ルスト、アルセラへの指導 ~彼女の猫背はとうとうなおりませんでした~

 アルセラの驚きの声が漏れる。

 

「えっ?」

「これは誰にも言わなかったけど、あなたにはもう一つだけ道が残されているの」


 これは本当に誰にも話さなかったことだが、アルセラが心が折れてしまいどうにもならなかった時だけ教えようと思っていたのだ。

 そのもう一つの道を私は教えた。


「私がモーデンハイムの本家にお願いをして、ワルアイユの土地を、モーデンハイム家に〝寄付〟すると言う形があるのよ。これならワルアイユの領民達は今までと変わらない暮らしができるし、あなたもモーデンハイム家の客分としてこの土地で暮らしていくこともできる。領地の管理はモーデンハイム家から信頼のおける新たな代官が送られてきて、その人にすべてを委ねればいいの」


 私の語る言葉にアルセラは明らかに驚いていた。彼女がその道を選ぶというのなら私は止めない。この里をどうするかは領主の資格を持つ者が決めれば良い事なのだから。


「あなたの気持ちが折れてどうにもならないというのなら、あなたが逃げ出しても誰も責めないと思うわ」


 私がやさしく語る言葉にアルセラは明らかに戸惑っていた。思わずノリアさんに視線を向けたが彼女がまた否定はしていなかった。


「お嬢様――、お嬢様が今ルスト隊長がおっしゃられたことをお選びになられると言うのであれば、私はお止めいたしません。辛すぎる現実から逃げ出すのもお嬢様の自由ですから」


 そう、ノリアさんも内心では諦めていたのだ。

 私が教えたもうひとつの道と、信頼するノリアさんの許し。その二つを耳にして沈黙したアルセラだったが、長い沈黙の後で彼女は答えた。


 はっきりとした言葉で。力強い言葉で。


「やります! 私最後までやります!」


 アルセラは涙を拭わぬまま顔を上げて私の方をじっと見つめて言った。


「諦めないで最後までやります! 逃げ出したくありません」


 そこには嘆きはなかった。明るいほどの強い覚悟があった。


「本当にいいのね? 簡単なことではないわよ?」

「大丈夫です! 乗り越えてみせます」


 そうだこれだ。これこそがアルセラの一番の強みだ。どんなに嘆きの底に沈んでいたとしても彼女は絶対に諦めない。

 一度覚悟を決めればまっすぐに前を向いて歩き始める。それが彼女だった。

 私はアルセラを両腕でしっかりと抱きしめながら言う。


「それでこそあなたよ! その言葉を待っていたの」

「お姉さま」

「もう迷わないわね?」

「はい。最後までやってみせます!」

「良い返事よ。それじゃもう一度、歩く練習から始めましょう」

「はい、お姉さま」


 アルセラは強い子だった。どんなに悲しみに打ちひしがれても再び立ち上がるのだ。今がその時なのだから。

 私は明日の祝勝会のための礼儀作法訓練を再開したのだった。



 †     †     †



 そこからの伸びは早かった。

 心の中の迷いが取り払われた今、自分が何をなすべきかを速やかに理解していく。

 教えるものはいくつかあったが、順番を追って教えることでアルセラはそれらを確実にモノにしていった。


 姿勢を崩さない凛とした歩き方。

 手の動き。普段の手の置き方。

 視線の配り方。周囲の状況への意識の向け方。

 椅子への座り方。

 お辞儀や会釈の仕方と言ったものもある。


 元々、アルセラのお母さんが亡くなって以降、領主夫人代行という立場でお父さんのバルワラ候の公的行事への随伴をしていたと言うこともあった。

 そのため、彼女もある程度の社交知識はあったので問題の大半は身のこなし方・体の動かし方だった。


「よしこれでだいたい良いわね。でも――」


 でもまだひとつだけ残っていた。


「やっぱりこの猫背が治らないわね」


 私はアルセラの背中を撫でながら言った。


「あなたも意識しているんだろうけど〝癖〟になっているんだと思うわ」

「すいません……」


 詫びの言葉を口にするアルセラに私は言う。


「別に謝らなくていいわよ。こればかりは体に染み付いてしまったものだから、1日やそこらで簡単に矯正できるものじゃないのよ。だからこういうのを使うの」


 そう言いながら私は手荷物の中からあるものを取り出した。先ほど道端で採っておいた、柳の木の枝だった。それを3本ほど取り出し、アルセラの背筋に合わせて長さをそろえる。

 そして私はノリアさんに言った。


「ドレスの背中の紐を緩めて背中を開けてもらえませんか?」


 私が何をしようとしているのか? 彼女にも分かったようだった。


「承知しました。今すぐに」


 ドレスの後ろ身頃の紐を緩めて背中を開けさせるシュミーズの上に装着したコルセットが露出する。


「コルセットも緩めて」

「はい」


 さらにコルセットを緩めて隙間を作る。私はそこに3本の柳の枝を並べて彼女の背筋に沿うように、コルセットの内側に差し入れて行く。しなやかな柳の枝を使っているからそう痛くはないはずだ。


