10-13.二人の願い事
俺は心の中で今日何十回目かの溜息を吐いた。もう一度周りを見回したが、どうやら本当に動いてる気配は無いのだ。
「伊織……停まってる」
「え?」
下を向いていた彼女が怪訝そうに顔を上げた。
「観覧車、停まってる」
「え、うそ?」
「ほんと」
伊織も慌てて外を見てみたが、やはり俺が見たのと同じ光景である。そういえば最近遊園地のメンテナンス不足が問題視されていて、ついこの間もジェットコースターで死亡事故があった。
観覧車だから死亡事故には発展しないだろうが、一体どれ程軟禁されるかわからない。なるべく早く直ってくれると良いのだが、まさか自分がこんな目に遇うとは思ってもいなかった。
つくづくツイていない。いや、むしろツイていると考えるべきか?
どうでもいい奴と乗って軟禁されてたら最悪だが、他でもない伊織とだ。十五分という二人きりの時間が延長されたのだから、逆に幸運とも言うべきなのかもしれない。
「恐い?」
伊織に訊いてみると、不安そうではあるが笑みを見せてくれた。
「……少し。でも平気だよ」
意外に強いんだな、と思った。昨年の暮れ、確か文化祭の準備の時、蜘蛛が髪に付着して反狂錯乱していたくせに……蜘蛛の恐さと機械の恐さは別なのだろうか。そんな事をぼんやり考えていたら、伊織はか細い声で付け加えた。
「……真樹君と一緒だから」
言ってから、彼女は顔を真っ赤にして再び俯いた。俺も顔から火が吹きそうだ。心の一番柔らかい部分を締め付けられ、抱き締めたい衝動に襲われる。
Unlucky Divaが解散してから、ずっとこういった衝動は抑え込んできた。彰吾に対する後ろめたさから、彼女の肩を引き寄せる事ができなかった。
どうして付き合っている俺が我慢しなければならないのだという不満もずっと心の中である。しかし、この状況になっても俺はまだ迷っていた。
本心としては力一杯に抱き締めたいのに、彰吾に対する罪悪感がまだそれを許してはくれなかった。一体何故今更ここまで後ろめたさを感じるのか、自分でもわからなかった。
十二月二十三日に彰吾は伊織に告白してフラれ、その翌日から俺達は付き合い始めた。この時から充分後ろめたさを感じていたのだが、不思議と伊織と何かするという事に、彼に悪いという気持ちはなかった。それは伊織と付き合える事が純粋に嬉しくて、とことん伊織に惚れてしまっていたからだ。 もちろん今でもそれに変わりはない。
しかし、スカウトによる彰吾の戦力外通告と脱退でUnlucky Divaが解散して以来、何故だか伊織と付き合っている事にすら罪悪感を覚えていたのだ。
「私、神様に二つも願い事叶えてもらっちゃった」
不意に伊織はそう言った。脈絡の無い単語に一瞬首を傾げた。
「願い事?」
「うん。一つは真樹君と遊びたいっていうお願い。今日叶ったでしょ?」
「まぁ、一応な……」
その言葉を聞いて、彼女に対しても申し訳なさを感じた。お願いしてまで俺と一緒に居たいと思ってくれているのに、その俺は部屋に閉じ篭って暗中模索。揚句に彼女の幼馴染みに気遣ってデートを避けるとは……まさしく本末転倒だった。
だが、少し疑問に感じた。お願いしなくてはならない程、俺がデートを断ると思ったのだろうか?
「もう一つは……時間が停まればいいなって、今思ってたの」
時間じゃなくて観覧車が停まっちゃったけどね、と彼女は照れ笑いをして付け足した。彼女は本来、あまり自分からは愛情表現の言葉は出さない。それは俺も同じだった。だから俺達はよく街中で見るカップルみたいにお互いを好き好き言わないし、相手に「自分の事好き?」とも訊いたりしなかった。少なくとも俺は、何だか言うのも訊くのも恥ずかしいと思ってしまうのだ。だが、今日に限ってどうして彼女は自分から顔を赤くしてまで言うのかも疑問に残った。
いや、よく考えてみれば、今日は沢山疑問があった。まず一番の疑問は、信の企んだ愚策に伊織が乗って、嘘を吐いてまで俺に参加させた事。しかも、これには二重の疑問が孕んでいて、『神崎君達を仲直りさせる為』と最初から言えば、俺の性格からして絶対に来るのは信もわかっていたはずなのだ。今の俺が信用ならんと言うならば、逆にこの誘い方の方が確実だ。なのに何故?
