後編


 家に帰ると、いつもは外の桜に座っているはずの奴がわたしの部屋で眠っていた。


「何やってるんだよー」


 軽く声をかけたわたしに返事もせず、獅子ほどの大きさの体を器用に丸めたまま。

 胡乱な様子に肩をすくめて、そのままに寄りかかる。見た目通りにふかふかとしたその感触とお日様のような薫りに気を良くして顔を埋めれば、微睡むように目を閉じた。

 何分か、何十分か経った頃。奴が小さく口を開く。


「……私ね、飼い猫だったの。もう、五百年以上は前のことだけどね。私が子猫だった時から飼ってくれていた飼い主は、あの人が十五歳になった時に死んだのよ」


 化け物が話し始めたその内容は今日、担任から聞いていた。

 うん、うん、とだけ相槌を打つわたしに、頭を乗せるようにして体を寄せてくる。


「水死、というより溺死だった。崖から落ちそうになった私を助けようとして、そのまま真っ直ぐ海に落ちたの。何が起こったか、すぐには分からなかった。集まってきた人たちを見て、私の飼い主が私を助けて死んだことに、やっと気付けたの」


 それは遠い遠い、わたしなんかにはどれくらい遠いか分からないくらい過去の話。何百年も続いてきた、悲しみの話。

 猫又の話をしてきた担任も、とても悲しそうに話していた。


『あいつはさ、たぶんずっと飼い主を想っているんだよ、五百年経った今も。あいつの飼い主の家族は、あいつを責めなかったらしいんだ。人に恨まれる訳でもなく、恐れられる訳でもなく、ただ何年も何年も飼い主を想っている内にあいつは猫又になった。死ぬこともできない、飼い主を持つこともできない、化け物になってしまった』


 猫みたいではなく、こいつは本当の猫だったのだ。それが例え、ずっとずっと過去の話でも。


「もういっそ人でも襲ってやろうかと思ったこともあったけど、でもやっぱり出来ないもんなのよね。だって私は人間が憎くて化け物なった訳じゃないから。そんなことばっかり考えて百年以上経った時に、私のことが見える十五歳の少年が現れたの」


『――理由は無いらしいんだ。要は霊感が強い、とかそういう感じなんだと思うんだけど。そうして出会ってしまったら、あいつはその少年や少女に近づく。ただ、飼ってもらうために。そして、俺の前にもやっぱり突然現れたんだよ』


 化け物と過去の少年が語ったのは、世にありふれた様な、でもどうしようもなく悲しい話だった。

 淀みなく、人間の言葉を話すこの化け物の頭を撫でる。


「嫌ね。そうやって出会っても子供たちは私が見えなくなる。時代が変わっても、そうやって子供が大人になっていくのは変わらないの。それを止められないの。こんな化け物でも」


 答えられないでいたわたしの頬をその二つの尾で撫で上げると、すくと立ち上がった。


「背に乗って。……見せたいものがあるの」


 明るい声を出したその姿は、また昼間の友人に重なった。






  *   *   *






 猫又が連れてきたのは、小さな頃から何十回、何百回と遊びに来た砂浜だった。夜の海は昼間とは全く違う顔をしていて、知らない場所に連れてこられてきたような、奇妙な気持ちがした。

 人一人乗っけてきたのにいつも通り涼しい顔をしていた化け物はわたしに近づき、体を擦り寄せてくる。


「そういや、初めてお前に乗ったな」


 出会ってから何度も飛ぶ姿は見てきたのに、こうした経験は初めてだった。音もなく宙を滑り、星が瞬く夜空の中を飛ぶのはなかなか気持ちが良かった。

 きっと、もう二度と無いことだろうけど。


「怖かったー?」


 からかうように笑ったそいつの鼻先をくすぐると、やめろと言わんばかりに尾で殴られた。痛い。


「ちょっと、あれ見てくれる?」


 意外と強かった殴打によって赤らんだ頬をさすりながら、二股の尾を揃えて指された方を見る。視線の先には、この島に十五年も住んでいるわたしも見たことが無い、小さな小さな岩礁みたいな小島が夜の海に浮かんでいた。