「よしこれでいいわ。紐を締め上げて衣装を整えてちょうだい」

「はい」


 アルセラは自分が何をされるのか不安気にしている。

 ノリアさんがアルセラの衣装を元に戻すのを確かめると、私はアルセラに命じた。


「この状態で歩行練習してちょうだい。背筋の曲がりに注意してね」

「はい。お姉さま」


 この状態でアルセラに5度ほど部屋の端から端まで往復させる。さらに椅子を使って立ったりしゃがんだりの動作など様々な動きをさせる。そして、一定の成果が出たことを確かめた。


「いい感じね。どう? 痛くない?」

「はい大丈夫です」


 背筋の不用意な曲がりを強制するために背中に補正指導用の棒を入れるやり方だった。どうしても猫背や姿勢の崩れが治らない子に対して、礼儀作法の家庭教師ガヴァネスが用いるものだ。


「これ私も幼年学校入りたての頃にやらされたんだけど、猫背の治らない子に対して、礼儀作法の先生がよく使うのよ」

「そうなんですか?」


 アルセラの疑問の声に私は優しく答えてあげる。


「ええ、俗に〝田舎者の杖〟とか〝未熟者の竿〟って言うのよ」


 優しく教えても酷い呼び名であることには変わりない。ノリアさんが苦笑しているのがわかる。


「あまり見られて外聞の良いものではないけど、姿勢の矯正は普通は2年3年と長い時間をかけて直していくものなの。1日やそこらで治るものではないから今回はこれで行くしかないわ」


 ノリアさんがなにか気づいたらしく私に問いかけてくる。


「それでは、外から見えないようにしないといけませんね」

「ええ、何かいい方法ないかしら?」

「では肌の色と同色の布を用意します。それに包んで装着すれば目立たないかと」

「良いわねそれ」

「ではそのように。それと肩にかけるフィシューを2枚重ねにします。厚手のものを1枚かけて、さらにその上に薄手の色映えするものを重ねます。そうすれば周りからも気にならないと思います」


 さすが侍女長を長年にわたってこなし続けてきたノリアさんだった。


「ではそのようにお願いします」


 私はそのように彼女へと声をかける。だが彼女にはもう一つお願いする事があった。


「ノリアさん。あなたにはもう一つお願いすることがあるんです」

「何でしょうか?」

「西方国境での戦場の時は、私がアルセラさんに一緒についていて助言することができました。しかし今回は違います」


 私はノリアさんの顔をじっと見つめながら言った。


「今回の祝勝会、主催はあくまでもアルセラであり、私はそこに招かれる主賓メインゲストです。祝勝会の会場において私がアルセラに助言をすることはできません」


 当然の現実だった。西方国境の戦場においては、私が主となりアルセラへと言葉をかけることができた。しかし今回は立場が逆になるのだ。私がアルセラに案内される側になるのだ。


「それでももし祝勝会の会場でアルセラへ助言をし補佐することができる人がいるとするなら、それが誰だかお分かりですね?」


 私のその言葉にノリアさんははっきりと頷いた。


「はい。もちろん私です」


 ノリアさんはにこやかな笑顔で答えてくれた。


「明日、私は、ただの侍女ではなく〝小間使い役〟としてお嬢様のすぐそばに待機し、不便をさせないようにお助けしなければなりません」

「ええ、そうよ」


 やっぱり彼女は聡明だった。母を亡くし信頼のおける親族がすぐそばにない状況下でアルセラを姉妹か母親のように常に見守っていたのは彼女・ノリアさんだったのだから。


「だからこそ今日は、この場にあなたにも来てもらったのよ」


 そして私は二人を交互に眺めながら言った。


「明日の朝起きて、祝勝会の準備が始まる前に再度、礼儀作法と身のこなし方の復習を行います。よろしいですね?」


 私のその問いかけにアルセラもノリアさんも頷いてくれた。


「分かりました。お姉さま」

「承知いたしました」


 部屋の壁際に立てられていた大きな振り子時計が夜9時を指していた。明日のことを考えるならアルセラたちには宿舎である政務館へと戻ってもらった方がいいだろう。


「それでは今日はこれくらいにしましょう」


 そう告げて私達は特訓を終えた。

 着替え終えて衣装箱を運び出し、邸内の明かりを消して玄関を戸締りしてそこから立ち去る。


「ではお先に失礼いたします」


 馬車に乗り込むアルセラが私にそう声をかけた。


「では失礼いたします」


 そう言葉を残して彼らは一足先に去っていったのだった。

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