10-15.神崎君の過去①

 遊園地の数日後、ふといきなり神崎君から家に遊びに来ないかと誘われた。遊園地以来彼とは顔を合わせていなかったので、結局何も話せずじまいだったのだ。

 彼から話したい事があると言われていたし、神崎君からの誘いを断る理由もなかった。

 神崎君の家は、庭付きで都会にしては大きめの三階建ての家だ。彼の家には何度か遊びに来ているが、毎回立派な家だなぁという感想しかない。都内でこの土地の広さでこの建物、一体いくらくらいなのだろうかと無粋な事を考えてしまう。


「で、話って何?」


 神崎君は部屋に入ってから春期講習や進路の話しかせず、なかなか本題に入ろうとしなかったので、しびれを切らして訊いてみた。どれほど躊躇する内容なのかは知らないが、彼はバツの悪い顔をして、頬を掻いた。


「あー……そうだね、うん」


 すると、彼はやや躊躇いながらもこう切り出した。


「去年の英語の教育実習生、覚えてる?」

「英語の実習生? いや、あんまり。名前なんだっけ?」

「時田裕子。あの人、英語担当だから主に麻生君のクラスに居たはずだよ」

「時田……ああ、思い出した。小柄で結構可愛い先生だよな?」


 神崎君はこくりと頷いた。変わった名前の教育実習生だったから、よく覚えていた。

 小柄で可愛いし、その上明るい実習生だったから、男女問わず人気があった。このまま担任になってくれと信が実習最終日に言ったので、担任の教師が酷く凹んでいたのを覚えている。俺も結構好きだったし、一番記憶に残ってる実習生だ。


「僕ね……先生の事が好きだったんだ。実習に来る前から、ずっと」


 彼はかなり躊躇いながら言った。俺は内心驚いたが、結局何も言わずに彼の次の言葉を待った。


「高一の頃、彼女──先生は、僕の家庭教師だったんだよ」


 驚いた。まさか、教育実習生と神崎君にそんな関係があるとは予想もしていなかった。

ただ、教員志望の人間なら、家庭教師や講師のアルバイトをしていてもおかしくない。


「先生にとって僕は人生で初めての生徒っていうのもあるんだけど、僕にとっても先生は特別だった。話してるだけで楽しかったし、癒された。自分でも驚くぐらいに積極的に会話してたしね。残業代も出ないのに、僕とムダ話ばっかりしてたよ」

「マジかよ?そんな神崎君、全然想像できねー」


 でしょ、と彼は苦笑を見せた。俺の見ている神崎君はあくまでも冷静沈着で無口、恋にはちょっと不器用なイメージがあった。いや、双葉さんに対してはまさしくそうなのだ。愛情表現の仕方が違うのか、双葉さんの事は本気で好きではないのか……その辺りが疑問に思ったが、今は控える事にした。

 質問は話が終わってからだ。


「あんまりお互い警戒心とかなくてさ、凄く話してる事が自然だったんだ。すぐに打ち解けたし、最初から心を開いていた感じだった。あんな経験も滅多に無いな……」


 神崎君は遠い目をしながら呟いた。その感じは俺と伊織に似ているのかもしれない。俺達も出逢って早々に仲良くなって、最初から心を開いていた。俺もあんな経験は初めてだった。


「で、付き合ったのか?」


 そう訊くと、彼は首を横に振った。


「告白できなかったよ。もちろん今ある関係が壊れるのも嫌だったし、大学生から見れば高校生なんて子供にしか見えないだろうし」


 彼がそう躊躇するのも無理はない。中高生にとっての一年二年の差というのは案外大きく、それは相手側にとっても同じだ。時田先生の立場からしても、五歳年上と付き合うのと、五歳年下と付き合うのでは状況が違うはずだ。


「……でも、相手の好意は感じてたんだろ?」

「うん。先生も色々話してくれた。教師になる熱意とか志とか、逆に僕に授業方法なんかを相談してくれたりして……そのうち、何だか無言で見つめあったりとかしちゃっててさ」

「え? それ、かなり脈有りだったんじゃね?」


 かもね、と神崎君は笑った。これは……もしかして、神崎君はまだ時田先生が好きなのだろうか? それなら何で双葉さんと付き合ってるんだろう?

