2-8.お互いの名前

 ──日曜日の夜。商店街に着いた途端、俺と麻宮さんから溜息が漏れた。


「……ほんとに一杯だね」

「だから月曜が良いって言っただろ」


 祭りはこの商店街を中心に大通りまで屋台が出ていて、この町の全人口が集まってるのではないか、と思うくらいに人間がうじゃうじゃいた。自爆テロでも起こせばかなり効率良く犠牲者を出せるだろう。


「迷子になりそう……」


 麻宮さんが不安そうに呟いてワンピースの裾をぎゅっと握っていた。

 今日、彼女は私服だった。淡い白系のワンピースの上から、デニムのジャケットを羽織っている。浴衣姿でないのが残念だが、この季節だから仕方がない。


「あっ」


 人混みに押されたせいで、互いの手の甲が触れる。一気に胸が高鳴り、触れた箇所が電撃が走ったように熱くなった。気まずい沈黙が訪れ、彼女は下を向いてしまう。

 どうすれば良いのかさっぱり解らなくて、頭の中は真っ白だ。ただ、こんなところでパニックに陥るわけにはいかない。それは男としてあまりにみっともないだろう。ステータスが混乱状態になっていた思考を何とか落ち着ける為に、深呼吸をする。

 しっかりしろよ麻生真樹、と自分を𠮟咤激励した。

 麻宮さんは、俺を祭りに誘ってくれた。消え入りそうな声で、勇気を出して誘ってくれたのだ。そんな彼女の勇気に応えないで、ここで勇気を出せないでどうするんだ。

 もう一度深く深呼吸して、意を決した。


「なぁ、麻宮さん」

「な、なあに?」

「その……手、繋がないか? はぐれたくないし」


 恥ずかしくなってしまって、『はぐれたくないから』という苦し紛れな言い訳を付け加えてしまうところが、情けない。心臓が痛いほど高鳴るのを我慢しながら彼女の返答を待った。

 すると……麻宮さんは無言で小さく頷いてくれた。


「え、ほんとに?」


 信じられないという気持ちで彼女を眺めた。麻宮さんは相変わらず下を向いたままだが、頷いたままそっと手を差し出した。

 心臓が高鳴って、胸が痛い。汗ばむ手をジーンズで拭いてから、彼女の白く綺麗な手を壊れてしまわないようにそっと包み込んだ。

 これ、夢じゃないよな? 思わずそんな疑問が湧いてしまう。頼むから目覚まし時計がなってベッドの中でしたっていうオチはやめてくれよ。

 そう思いながらも、手のひらから感じる彼女の温もりが、夢ではない事を証明していた。

 心臓が破裂しそうなくらい高鳴っている。嫌な緊張や不安の動悸ではなく、心地良い動悸。こんな緊張は初めてだった。

 前のデート(あれをデートと言っていいのかわからないが)でボウリングをした時にも、ハイタッチをしたり、半分事故みたいな形で爪を切ってあげたり等という出来事はあった。しかし、あの時は、今の様に、互いの気持ちが一致していたわけではない。

 今は、互いに手を繋ぐ意思が一致していた。ただ手を繋いでいるだけなのに、世界に光が溢れ、全ての闇が消え去ってしまいそうな神々しいオーラが俺達から放たれているように感じる。これが幸せというやつなのだろうか?

 今まで経験した事がないから解らないが、世界そのものが小さく感じた。こんなに人がたくさんいるのに、まるで俺達二人だけしか世界に存在しないみたいだ。彼女と出会ってから、何もかもが初めて尽くしだった。

 麻宮伊織とは、本当は天使なのではないだろうか。俺の曲がった心を戻すために神が遣わせた天使……そんな気がしてならない。これが夢じゃない事を祈るしかなかった。

 彼女の小さな手が、俺の手をそっと握り返してくる。生きてて良かった、と……初めて本気で思った。



「実はね、男の子と二人きりでお祭り来るのって初めてだったの」


 タコ焼きを買って道路際で食べていると、彼女は不意にそう口にした。彼女曰く、東京のタコ焼きは、大阪のそれよりも大分劣るらしい。そう言えば彼女と初めて下校したときも、タコ焼きを食べていたな、とふと思い出した。


「それですっごく緊張してて、何話して良いかわかんなくなっちゃって……ごめんね? 気まずかった、よね」

「いや、俺もだよ。こういうの初めてで、頭が回らなかった」


 強いて言うなら手を繋いだのも初めてだが、そんな事まで言えやしない。でも、意外な話だった。男と二人きりでお祭りに来た事がないとは、どういう事なのだろうか。彼女は今まで夏場に彼氏がいなかった、とか? こんなに可愛いのに? それに彰吾は? 諸々の事情を考えても、なんとも考えにくい事だった。絶対男には困らないと思うのだが。


