10-16.神崎君の過去②

 結局それ以降も時田先生から神崎君に連絡はなかったそうだ。振られたも同然だったのだが、それでも神崎君は諦め切れなかった。彼は学校を休んで、彼女の大学まで行って先生を捜したそうだ。しかし、大学でひとりの人間を見つけるのは難しく、結局見つけられなかった。

 そこで彼は、最終手段に出たのだ。それは、時田先生の実家に電話する事。


「ちょ、ちょっと待った。何で実家の番号知ってんなら最初からしなかったんだ?」

「だから最終手段なんだよ。それに知ってたわけじゃないよ。彼女の住んでいる街は知っていたから、タウンページで一軒一軒かけてったんだ。時田って苗字そんなに多くないしね」

「……マジかよ。何軒電話した?」

「三軒目だったかな。半分ストーカーみたいだったけど、とにかく答えが知りたかった。返事がない時点で可能性が無いのはわかってたけど、彼女の口から答えを聞きたかったんだ」


 諦める為にも、と彼は溜息混じりに付け足した。たった三軒と言えど、相当体力は消耗したみたいだ。

 それもそうだ。時田裕子の家か確認して、間違ってたら謝って切るを三回も繰り返したら嫌になってくるだろう。俺なら一軒目でメンタルが崩壊する。


「三軒目でようやく見つかって……もうね、時田裕子さんのお宅ですかって訊いて、ハイっていう返事が来たから、心臓停まりそうだった……」

「それで?」

「元生徒で御礼言いたいから代わってくれって言ったら、こう言われた」

「……?」


 俺は無言で彼の横顔を見た。彼は穏やかな笑みを浮かべながら、彼にとっては死刑宣告にも等しい言葉を言った。

『裕子はもうこの家には居ませんよ? 結婚して、今は横浜で暮らしてます』

 これを聞いた時の神崎君の気持ちを、俺は全く想像できなかった。多分、死刑宣告の方がマシなのではないかと思えた。それぐらいの衝撃を受けたと思う。


「頭ん中真っ白になったよ。本当に何も考えられなかった。同姓同名の人違いかと思って確認したけど、大学名も高校名も全て同じだった。その時大学を辞めた事を聞いて……もう、現実の全てを否定したくなったよ」


 彼はぎゅっと自分の腕を抱え込む様にして目を瞑った。時田先生のお母さんも何となく事情を察した様で、黙り込んでしまった彼に『電話があった事だけお伝えしましょうか?』と言ってくれたそうだ。

 彼はただ返事をするのが限界だった。神崎君の恋は、その時完全なる終焉を迎えたのだ。それも、一番最悪な形で。結婚という言葉に、彼は二度心を破られたのだ。こんな酷い失恋、そうは無い。そして電話を切る間際、時田先生のお母さんは彼にこう言った。


『あなたの事、知っています。娘はあなたの事も真剣に考えて、悩んでました。でも、どうか、娘を責めないでやって下さい……。娘も夢を諦める道を選びましたから』


 俺は胸が痛くて、言葉を失ってしまった。その言葉からできちゃった婚なのを推測するのは簡単だ。大学を辞めて、夢を諦めてまで結婚しなければならない理由、そして、その時彼女が抱いていた恋心を捨てなければならない理由は、それしかない。

 大体妊娠が発覚するのは二か月から三か月経ってからだと聞いた。だとすれば、彼がドキドキしながら話していた時も、相手からの気持ちを感じていた時も……既に彼女のお腹には新たな生命が身篭っていた。

 それを考えると、一体どんな気持ちになるだろう? 俺には全く解らなかった。仮に伊織にそんな風に結婚されたら……冗談抜きで生きていけるかどうかすら危うい。自殺してしまった方が遥かに楽だと思う。


「今にして思えばさ……結婚を否定して爆笑された時、凄くわざとらしかったんだ。でも、僕は全然疑わなかった……だって、笑って否定してくれる事を望んでたのは、僕だったから」


 人間は自分の信じたい事を信じる。それが幸せだという事を人間は知っているから。

 神崎君の様に真実を追求すると、悲劇が待ち受けている事の方が圧倒的に多いという事をわかっているから。綺麗な思い出のまま記憶に残しておくのが良いか、残酷ではあるが真実を知る方が良いのか……どちらが正しいのかはわからない。少なくとも、真実を知ったせいで神崎君は傷つく羽目となった。

 だが、真実を知ったからこそ解る事もある。

 それは……きっと時田先生も、神崎君の事が好きだったという事。神崎君にだけは、きっと自分が結婚する事を知られたくなかったのだ。だから、芝居をうってまで嘘を吐いた。彼を傷つけたくなかったから、彼が一番欲しがっている言葉を与えた。だが、もしかすると……それは、時田先生自身が欲しがっていた言葉だったのかもしれない。