 その島には、大きく、高い、葉も花もついていない古い桜の木が立っていた。

 それは、あまりにも儚いもので、だから。

 ……だから、ちょっとだけあの朗らかな笑みを浮かべていた先生を怨む。

 それは、もうこの後の展開は決まっているから。

 何百年もの、わたしと同じ様にこの景色を見てきた子供たちを想う。

 幾度なく繰り返されてきた、玻璃色の御伽噺を想う。

 泣きそうになって、歯を食いしばった。涙を零すのには、まだ早い。結果がどうなるかは教えてもらったけど、でもこの過程は何も教えてもらっていない。だからできるだけ、この化け物に応えてやりたいと思った。


「あのね」


 ぽつりと流れてきた言葉に耳を傾ける。たぶん、最後の会話になるから。

 ふわりと、風もないのに夜の海が薫る。それはきっと、こいつの匂いだ。


「この島を出ても、私を忘れても、あなたは十五歳だった時があって、あなたが過ごしてきた十五年間があって、それは一生消えないのよ」


 それは、わたしよりも遥かに長く生きてきたこいつの、精一杯の励ましと強がりだと、すぐに分かった。滲む涙を堪えることを諦めたわたしは、思い切り化け物に抱きついた。別れを理解できても、やっぱり納得は出来なかった。わたしたちはたった一回だけなのに、こいつは何度となくこんな思いを見送ってきたのだ。


「……あぁ、怖い。怖いよ、本当に怖いさ。お前を忘れることも、この島を出ることも、友人たちが残ることも、大人になったら仕方ないって片付けちゃいそうな自分も。今の自分と変わっていくことが、怖いんだ」


 つっかえつっかえの言葉は、ずっとずっと思ってたことだった。子供から大人になる自分を教えてくれたこの化け物は、今きっとわたしの目の前からいなくなる。そうしたらきっとわたしはもう、時間にも自分にも抗うことができなくなる。


「それでも、あなたは私が見えなくなる。この島を出る。でもね、でも」


 見つけてくれたのが、あなたでよかったと笑う。人間だったらくしゃくしゃな顔をしてるであろう化け物は、やはり会った時と同じように美しくて、どうしても涙が止まらなかった。

 もう一度だけわたしに擦り寄り、そうしてあいつは音も立てずゆっくりと海上に漣を立てて歩いていった。

 追い縋ろうと、自分も夜凪が生んだのっぺりとした海に這入っていく。ばしゃばしゃと音を立てて、みっともなく追いかけようとして。でも、胸まで水に埋まったところで足を止めた。


 桜の島の奥に浮かぶ月が、黒い鏡の海に光の道を作っている。

 その上を、あの美しい白猫が歩いていた。

 わたしは、ただそれを見ていた。


 島の前で立ち止まり空を見つめていたそいつが、ふわりと飛び立つ。かと思えばあの桜の古木に降り立ち、わたしの家にいた時と同じように枝の上に優雅に座った。それからわたしを見つめて、大きく大きくあの二つに分かれた尾を月夜になびかせた。

 わたしの語彙力では形容したくない白い毛を輝かせて「忘れるな」と声のないまま訴えてくる。

 そして。

 ふぅ、とあいつが枯れ木に息を吹きかけた。

 たったそれだけ。その瞬間に。



 玻璃の花びらで彩られた桜の花が、その古い古い木に咲き乱れた。



 伝説で語り継がれてきた硝子とは、たぶん違う。そう思いたい透明なその花びらが月光に照らされ、透明で形のない輝きを放っていた。

 玻璃色の花びらがわたしの頬を何度も何度も撫で、この幻想がたった一夜の奇跡であることが簡単に分かってしまった。


「桜の木の下にはって、ことか」


 この野郎、と呟いたその声は、隠しようもない涙声だった。

 ここはきっと、飼い主の海なのだ。

 この玻璃はあの化け物のわたしたちへの餞で、飼い主への想いの結晶なのだ。


 「にゃあ」


 そこは水底だと言うのに、足元から小さな声が響く。思わず目を向けると、揺蕩うように白の毛を纏った小さな猫がわたしを見つめていた。

 思わず声を出して笑って、それから息を深く吸った。ぱしゃりと、屈んで水面を破る。顔に張り付いていた熱い塩水は、海に溶けて無くなった。目尻の熱も、海に溶けて漂っていく。