もしかしたら──伊織達は俺を試していたのではないだろうか?
そう……最初から『神崎君達の仲直りさせる為』と言えば、俺は間違いなく同行する。だが、逆に『伊織とのデートなら来るのか?』という疑問を持っていたとは考えられないだろうか。
おそらく伊織は、最近の俺の事を信に相談していたのだ。今回の遊園地トリプルデートは神崎君達の為だけでなく、俺と伊織の為にも用意されたものだったという事だろう。これ等は全て推測だが、そう考えると全ての辻褄が合い、頭の中で線が一つになった。
Unlucky Diva解散後、俺は最低限の付き合いしか彼女としていなかった。キスもしなければ手も繋がないし、ハグもしない。もちろん、体を重ねることもなかった。ただ話して、ご飯を食べるだけ……今月の自分を思い返すと、彼女には素っ気なく見えたのではないか。
話したりご飯を食べたりするだけでも恋人同士なら十分楽しい。何もスキンシップをする事だけが恋人関係ではなく、一緒に映画を見たり音楽を聴いたりするだけでも、好きな人となら楽しめる。だが、そこに僅かでも素っ気なさを感じてしまうと、不安になってくるのではないだろうか。
そう……伊織は不安だったのだ。だから普段なら言わない事を無理してまで言って俺に気持ちを伝えようとするし、わざわざ神様にお願いもする。バンド解散が自分達の関係にまで影響を与えるのではないかと、彼女は最も危惧していたのだ。
そこから見えるのは、この前伊織が言った『バンドが解散しちゃっても、私達は変わらないよね?』という懇願にも似た想い。俺はあの時、何て言った?
『当たり前だろ』
確かにそう言った。本当にそう思っていた。だが、それを実行できてなかったから伊織はこんなに不安になってるのだ。
俺は……自分が思ってるより、遥かにバカだ。
全てが確信に至ると、俺は何も言わずに伊織を抱き締めていた。
「えっ……ちょっと、真樹君? どうしたの?」
当然伊織は困惑していた。
こうやって抱き締めるのは、本当に久しぶりだったから。
「……ごめん」
「え? どうしていきなり謝るの? 観覧車停まったのって真樹君のせいじゃないよ?」
「違うっつの。そうじゃなくて……不安にさせてごめん」
「真樹君……」
彼女は俺の名を呟いただけで、それ以上何も言わなかった。ただ……彼女も俺の首に手を回して、抱き寄せてくれた。いつもより、力強く。
「信に相談とかしてた?」
こくり、と彼女は無言で頷いた。俺もそれ以上は何も訊かなかった。それがわかればもう十分だし、無理に彼女に問い詰める気もない。
「もしかして……もう全部バレちゃった?」
「バレバレだっつの」
さっき彼女が言ったのと同じように返してやった。伊織はくすっと泣きそうに笑って、額を俺の右肩に押し付けてきた。
「嘘吐いてごめんね……でも、すぐに『行く』って返事くれた時、本当に嬉しかった」
語尾が震えていた。俺は彼女が泣き出さないように、もう一度強く抱き締め、髪を撫でた。
あの時、俺も伊織から誘われて嬉しかった。だからすぐに返事をしたのだ。アレが俺の正直な気持ちだったんだと思う。
素直さが必要だったのは、神崎君と双葉さんだけではなかった。俺ももっと自分の気持ちに素直になるべきだったのだ。変に彰吾に同情して伊織と距離を置いても何にもならないのはわかっていたはずなのに……。
──同情?
