第106話


(106)


 ミライは眼下に見える長剣の孤影を認識した時、思わず叫んだ。

「ベルドル殿!!」

 その声は峡谷に響いてその場にいる誰もの鼓膜を震わせた。唯その声に反応したものが一体どれだけだったか。

 少なくとも鷲の嘴に居る全ての人の胸に去来した思いは一つ。


 ――希望、

 しかしそれは僅かならばの『希望』であろう。

 長剣を下げたその孤影に見た光。

 それは沈みゆく夕陽の最後に輝く陽の光なのか、それともこれから朝を知しらせる朝陽か。


 ミライは声を出して無意識に駆け出した。殆どそれは無意識だった。自分は言わなかったか、ベルドルンに。


 ――行ってはいけない!!あなたは此処に留まるのです、と。

 だがそんな自分が何ゆえに駆け出すのか。

 そんな自分の手を強く握る力があった。

「ミライ殿!!」

 振り返ればそこにベルドルンが居る。その相貌は青く翳り始めている。二つの心臓の共鳴が彼の肉体の中の生の時間を削っているのが分かる。

 それを見て躊躇した自分へ、ベルドルンが言う。

「…僅かに見えるあそこに、息子がいる」

 ベルドルンが言う。

「それはならば、まだ幾分か…希望がある」


 ――希望


 ベルドルンの言葉が皆を引き込ませる。


 頷く、ベルドルン。

 それから首を眼下の峡谷へと目を遣る。

「あの翼竜(ワイバーン)は恐らく、あいつの騎竜。ならばこそ、息子であれば何とかなるかもしれん。誰かの手助けは必要であるが」

「ならばこそ、僕が行く」

 ミライが叫ぶように言う。いうや焔杖(イシュタリ)を手にして駆け出そうとする。そのミライへシリィが叫ぶように言う。

「ミライ!!行ってはいけない。もしもあそこに行くというのなら…」

 抱えるローに肉体の手を強く握る。

「…私も一緒に行く!!」

 僅かにローは首を動かした。動かすと僅かに微笑んだ。何故なのか、そのシリィの叫びの中に懐かしい響きを感じたからだ。いやローだけではない。もう一人ベルドルンも感じたのだろう。シリィを見つめて、僅かだが唇に懐くも寂しげな薄く青い笑みを浮かべた。

 二人の胸奥に去来した響き。

 それは、

 …リーズ。


 だが若い二人はそんな老人の思いを感じないまま、激しく見つめ合っている。そこには命を輝きも燃え尽くそうとする若い木々の枝の発条のような強さがあった。

 時代はめぐる。

 古きものは去るべき時去り、

 若きもの達へ未来を託すのだ。


 それは

 ミライに

 シリィに

 ベルドルに


 いやもう一人


「見て!!」

 シリィが指差す。それはシリィがある影を見たからだ。

 藍色に染めたズボン、白い上着を着て肩から茶色のマントを羽織って頭には帽子を被って弓を構えているその影。

「あれは!!」

 シリィの言葉の後にミライが叫んだ。

 そう、友の名を。


「ロビー…!!」


 絶望の世界に希望の蝋燭は見えども、そこに何故これ程自分が愛すべき人がいるのか。

 震えそうになる膝をミライは強く叩く。叩いてシリィを見た。

「シリィ。君は此処に残るんだ。僕はこの岩道を駆け降りる。駆けおりて皆と共にあの巨竜と戦う」

「どうやって、馬鹿!!」

 シリィの言葉がミライの頬を叩く。

「…何も力のないあなたが、あの場所で何ができるの??」

 まるでミライの尊厳を奪うかのような激しい言葉であったが、その言葉の裏には愛すべき人をみすみす死地に連れて行けかせてはならないという、深い愛が溢れて涙が流れている言葉だった。

「僕に何が出来るかだって!?」

 ミライは一瞬シリィの言葉に頭が激しく激情に揺さぶられたが、突如、誰かが言った言葉が自分の躰を駆け巡った。その言葉に躰が痺れる様な感覚が襲った。


 それは…


 ――ミライ、お前のその左目の力。

 それはいつか愛する者を護る時が来るまで隠しておくのだよ、いいね。


 祖父、トネリの声だった。

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