「でも、さすが麻生君だよね」

「は? 何が?」

「女の子を安心させるのも上手」

 ちょっと悪戯そうに笑って、彼女が俺を見る。

「……何でそうなるんだよ」


 本心を言っただけなのだが、また変な勘違いをされている。本当に緊張して初めて尽くしなのに、そんな風に思われては今後ヘマができなくなってしまうのでやめてほしい。

 ふと視線を道路に戻すと、道行く人達は林檎飴だとかを食べながら連れ人と楽しそうに歩いていた。ベタベタとくっつきまくっているカップルもいれば、俺達のようなドギマギしたカップルもいたし、家族連れもいた。祭りとは縁が無かったけども、祭りって本来こういう楽しい空間なのだな、と認識できた。彼女が誘ってくれていなかったら、祭りの良さに気付くのにはもっと時間が掛かっていただろう。


「ところで、何で彼氏と祭り来なかったの? 歴代彼氏は俺みたいに祭り嫌いだったとか?」

 俺は到って真面目な質問をしたつもりなのだが、麻宮さんは上目を遣ってムスッと責めるような視線を送ってきた。

「え、なに?」

「……今まで誰とも付き合った事ありませんから」

「嘘だぁ⁉ ……あ」


 衝撃のあまりタコ焼きを落としてしまった。落ちたタコ焼きを虚し気に見つめる俺と、ぷっと吹き出す麻宮さん。


「でも、前の学校でも今みたいにモテてただろ?」


 何事もなかったかのように咳払いをして、話を戻した。


「え?」

「よく告白されてるじゃねーか」

「あ、知ってたんだ……誰にも言ってなかったのに」


 麻宮さんは気まずそうな表情をして、視線を逸らした。この話題に触れられるのは、嫌なのかもしれない。


「噂で聞いただけだよ。男側が『麻宮にフラれた』と仲間に言えば広まるんだし」

「そっか。そうだよね……」


 言わなくていいのに、と呟いて彼女は溜息を吐いた。言葉尻からも迷惑そうに感じる響きがある事から、彼女は告白される事に対して億劫さを感じているのかもしれない。

 俺には経験がないからわからないが、彼女程たくさん告白をされていたなら、断るのも面倒そうだ。


「……確かに告白はされたけど、今までOKした事なんてないよ」

「え、なんで? もしかして理想高いとか?」


 思わず訊いてしまった。それなら俺なんて一次試験で落ちてしまう。彼女が振ったリストの中にはスクールカースト上位のイケメンもいるのだ。


「そう思われたくないから誰にも言わなかったの」


 彼女が不快そうに少し眉を顰めた。心優しい彼女は人前であからさまに不機嫌な態度を示さないが、これは麻宮さんが不機嫌な時にする表情だった。主に彰吾の冗談で迷惑を被った時によくこうやって眉を寄せている。


「あのね? じゃあ訊くけど、真樹君は全然話した事ない人とか、何度か挨拶した程度の人にいきなり告白されて付き合える? 名前も今まで知らなかったんだよ?」

「それは……確かに無理かも」


 麻宮さんに告白されたら何も知らなくても付き合ってしまうかもしれないと思ったが、その言葉は心の奥底に仕舞っておく。


「でしょ? 好きになってくれるのは嬉しいけど、私の何を好きになったのかも解らないし……こう言ったら何だけど、恐かった」


 なるほど。どうやら、モテ子はモテ子で大変らしかった。

 というか、女の子側の心理になって考えてみると、怖いと思うのも当然だ。女性は基本的に腕力では男には敵わないし、場合によっては危険な目に遭うかもしれない。しかし、相手の気持ちに答えるためとは言え、怖いながらも一応ちゃんと返事をするところが麻宮さんの律儀な性格を表していた。


「追っかけは別としてもさ……仲良くなった奴も居ただろ?」

「中学の頃は仲良かった男の子もいたけど、彰吾がその人と喧嘩しちゃったみたいで……それっきり話さなくなっちゃった。二人とも何も教えてくれなかったし」


 呆れて物も言えない。これはおそらく彰吾の嫉妬というやつだ。その彼氏候補の奴も、そんなうるさい奴が周りにいては、面倒臭くなって諦めてしまったのではないだろうか。

 ただ、それで諦めてしまうのなら、そいつの気持ちはその程度だったのだ。俺ならどんな障害があろうとも最後まで諦めやしない。例え彰吾とぶつかる事になっても、だ。

 それに、例え嫉妬したとしてもそれを相手の男にぶつけるなんて、最悪なパターンだ。人としてやっちゃいけない。麻宮さんが彰吾と距離を置きたがるのはそれが原因なのだろうか。