今まで一度も出て来なかった言葉がスッと出てきた。だが、その言葉は俺の疑問に対する完全な答えだった。
「そっか……俺、彰吾に同情してたのかもしんない」
「同情……?」
どうして彼に後ろめたさを感じるのか……ずっと悩んでいたが、多分これが答えだ。この答えは以前から何となくわかっていたのかも知れない。だが、何故同情するのかを考えると、自分が物凄く卑しい存在に想えてくるから、考えないようにしていたのだ。
それは……彰吾に対する〝優越感〟。これがあるから同情心が湧く。彰吾がスカウトの人に戦力外通告されて、とにかく申し訳ない気持ちが先走ったのだ。小学生の頃からずっと好きだった幼馴染みはしゃしゃりと出てきた俺によって奪われ、又それは同時に幼馴染みとしての関係さえも確立できなくさせてしまった。そして、更なる追い撃ちとして、音楽でも彼は道を閉ざされた……まさしく彰吾は踏んだり蹴ったりだった。
せめて、戦力外通告されるのが俺だったら……何度こう思ったかも解らない。だが、そんな同情は彰吾にとっては侮辱以外の何物でもない。俺が同情していた事を彼が知ったら、間違いなくぶん殴られる。
これは……俺の醜い部分だ。だが、自分に対して知らしめておくべきだと思った。そうでないとずっと彼に後ろめたさを感じるし、伊織を不安にさせてしまう。
「ねえ真樹君」
同情という単語を聞いてから黙り込んでいた伊織が、顔を上げて俺の名を呼んだ。
「……何?」
「私は彰吾の事傷つけてばかりで、それに対しては本当に申し訳ないと思ってるの。もっと他に選択肢は無かったのかなって……今でも後悔してる」
「うん……」
「でもね? 私……真樹君と付き合ってる事で後悔なんて、一度もしてないから」
その言葉を聞いて胸が張り裂けそうになった。痛くて、でも甘酸っぱくて、愛しくて……狂ってしまいそうだった。
俺は本当にバカだ。伊織はこんなに想ってくれているのに、変な心配ばかりして、揚句に彼女を不安にさせて……我ながら情けない。そんな情けない自分を隠す為に、俺は伊織を力一杯抱き締めた。彼女の華奢な体では壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、強く。
「真樹君、苦しいよ……」
彼女は身じろぎをしつつ呻いたが、俺を押し返そうとはしなかった。その呻き声も何処か幸せそうな響きを感じた。俺はもう、何も考えられなかった。この短い間に色々考え過ぎた反動かも知れない。
だが、一つだけ言える事がある。伊織の願いを叶える為に神が観覧車を停めてくれたとしても、俺の方が神に感謝すべきだ。この観覧車の故障で救われたのは、間違いなく俺の方だった。
──ありがとう、どこかの誰か。
心の中で感謝の意を述べた時、ガタッという音と共に観覧車は再び動き出した。
「あっ……」
少し残念そうな伊織の嘆息が耳に流れた。
俺の中でも安堵の気持ちと寂しい気持ちが入り混じっていて、複雑な心境だった。もう少しだけでも停まってくれていたら良いのにと思いつつも、互いの腕の力は緩められていた。
「真樹君……?」
「ん?」
「もう一つだけ願い事叶えてくれる?」
「……⋯俺にできる事なら」
伊織が俺を見つめてくるので、彼女のその潤んだ瞳を見つめ返す。その瞳を見つめているだけで、俺の胸は高鳴った。
「えっと……や、やっぱりいいや」
ガクッと体が崩れた。ドキドキさせといてそれは無いだろう。
「何? 教えろよ」
「もういいってば」
心無しか赤くなっている顔を恥ずかしそうに背けた。何でいきなり怒られなければならないのか、若干腑に落ちない。
願い事なら、俺にもある。それは伊織にしか叶えられない事だ。
自分の気持ちに正直に……今得たばかりの教訓に、俺は早速従う事にした。もちろん言うのも実行するのも勇気が要ったけれど……でも、無理して我慢するよりもずっと楽だった。
「伊織……代わりに俺の願い事叶えていい?」
「え?」
彼女がこちらを向いた時……その瞬間を狙って、伊織の唇に優しく口付けた。
「………………」
不意をつかれて、伊織の目が点になっていた。ゆっくりと唇を離し、お互い黙ったまま見つめ合う。そして、同時に噴き出した。
「もう……ばか。いきなりはずるいよ」
半分恨めしそうに、でも残り半分は恥ずかしそうに言った。
「嫌だった?」
「んーん……」
彼女は首を横に振った。
「だって……それが三つ目の願い事だったから」
小さな声で言ってから、また彼女は俯いた。気がつけば、地上はすぐそこまで近づいていた。
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