第70話

(その70)


 ――ミライ


 裂け道を吹き抜ける風の中に僅かに混じる薬莢の香り。その香りの中にシリィの声が混じりミライの鼓膜に響く。

 ミライはシリィの身体をフードの中に強く抑えたまま光差し込む世界の気配が消えるのを待っている。やがてそれが十分消え失せたのを感じるとミライは視線を側に横たわる娘に向けた。突然の事とは言え、反射的にシリィを引き寄せた恥じらいというか羞恥が突然躰の内部を血流となって巡り、体温が上がるのが分かる。しかしそれを悟られまいと、ミライは不器用に、だが優しく引き離す。

 それから片膝を立てながらシリィの方を見ず、声を掛けた。

「…すまない、シリィ。突然とはいえ、ねじ伏せてしまった」

 シリィは男の気持ちの中に揺らぐ灯の熱さには気付かないのか、何も言わず唯「大丈夫」と手短く言って同じように立ちあがると膝の土を払い、きわめて冷静な口調でミライへ問いかけた。

「あの声は祖父だったわね。違う、ミライ?」

 身体の内にこもる熱は既に消え失せたのか、ミライも冷静に頷く。

「…間違いない。あれはローだった。僕等は知らない内にローを追い越していたようだ。もう少しでも先にこの裂け道を出ていたら背後から上がって来るローに見つかってい違いない」


 ――しかし果たしてそうだろうか。


 ミライは顔を曇らせる。

 何故ならローが放った一言が気になるからだ。


 ――「吸血蝙蝠だったか」


 老人はそう言い残して去った。

(吸血蝙蝠…)

 ミライは僅かに首を背後に捻りローが放った弾丸の軌道先を見る。

 そこには空しかない。ましてや空を行く翼持つ者などの姿は見えなかった。

(どこにも蝙蝠なぞ…いない)

 老人の謎の言葉に思いを馳せるミライに眼差しにシリィが問いかける。

「どうしたの?ミライ」

 シリィの声はミライの鼓膜を震わせている。だが、ミライの思いがその声が届くのを邪魔してるのか、反応ができない。

 しかし不意にミライははっとしたように、我に返るとシリィの顔を見た。

 突然、垂れる黒い前髪の隙間から見つめられたミライの視線に対してシリィの顔に困惑の表情が浮かぶ。


 ――一体、突然何がこの若者に起きたのだろうか。


 地面に伏せる様に身体を寄せ合った時には湧き上がらなかった羞恥がシリィの身体の隅々に湧き上がる。

 シリィは僅かに視線を逸らした。

 自分の意思を悟られぬように。

 そうしなければ何故か嫌な自分が居た。しかし瞬時の時を置いて放たれた若者の声は努めて冷静だった。

「悟られてしまった…僕達の事を」

 あまりの予想外の男の声音にシリィは失望よりも先に驚きが出る。

「…それは?」

 シリィが手を伸ばしてミライにフードの裾を握る。

 それは強く、しかしやがて力なく裾から手は離れる。

 それはまるでそこに今まであった濃密な時間を愛でる別れのように。

「吸血なんて言葉、それはそこに人が居るってことを意味してるんだ。それでなければ言い残す言葉が吸血蝙蝠である必要はなく、季節鳥とかの名前でもいいのだから…」

 自分に言い聞かせるように呟く若者の表情をシリィは寂しそうに見つめてから頬を優しく撫でる。


 ――きっとこの人は自分の仕事に誠実なのだ。そして今は自分達が成すべき仕事に夢中…


(具師ね…)

 シリィは頬を撫でる手を下ろすと僅かに微笑する。それからミライに言った。

「そうかもね」

「そうさ、シリィ。それにもし自分に危害を与えるような存在ならば、ローほどの武人ならば『敵』を外すはずがない。つまり弾を外した…それはそこに自分にとって良く知るものがいると言う意意味なんだ」

 ミライはフードの裾を翻す。そこに愛でる思う影を慕う者が居るなぞ、露知らず。

 シリィを振り返るとミライは言った。

「行こう、シリィ。この裂け道を抜けてローの下へ」

 歩き出しながら振り返り声をかける若者へシリィは僅かな寂しさを感じつつも、しかしながらしっかりとした強い瞳で頷き、彼の後を追って自分も歩き出した。

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