだなあ。春を泣かせたら承知しないぞ?』

『お戯れはよして下さい。僕は、春様には釣り合いませんよ』

 明は、赤くなった顔を手袋で覆った手で隠した。しかしその言葉に、僅かに諦めの色があるのを、春の父親は見逃さなかった。

『なら、今からでも遅くない。君が春に相応しい男になればいい。君にはその才能が、能力がある』

『……』

 それから少し経ってのことだった。明は春のもとを離れ、外国に行くことが決まった。

『やら。行かないれ! メリーひゃん!』

 わんわん泣く春の声が、空港に響き渡る。咎めるような厳しい視線を送る男もいれば、生暖かい視線を二人に向ける女も居る。しかし春は、そんなことどうでもよかった。彼が遠くに行ってしまうことが、悲しくてたまらなかった。行かないでと、それだけで。子どもの春は、泣くことしか引き留める術を知らなかった。

でも、決まったことは変えることが出来ない。泣いてばかりの春の前に、明が膝をついて困ったように笑う。

『泣かないでください。私が、貴方を守れる、相応しい男になったら。どんなに遠く離れても、必ず貴方を迎えに行きます』

 明が白い手袋を外す。その下にあったのは、まだ傷の残る手だった。

 春はその時漸く気が付いた。彼が、何があっても、手袋を外そうとしなかったわけが。初めて会った日。自分の執事になると頭を垂れたわけも。

 彼は「約束します」と言って、小指を出した。小さな春の指と、彼の指が交差する。黒髪を揺らして、彼は笑う。

 ああそうか。貴方は。貴方は――……。


 春が目を覚ますと、埃っぽい廃工場だった。体は紐で柱に括りつけられ、身動きがとれない。無性に、彼の声が聞きたいと思った。だがスマホは、入れた筈の場所に見当たらない。春が男たちに奪われたらしいと気付くのに、時間は掛からなかった。

 「早く身代金要求しようぜ」なんて、男の声が聞こえる。その言葉から、恐らく誘拐されて、時間は経っていないんだろうと春は推測した。

 どうにかして助けを呼ばなくてはならない。

 自分に甘い両親なら、身代金を出してくれるだろうけれど、顔を見てしまったら、ただで逃がしてくれるとは限らない。

 ――仮面でもしてくれたらいいのに。

 男たちは、完全に顔を晒していた。この状態で春が目を覚ましたことがばれるのは、春にとってマイナスでしかない。

 動けない。何も出来ない。このままじゃ、殺されてしまうかもしれない。

 春が、涙をこらえて寝たふりをしていると、突然ぴこん、という軽快な音が響いた。

 春にとっては馴染み深い音。でも、他人からすれば、恐怖の対象になり得る音。

「う、わあああ! な、なんだこれ!」

 スマホを持っていた男が悲鳴を上げた。画面には何時ものように、メリーさんの怪談が再現される。

『今、三丁目の信号の前に居ます』

『今、A港の看板前に居ます』

 距離が近付くほど、男たちの顔から表情が消えていく。電源を切ろうにも、切れない辺りが更にホラーだ。男の一人が、スマホを地面に叩き付けた。その時、彼らの後ろに立っていた男のスマホから、メエーという可愛らしい鳴き声の後に、ノイズの混じった、しわがれた電子音が響いた。

『私、メリーさん。今、貴方の後ろに居るの』

 男たちが声を上げた瞬間、どこからともなく現れた黒い影が、目にもとまらぬ速さで男たちに蹴りをいれた。蹲る男たちを前に、彼はどこかほっとした表情を浮かべて、

「遅れてしまい申し訳ありません。春様。今、お迎えに上がりました」

 いつものように頭を下げた。


 誘拐犯たちを明が全員拘束した頃、警察が廃工場にやって来た。後からやってきた由紀は、珍しく声をあげて泣いていて、春は不器用な彼女のことを憎む気にはなれなかった。確かにやり方は乱暴だったが、由紀の行動は全て春の為だった。だが、何故か由紀の隣には彰人が居て、慈しむように彼女を見守る姿は、春にとってかなり意外だった。

 春の心を気遣って、警察の対応などは全て明が行った。ファンファンと赤いランプが回る中で、いつものように背筋を伸ばして話す彼の姿は、春にとっては眩しく映った。自分が助けた筈の命。でも、今はこんなに大きくなって、遠くに感じるのは何故だろう。

 毛布にくるまれて春がココアを飲んでいると、明が春の肩を叩いた。

「帰りましょう」

 手を引かれ立ち上がる。明はいつも通りに車のドアを開けると、春がちゃんと乗ったのを確認してから、静かにドアを閉めた。

 夜の街。二人っきりのドライブ。そう言えなくもない。春は緊張しながらゆっくりと、まっすぐ前を向く明の首に手をまわした。

「は、春様!」

 車が少しだけ、右にカーブする。明らかな動揺だ。多分よく顔が見える場所なら、彼の顔は真っ赤に染まっていることだろう。

「メリーさん。今日はありがとうございました。でも本当は私、今日貴方に引き留めてほしかった。行くなって。言ってほしかったんですよ」

「は、春様?」

「ストーカー機能だって、メリーさんだから怖くないんです。他の人だったら怖くてスマホなんか持っていられません」

 ぴしゃりと言った春の言葉に、明が沈黙したのは、たぶん自覚があったからだろう。

 そう。彼の行為は、フツウなら怖い筈なのだ。多分この世界で、春一人を除いては――ストーカー行為を、心配性とは言わない。

メリーさんは心配性。明は春を見守る心配性の執事だ。彼は昔から春を気遣ってくれたが、どこか境界線を引いていた。いつでも、手放していいとでもいうように。多分それは、二人の出会いのせいで。

「メリーさん。心配なら、ずっと傍に居ればいいんです。約束を忘れたんですか。私が傍に居てほしいのは、迎えに来てほしいのは、ずっと昔から、メリーさんだけなんですよ」 

 春がそう言えば、明が車を道に止めた。青い瞳は、多分不安げに揺れていた。

 話によれば、春が明を見つけた時の彼が衰弱していたのは、彼の瞳の色のことで、母親と父親が不仲になり虐待を受けたせいだったらしい。

 だからこそ彼は臆病で、心配性なのだ。

「いいんですか? 私のような、人間が」

「メリーさんだからいいんです。ずっと、私の傍に居てください」

 離れないよう、腕に力を籠める。

 すると明は掠れた声で「はい」と言って、首に回していた春の手に、恐る恐る、震える自分の手を重ねた。


 

 今日もまた、ぴこん、と軽快な音が鳴る。

 でも、きっとこれからは。

『今、貴方の隣に居ます』

 ーーなんて、ね?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メリーさんは心配症 夏生 @okodayooooo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画