第95話
(その95)
悲劇とは。
ミライの黒髪が揺れる。背に伝わる温もりの奥で小さな冷たさが広がるのを感じる。それはまるで長年心の奥底に仕舞ったままの中から出て来る悲しみが現れているのかもしれない。
「…悲劇」
ベルドルンが吐き出すように言う。
「神話は伝えていたのだ、後世を生きる人に『悲劇』を再び起こさせぬよう…竜の血と人の血が交わり悲劇を起こさぬようにと…」
ベルドルンの異形の相貌をミライとシリィが見つめている。運命の車輪はもしかするとベルドルンの言葉によって再び回転するかもしれない。まるでそんな予感を感じながら…。
「ミライ殿…女は子を身籠る、是は種全体の定めだ。だが、もし人が竜を身籠れば、それは何を引き起こすだろうか…それは女の身には恐ろしきことなのだ」
「恐ろしき事…」
シリィが反応して問いかける。
――父へ。
ベルドルンは僅かに顔を縦に振る。
「シリィ。聞くがいい」
不意に峡谷から風が吹いた。
定め無き風が。
「…竜は肉体の内にふたつの心臓を持つ。それは大量の血液、そう生命力が必要なのだ。そして胎児は必然的に母の胎内に在ってそれを得なければならない。それが意味することはつまり…過剰なまでの生命力を竜が奪うと言うことなのだ、分かるかね…」
シリィは頷く。
それは胎児ならば当然である。母の胎内に在れば全ての生命力を必要とすれば、それは母から得なければならない。
「だが、人と竜では互いに生命力が違いすぎるのだ。自然、力なき人の母の胎内にある竜は、まるでその母を食い散らすことになる…つまりそれは生命を賭した命の受け渡しとなるだろう…」
その言葉にシリィはまざまざと恐怖を感じた。もし人が万一愛すべき人として竜を宿せば、それは自らの死を選ぶと言う必然性に。
もし自分にそのような定めが訪れたら自分は受け入れるだろうか。
そこでシリィははっとする。
(もしや…もしそれならば…)
シリィは腕に抱える老人を見た。老人の瞼は閉じられている。
「…シリィ、答えはまさに君の腕のそこにある。それは竜の血を受けた人が持つ謂れなき定めなのだ」
「それが悲劇なのですか?」
ミライはベルドルンに問う。
ベルドルンは一瞬硬直したように見えた。見えたが、やがてゆっくりと重い蓋が開くように唇を動かし始めた。唇は紫に染まり始めていた。
「…悲劇とは、それだけでない。それはその後、その母自身に起きることだ…」
「それは…一体?」
ミライはベルドルンの背に触れながら急速に広がり始めた冷たさを感じた。まるで本当の悲しみとはこのように襲ってくるものだろうかと感じながら。
「…悲劇は子供を宿して百日後の夜に訪れる。それは母の身体から生命力を奪って、やがてこの世界の生命の初源に帰す呪いなのだ…」
「…呪い…?呪いとはそれは?」
ミライがベルドルンを見つめる。
その時、シリィは腕の中で動く何かを感じた。感じて動くものを見た時、自分を見つめる祖父の瞼が開いた。
開くとベルドルンへ顔を僅かに向けると呟く様に言った。
「…そう言う事か…ベルドルン」
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