 不思議と視界は明るくて。白砂の上に見えた子猫の喉元を、「いつものように」撫でてやる。そうして、くるると喉を鳴らした白猫を抱きしめた。その抱擁には、ありったけの感謝と寂しさを込めて。

 子猫を抱えたまま、顔を上げた。そして、あの幻想の島を見る。

 そこにはたった数ヶ月の間一緒にいた化け物がいて、静かにわたしを見つめていた。なんとなく、でも当然のように、何かを伝えても意味がないと思った。

 我慢できなかった涙は、髪からぽたぽた垂れる海の水に混じって分からないだろう。でも、嗚咽はどうしようもなく漏れてしまっていて。

 それでも、わたしはあの化け物をただ静かに見つめていた。

 奴が「にゃあ」と一声鳴き、もう一度玻璃の桜の木に息を吹きかける。

 それきり、わたしが「飼っていた」その化け物と最後に現れたいつかの小さな白猫は、花びらの舞う月夜に溶けるように消えてしまった。






    * * *






 猫又と別れたあの日、自分がどうなったのかよく覚えていない。気が付いたら家の自分の部屋にいて、それを別段不思議だとも思わなかった。

 あれから私はやっぱり島を離れて、目指していた教員になった。島の友人とは疎遠になったり、そうでなかったり色々だ。ただ、思っていたよりもつまらない大人にならなかったとは言える気がする。それも、あの化け物のせいなのかもしれないけど。

 あれから三十と一年。教職員として自分の島に呼ばれた時から、なんとなく予想できていたことが起きた。

 何もいない「はず」の場所に向かって焦ったように、来るなよ、何してるんだよと声をかける最上級生の女子生徒を見つけた。彼女はこちらに気が付くと、十五歳の私と同じ様に恥ずかしそうな、焦った様子を見せる。

 だから、良かったと。またお前を見つけてくれる奴が現れて嬉しいと。そう、思う。

 それ程に楽しくて、寂しくて。――悲しい、夏休みだった。

 いつまでも、いつまでも記憶に残るのは、美しいあの化け物の姿と、いつかに飼い主に甘えていたのであろう小さな白猫の姿。


「……先生。あの、信じていただけないとは思うのですが」


 何故、私にその話をしようとしているのか自分でも分からない。そんな顔で綴られていく言葉に、微笑みを落とす。

 ――これもお前が仕込んだことかなのかな、猫又さん。だとしたらお前には、大人になったわたしのことも見えているのか。


「うん、安心して。私も出会ったことのある奴だから」


 あまりにも楽しそうに話す私に、彼女は困ったような顔をした。信じたいような、信じたくないような、そんな顔。

 三十年前の私と同じ顔。

 この子も、きっと。今日、心に消えることのない玻璃色の傷が刻まれるだろう。

 わたしと同じように、子供としての消したくない自分が、海の中に葬られるだろう。

 それでも。

 それでも、あいつと出会ったことで、あの島に咲く玻璃色の桜の優しくも悲しい真実をしっかりと受け止められる。いつまでもこの島と、あいつを忘れないための、魔法のような夜を迎えられる。


 それって実は、とても特別なことなんだ。



 自分の居場所を探しているかわいいかわいい白猫の、何百年にも渡る伝説の続き。



 物思いに耽っていた私を伺うように見た彼女の頭を、ゆっくりと撫でた。


「ちょっとだけ、昔話に付き合ってくれるかい?」


 これから、わたしたちの代わりにあいつを見つけてくれた君と。

 あの、飄々として、臆病で、寂しがりで、不可思議な。



 ――――美しい化け物の話をしようじゃないか。

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水に葬る(おくる)夏休み 冴月 @ayafumibun

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