「怒らなかったのか?」

「うん。彰吾は困った時とか辛い時にいつも助けてくれてたから、何も言えなくて」


 麻宮さんは眉を寄せて困ったように笑った。

 彼女は少し嫌な事があったとしても、こうして笑って、我慢してしまうのだろうか。きっと彼女も心の中では嫌な気持ちだったに違いない。俺が麻宮さんの立場なら彰吾に怒っていただろう。

 彼女はこんな性格だから、ずっと我慢して生きてきたのだろう。何が『麻生君は無意識に周りに気を遣ってる』だよ。麻宮さんだって人の事なんて言えなくて、彼女自身我慢しまくりな人生だ。それなのに、彼女は卑屈になる事もなく前向きに生きている。いや、生きようとしている。

 何とかしてあげなくちゃいけない、と思った。彼女が天使だとしても、助けられるのが俺ばかりでは、あまりにもかっこ悪い。


「……俺が守るよ」


 気付けば、そんな言葉を発していた。


「え?」

「これからは俺が麻宮さんを守るし、助ける。そしたら彰吾にも言いたい事言えるだろ?」


 我ながら驚くべき事を言っている。自然にすらっと無意識に言っている自分に驚きだ。こんな事、絶対に言えないと思っていたのに。

 いきなりナイト発言なんてしてしまったから、もしかして引かれてしまったのではないだろうか──そう思って恐る恐る彼女を見ると、ぎょっとした。何と、彼女は瞳を潤ませていたのだ。


「ありが、とう……」


 涙声でそう言うと、慌てて下を向いて「ごめん、タコ焼きの中に辛いやつ入ってたの忘れてた」と言いながら、鼻を啜る。

 辛いタコ焼きなんて買ってたっけ? ふとそんな疑問が浮かんだが、ティッシュと彼女のお茶を渡してやる。


「いや、もちろん俺には言いたいこと遠慮せず言ってくれていいからさ。嫌なことなら嫌って言ってほしいし」

「うん……」


 彼女がお茶を口に含んで一息吐くと、そこで沈黙が訪れた。

 麻宮さんは下を向いたまま鼻を啜っているし、俺は俺でどうすればいいかわからない。

 やはり、こういった事は言わない方が良かったのだろうか。彼女が俺と仲良くしていたのは、そういう関係を求めていたのではなくて、ただ普通の友達として話易かったからなのではないのか。

 もう一度やり直せるなら五分前からやり直したい……そんな後悔をしていると、麻宮さんは食べ終わったタコ焼きの容器をごみ箱に入れて、立ち上がった。


「あの……名前でいいよ?」 


 消え入りそうな声で、彼女がちらりとこちらを見て言う。


「へ? 名前? 名前って何が?」

「だから、その……名前で呼んでくれた方が、嬉しい、です」


 顔を赤らめて、もじもじとしながら言う彼女を見て、俺の胸は嫌という程跳ね上がった。

 それは、その……俺はどう受け取れば良いのだろう? さっきのナイト宣言はセーフと思っていても大丈夫だったのだろうか。


「伊織……って呼んでいい?」

「うん、もちろん」


 嬉しそうにはにかみながら、彼女は頷いた。「ちょっと恥ずかしいね」とくすぐったそうに笑っている彼女の頬は赤く染まっている。


「えっと、じゃあ伊織。俺もお願いがあるんだけど」

「なあに?」

「俺も名前で呼んでくれない?」


 そう言うと、伊織は少し驚いて、俺の視線から逃げるようにまた下を向いてしまった。

 そのまま彼女の返答を待っていると……上目で恥ずかしそうに俺を見て、こくりと頷いた。

 あまりにその仕草が可愛すぎて、悶え死にそうになってしまった。やっばい。なんだ、これは。可愛くて仕方がない。今周りに人がいなかったら絶対に抱き締めていた。

 その欲望を必死で抑え込んで俺達は雑踏へと再び向かった。まだ花火まで随分時間はあるし、こんな人がたくさんいるところで抱き締めるなんてできやしない。

 歩いている時、今度は伊織の方からそっと手を繋いできた。驚いて隣を見ると、そこには顔を赤らめながらも、嬉しそうにこちらを見上げる彼女がいた。


「いっぱい想い出作ろうね……真樹君」


 今度は俺が恥ずかしくて何も言えなくなって、頷くしかなかった。

 俺達はどこか似た者同士なのかもしれない。細かいところまで挙げていくと、俺はめんどくさがり屋だし、ネガティブだし、ほかにも問題点は俺の方が遥かに多いのだが、心のどこかで俺達は同じ境遇に居た気がした。

 思えば、初めて話したあの日から……何かを感じていた。出会うべくして出会い、仲良くなるのも最初から決まっていたかのような不思議な感覚だった。

 こうして彼女と手を繋いでいると、ドキドキする反面、心が安心感で満たされていく。

 ──この手を離したくない。

 恥ずかしそうにはにかむ彼女を見て、俺は強くそう思っていた。

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