2-11.少し出来てしまった隙間

 帰りの道中、伊織とは会話が全く進まなかった。何を切り出せば良いのかさえわからない。さっきまで恋人のように近い位置にいたのに、今では遠く離れていってしまった感じさえしてしまう。

 信と仲直りできたら次は伊織とこれである。しかもまた中馬さん絡み。彰吾も怒っていたし、一体俺が何をしたと言うのだろうか。

 もしかして、中馬さんは俺にとってなんらかのマイナス因子を持ち込む存在なのではないか。彼女になんら罪はないのだが、少しその可能性も考えてしまった。


「あの、伊織? もしかして怒ってる?」


 勇気を出して訊いてみるが、返ってきた返事は極寒のアラスカを思わせる程冷たいものだった。


「どうして? 私が怒る事じゃないでしょ? LIMEって誰とでもするものだし」


 どう考えてもその言い方が怒っている。それに、こっちを見てくれないし。心なしかいつもより歩くスピードも早い気がする。

 この前俺が中馬さんと話した時はそんな態度を全く見せなかったくせに、何で今日に限ってそうなるのかがわからなかった。


「俺、中馬さんとLIMEするつもりないよ」

「どうして? 別に告白されたわけじゃないんだし……突き放すと気まずくなっちゃうよ?」

「それはそうだけど……」


 どうしてそういう言い方をするのだろう。それで不機嫌になられるのなら、『私以外とLIMEしないで!』と言われる方がまだ楽だ。これではどうして良いか解らない。

 確かにLIMEしなかったら中馬さんは悲しむかもしれないが、逆にしたら伊織が嫌な想いをするんじゃないのか? それこそ、今みたいに。

 ただ、例えそう思っていたとしても、伊織は絶対にそんな事を言わないだろうなとも思う。彼女がそういう女の子である事はよく知っていた。彼女は何でも我慢してしまうのだ。自分がいくら欲しいものでも誰かが欲しがっていたら譲ってしまう……きっと、伊織はそんな性格だ。

 しかし、例えば、だ。とても大それた例を出すとして、もし伊織が俺を好きだったとしても、彼女は他の誰かが俺を好きだと言ったら譲ってしまうのだろうか。もし譲ってしまうのならば、果たしてそれは本当に好きだと言えるのだろうか。その程度しか好きになっていなかった、という事になるのではないか。

 俺なら誰にも譲りたくない。例え相手が芸能人でも、彰吾であっても伊織を渡したくないし、何があっても負けを認めない。この辺りは俺と彰吾はよく似ているのかもしれない。

 俺が唯一諦めるとすれば……彼女が誰かを選んだ時だ。その時は潔く諦める。

 そうこうしてる内に、彼女の家の近くまで来ていた。結局カフェからの道のりでは殆ど話してない。


「あ、その……彰吾の事だけどね」


 伊織が唐突に彰吾の名前を出すので、驚いて彼女を見る。


「悪気があったわけじゃないの。ちょっとイライラしてただけみたいだから、怒らないであげて。私の方からも謝るように言っておくから」

「ああ……わかったよ」


 俺が聞きたかったのはそういう事じゃないのに。でも、それ以上何か言える雰囲気でもなくて。


「じゃあ、またね」


 彼女はそれだけ言うと小さく手を振り、家へと歩いて行こうとした。


「伊織、待って」

「ん?」


 気がつくと彼女を引き止めていた。別に何か気の利いた言葉が浮かんだわけでもないのに……引き止めてから言葉を必死に探している俺は非常に間抜けだ。


「今日はごめん……図書館行こうとか言ったからこんな事になって」


 結局浮かんだのはこんな言葉だった。間抜けにも程がある。他にも言うべき事はもっとあるだろうが、と思うのだけれど、上手い言葉が出てこない。


「ううん、そんな事ないよ。みんなを助けれたのは真樹君がそう言ったからなんだし……逆に彰吾とかだけだったらもっと大事になってたかも。ツイてたんだよ」


 彼女がまだちゃんと〝真樹君〟と名前で呼んでくれていたことに、安堵を覚えた。今の雰囲気ではまた以前のように〝麻生君〟に戻りそうな感じだったからかなり心配していたのだ。


「その……伊織さえよかったら、なんだけど」

「なあに?」

「来年の夏、一緒に花火見に行こうな。もっと大きな花火大会の」


 その提案に、伊織は視線を地面に逸らした。


「来年になってもまだ私と行ってくれるのかなぁ……」


 彼女のこの言葉に、沸々と黒い靄が腹の中で育っていくのを感じた。何でそんな言い方ばっかすんだよ、と怒鳴りたい気分だ。それは俺のセリフなのに。伊織は尋常じゃなくモテるんだから、色んな人から好かれるのだから、俺なんかが一緒に行ってもらえるかが問題なのに、どうして俺が行ってくれるかと彼女が心配するのかがわからない。

 苛立つ一方で、必死にその黒い靄を押し殺した。今ここでこの靄を爆発させてしまうと、それこそ本気で関係が壊れてしまいかねない。一度深呼吸をし、自分の気持ちを落ち着ける。

 違う。俺は伊織に怒りたいわけじゃない。それを改めて自覚して、自分が本当に伝えたい言葉だけを冷静に心から引き出して行く。


「何言ってんだか。来年も絶対に伊織と行くよ。嫌だって言われても、ひっぱたかれても、蹴られても行くから」


 冗談っぽく言うと、そこで彼女もぷっと噴き出して「期待してるね」と微笑んでくれた。どうやらご機嫌が治ったようで、俺もほっと一息吐いた。

 伊織はこちらに歩み寄ってきて、俺の右手を取った。


「まだ痛む?」


 彼女に触れられただけで、ズキズキとまだ痛んだ。


「うん、まあ……」

「帰ったらちゃんと冷やして、寝る前に湿布も貼り替えてね。氷はある?」

「あるよ。大丈夫」


 言うと、伊織は両手でそっと優しく俺の右手を包み込んで自分の胸の前に持ってくる。そして、じっと俺の瞳を見つめた。


「お願いだから……もう、危ない事しないで」


 さっきカフェで見せたように、また泣きそうな顔になって、どんどん瞳に膜を張っていく。涙が零れそうになったからなのか、伊織は顔を伏せた。


「いなく……ならないで」


 小さく小さく、まるで誰かに懇願するように呟いた。そこにはまるで迷子になって置いて行かれた少女のような孤独感と寂しさがあった。


「わかった、約束するよ。喧嘩もしないし、いなくもならないから。っていうか大袈裟だよ」

「うん……約束だよ?」


 もう一度頷いてみせると、ようやく伊織が微笑んでくれた。

 どうして彼女がそこまで俺を心配してくれるのかがわからない。ただ、俺なんかの為にここまで心配してくれる人なんていないのだから、そんな彼女に心配をかけない為にも、これからは喧嘩や暴力は絶対にしない。

 彼女が巻いてくれた包帯と、それを包む彼女の手のあたたかさに、そう誓った。

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