 夢を追い掛ける自分がいて、その夢を一番応援してくれている生徒がいて、そして、その生徒は自分の好きな男の子だった……それが彼女にとって一番自然だったのではないだろうか。最後に語った教師への熱意も、多分彼女自身にとって本心だったのだろう。それは間違いなく嘘なのだけど、自分の気持ちには正直な言葉だったのだ。

 更に言うなら、時田先生は神崎君の事を少し舐めてかかっていたのかも知れない。自分への気持ちはある種の憧れで、すぐに冷めるものだ、と……だが、最後の最後にいかに神崎君が本気だったかを思い知る事になった。

 確かに神崎君と時田先生は付き合ってもなかった。キスも抱擁ももちろんしていないだろう。だが……彼らの気持ちは繋がっていて、本当に二人は愛し合っていたのだ。

 どうしてかな。どうしてこうなってしまったのかな。

 涙腺が緩んでしまって、じわっと視界が悪くなった。それを隠すために、彼から顔を背ける。どうしてこんなに想い合っているのに、神様は残酷な決定を下したのだろう。もちろん、二人の辛い別れがあったからこそ、双葉さんは神崎君と付き合えたのだが……あまりにもこれは酷い仕打ちだった。


「あと何年早く生まれてたら良かったのか、いつ出逢ってれば付き合えたのか……そればっか考えてた時期があるよ。でも、そんなの無駄なんだよね。その時じゃなきゃ出逢えなかったんだろうし、お互い好きにもなれなかった。だから、結局最初から上手くいかない運命だったんだって……それを悟った」


 神崎君は溜息を吐いて、窓の外の桜を眺めた。俺は胸が痛くなって、それを誤魔化すために、本棚の横にあった本を手に取った。

 それは本ではなくアルバムだった。そのアルバムには神崎君と双葉さんが写った写真がびっしり収められていた。もちろん、時田先生とのものは、一枚も無い。


「一つだけ確認したいんだけどさ……」

「何?」

「今は双葉さんの事好きなんだよな?」

「ああ、うん。もちろんだよ。だって、今僕が普通にしてられるのは、間違いなく明日香の御蔭だから。明日香が僕を気にかけてくれなかったら……きっと、僕はまだ立ち直れてなかっただろうな」

「それなら良いんだけどよ……さっきの話聞いてっと、時田先生に対する態度と双葉さんへの態度が全然違うから、ちょっと心配だったんだ」

「うん、全然違うね。それに一番困惑してたのは僕なんだ」

 神崎君は苦笑して答えた。

「困惑?」

「そう。明日香に告白されて、付き合ってみて、自分の中で好きだなって思えたんだけど……先生の時とは全然気持ちが違ってさ。忘れる為に明日香を利用してるだけで、本当は好きじゃないのかもって考えた時期もあったよ」

「…………」

「でも、この前麻生君に言われて気付いたんだ。別に一緒じゃなくて良いんだって。先生は先生、明日香は明日香……相手が違うんだから、当然気持ちの持ち方も変わってくる。それに……麻生君が麻宮さんの持ってるモノを一緒に背負ってるのと同じように、明日香も僕の傷を一緒に背負ってくれてたんだって……あの時ようやく気付いたんだ」


 ありがとう、と彼は微笑んで言ってくれた。

 双葉さんは神崎君が失恋していた事をどういうわけか知っていたらしく、その上で付き合って欲しいと言ったのだという。なかなか強引と言うか、双葉さんがそこまで強く想っていたというのは意外だった。だが、そういえばバレンタインの日にそれを示唆する様な事を言っていた。


『勇ちゃん、本当は……』


 あの後続けたかった言葉は多分『本当は時田先生が好きだから』だ。双葉さんも、ずっと辛かったに違いない。彼女も彼女なりに苦しみ、それでもそれを表に出さずに明るく振る舞っていた。自分では力が及ばないのではないか、癒せてないのではないか、やっぱり時田先生の方が良いのではないか……双葉さんは、ずっとそうした苦悩を抱えたまま、自分のできる限り愛情を注いで、神崎君と付き合っていたのだろう。

 それで神崎君のあまりの無神経さにブチ切れた……? いや、違うな。

 双葉さんは、自信がなくなったのだ。神崎君を支えられる自信がなくなって、本当に好かれていればこんな無神経な事をされないと考えたのではないだろうか。不安や悲しみ、そういったものから逃げたくて、神崎君を拒絶してしまいたくなったのだ。本当は、好きで好きでたまらないくせに。

 みんな強い。伊織にしてもそうだが、みんな俺が思っているより遥かに強いのだ。大切な人がいきなりいなくなったり、誰かと結婚されたり、はたまた自分ではない異性しか映っていなかったり、何年も前から好きだった幼馴染をよくわからない男に持っていかれたり……俺なら、どれも絶対に耐えられない。自分の弱さと未熟さを痛感させられた。


「麻生君、一つだけ言っとくよ」


 俺が思考の渦に捕われて色々な事を考えていると、神崎君は強い眼差しでこちらを見据え、続けた。


「絶対に麻宮さんを離しちゃダメだよ」

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