 俺の頭の中には疑問符がいくつか浮かび上がった。時田先生の事を話している神崎君からは甘酸っぱさが醸し出ていて、どちらかと言うと惚気話を聞かされている気分になってくる。少なくとも双葉さんの事を話している彼からはこの甘酸っぱさを感じた事がなかった。


「時田先生ってそういや今年からうちに赴任するんじゃなかったっけ?」


 確か、昨年実習最後のホームルームで彼女がそう言ったのを今思い出した。時田先生にとって桜高は母校であるし、赴任する率が高い。もしそうなったら、神崎君と双葉さん、そして時田先生の三角関係に発展してしまって、また泥沼化してしまうのではないだろうか。

 というより、そんな中途半端な気持ちで双葉さんと付き合ってるのかと思うと、若干腹が立ってきた。時田先生が好きならば双葉さんと付き合わなければ良いのではないか。だが、俺の心境とは裏腹に、彼はさっき迄の甘酸っぱい表情を一転させて答えた。


「……来ないよ」

「え?」


 暗い声だった。諦観と絶望が入り混じった声だ。彼のあまりの変わりっぷりに少々驚いた。


「先生はうちには来ないし、教員免許も取得してない。いや……大学すら出てないんだ」

「は? 去年四年生だったんだろ? 単位取りそこねてたのか?」


 大学の単位云々の知識は俺には無い。しかし、卒業が危うい人に教育実習はさせないだろうし、四年生なら必修科目の単位は取っていて当然のはずだ。その状況で留年は有り得るのだろうか。


「そんな人じゃないよ……学校、辞めたんだ。去年の秋に」

「は、ハァ~?」


 俺はまたしても新たな疑問符が浮かんだ。

 意味がわからない。卒業までもうちょっとだったのに、何故辞める必要があるのだろうか。わけがわからなかった。


「ちょっと待てよ。時田さんって教師になりたがってたんだろ?」

「うん。小さい頃からの夢だって言ってた」

「その為に教育学部に入ったんだよな?」


 そう、確か時田さんは教育学部だったはずだ。俺の数少ない記憶がそう教えてくれている。


「そう言ってたよ。志望大学じゃなかったらしいけどね」

「じゃあ、何でだよ?」


 あまりに淡々と答える神崎君に俺は内心苛立ち、つい語気が荒くなってしまった。だが、そんな苛立ちも彼の次の言葉で消え失せてしまった。


「結婚、したんだ」

「え……?」


 俺は思わず固まってしまった。結婚という予想外の言葉に頭が正確に状況を把握してくれなかった。


「本人からは聞いてないけど、話からするとデキちゃった婚だろうね」

「は……? 本人から聞いてねーってどういう意味だよ?」

「僕には言わなかったんだ。家庭教師を辞める理由も、大学院に行ってもっと勉強したいからだって言ったし……いや、最初は辞める事すら黙ってる気みたいだったんだ。時田先生辞めるらしいけど次の家庭教師どうする? って親から話を聞いたから、問い詰めてみたんだけど」


 彼はそのまま続けた。


「矛盾だらけで納得できない事だらけだったよ。教育学者になりたいならともかく、教師になりたいのに院生になるなんて、絶対変でしょ? だから、僕、先生が所属してる家庭教師の事務所に訊いてみたんだ。そしたら、結婚するって……視界が真っ暗になるって言うのを初めて経験したよ」


 全く予期していなかった重い言葉を不意打ちのように食らう……これは相当キツいものがある。しかも、神崎君にとっては想像し得る中で一番の悲劇だったはずだ。彼の心境を思うと胸を掻き毟りたくなった。


「僕は信じなかったよ。その事務員が僕に嫌がらせを言ってるだけだ、先生が嘘吐くはず無いって……内心不安で潰されそうになったけど、それでも僕は先生の言葉を信じた。いや、信じたかったんだ」

「本人に確認した?」

「したよ。そんな噂を聞いたけど、本当? って」

「彼女、何て?」

「爆笑して否定したよ。『誰がそんな事言ったの? そんなの絶対有り得ないから』って」


 丁度その日が先生の最後の出勤日だった、と神崎君は付け足した。最後だから、色んな事を話した言う。時田先生の夢の熱意、進路、そして神崎君の事を応援する気持ちも変わっていなかった。

 だが、彼は漠然とこのまま二度と会えなくなるのではないかと不安を感じていた。

 その日から自分達の関係は、家庭教師と生徒ではなくただの大学生と高校生になるんだから、と自分の連絡先を渡して、今後連絡を取り合う事を約束してもその不安は消えなかった。いや、むしろ彼は、時田先生が教師になる夢すら諦めようとしているのではないかと第六感で感じていたそうだ。


「だから、最後の日に言ったんだ。『僕はこの先もずっと先生の味方だから。年下で頼りないかも知れないけど、やる時はやるし、これからもっと立派になるから頼ってくれ』って」


 遠回しにプロポーズしたようなもんだね、と彼は笑った。その言葉を言うのに、どれ程の勇気が要るだろう?

 どれ程彼が時田先生の事を好きだったかを示していた。多分、俺が伊織に抱いている気持ちと近い。


「……その返事は?」

「黙って頷いただけ。でも……泣きそうな顔してた」


 そこで時田先生は会話を半分無理矢理終わらせたそうだ。多分、本気で泣いてしまいそうになったのだろう。そしてそれが、彼等にとって最後の会話となってしまったのだった。

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