幕間:黒猫は語る

 フェンデリオル国北部都市イベルタル――


 北のヘルンハイトや、東のフィッサールにも近く、交易が盛んに行われているため、商業都市として大規模な発展を遂げた街だ。

 昼も夜も問わず活気に満ちていて、栄光と退廃と、富と堕落がうずまき、多彩な人種が行き交う混沌の都と人は呼び習わしている。

 商人ギルドや在外公館事務所や国家間金融業が軒を並べ、商取引や国家間交流が活発に行われている熱気に満ちた街だ。

 中央都市オルレアが政治と権力の中枢であり、

 西部都市ミッターホルムが軍事力の心臓部であり、

 南部都市モントワープが農業と食料流通の要であるなら、

 この北部都市イベルタルは商業と、そして犯罪の一大拠点だった。

 富の集まるところに、人々の欲望も集まる。国境も近く国の境を越えて移動しやすいとなれば、心邪こころよこしまなる者たちが押し寄せてきたとしても何ら不思議ではなかった。

 そう、そこは危険に満ちた街だったのだ。


 

 そのイベルタルの街の北東のはずれ。比較的静かな場所であり富裕階級の館が立ち並ぶ高級住宅街が広がる場所がある。

 その中の邸宅の一つに暗褐色の壁の2階建ての屋敷がある。建物は比較的小さく建物を囲む庭園もそう広くはない。ただ、その建物の中を覆い隠すかのように小高い針葉樹が並んでいる。

 周囲の目を拒絶するかのような雰囲気のその建物の中、人の気配は見られない。だがそこに人は確かに住んでいたのだ。


 ニゲル・フェレス、またの名を〝黒猫〟


 その女は黒猫と言う名前の通りに漆黒のドレスを身につけていた。ハイネックのアームホールデザインで、首から胸元へのラインが特徴的な、いかにも女性らしいなだらかなシルエットを浮かび上がらせていた。

 彼女は広い部屋の中でソファーに腰掛けながら愛用の特注品の念話装置を操作していた。彼女が手を動かすたびに漆黒の髪がかすかに揺れていた。

 通信相手の番号を指定する数字盤を各桁ごとに操作し、通信を番号指定の双方向に設定する。

 然る後に制御用のミスリルクリスタルにその手を触れれば念話を要求する信号が相手へと送られる。然る後に相手が返事を返してくれば通信の始まりだった。


『誰だ?』


 黒猫の認識の中に返ってきたのは、中年男性の野太い声だった。


『誰だとは随分なご挨拶ね?』

『その声〝黒猫〟か?』

『ええ、お久しぶり』


 努めてにこやかな口調で問いかけるが返ってきた言葉は辛辣だった。


『何がお久しぶりだ』


 苛立ちがこもった声に黒猫は言った。


『あらあら、随分とまた荒れてるじゃない? 旦那?』


 まるで他人ごとみたいな言い回しに念話の向こうの相手は痛烈に言い返してきた。まるで敵対している人間であるかのように。


『土壇場で逃げ出したヤツが何をほざく!』

『逃げ出した? あたしが? フフフッ』


 黒猫は恥ずかしげもなく声を上げて笑いだす。


『何が可笑しい!』

『逃げ出したんじゃないわよ。引き際がわかってるって言うだけよ』

『ふん、物は言いようだな。旗色が悪くなるとあっさり手を引くという噂は本当だったんだな』


 非難めいた言葉が投げかけられるが黒猫には気にするような素振りは微塵もなかった。


『機嫌なおしてよ。とっても重要なことをお話ししたくて呼びかけたんだからさ』

『なんだと?』


 一呼吸おいて通信の方向の男は強い口調で問うた。


『くだらない話だったらただではおかんぞ』


 ドスの効いた声に普通の人間だったら恐れをなすことはあるかもしれない。だがこの黒猫という女には何の痛痒も起こすことはなかった。まるで夜の暗闇ですら自分の体の一部であるかのように、悠然としてかまえている。


『少なくともくだらなくはないわよ? 何しろあなたをそこまで追い込んだ張本人のことだから』

『なに?! あの〝旋風のルスト〟の事か?』


 相手のその返事に黒猫は唇の片隅に皮肉めいた笑みを浮かべた。


『ご明察よ。聞くの? 聞かないの?』


 ほんのわずかな沈黙の後に念話の向こうの相手は告げた。


『聞かせろ』


 その言葉に黒猫は満面の笑みを浮かべる。


『私ね、色々な所に〝草〟を放ってるのよ。そういう連中からいろんなお話が飛んでくるわけ。それで意外なところからルストのお嬢ちゃんの本当の正体が漏れてきたのよ。どこだと思う?』


 黒猫は話の核心を口にしなかった。脇道の会話で相手を焦らしていた。そしてそれは黒猫の駆け引きの一つだった。

 念話の相手はしびれを切らして言う。


『もったいぶった言い方はやめろ!』

『あらあら、焦る殿方は貰いが少ないわよ?』


 念話の相手も黒猫のやり方を知っているのだろう観念したかのように言い返した。


『地下銀行の儂の口座から50オーロ出そう。お前の口座に振り込むように指示を出す』

『ふふっ、物分かりのいい殿方は大好きよ』


 地下銀行とは裏社会に存在する非合法な金融業者のことだ。犯罪にまつわるありとあらゆる金の動きに彼らの手助けが存在する。

 表向き公にできない金を預かるのも地下銀行の仕事だ。念話装置を使った連絡で簡単に金の移動を行える。

 念話の相手の男には側近でもいるのだろう。その者に命じて黒猫の地下口座へと金を振り込ませる。

 金額は50オーロ、高額金貨50枚にあたる。相当な額だ。

 黒猫がそう答えてから少しして、部屋のドアが音もなく開き細いシルエットの若い男が姿を現した。男は無言のまま黒猫に対して頷いた。何かを伝えに来たのだ。

 それを合図として黒猫は答える。


『それじゃあ教えてあげるわ』


 軽く息を吸い込んでいかにも意味ありげに抑揚をつけて黒猫は言った。


『旋風のルストの正体は〝エライア・フォン・モーデンハイム〟2年間失踪していた〝あの〟ご令嬢よ』


 念話の向こうで男が絶句していた。黒猫は畳み掛けるようになおも告げる。


『ちなみにこの情報の出所はフェンデリオルの正規軍からよ。現在相当根深く箝口令が敷かれてるみたいで、どこにも流出してない情報よ』


 本当はその後に〝今のところは〟と続くのだが、それを言ってしまうとこの情報に金銭的価値はなくなる。そこまで配慮する義理は彼女にはなかった。


『ちなみにこれ私にとって、とっておきの筋から引き出した情報よ』


 黒猫の相手にとって想像を絶する答えだったに違いない。沈黙したまま言葉は返ってこなかった。


『悪いけど、この通信を最後に姿を消させてもらうわ。彼女、正規軍中枢部に相当に顔が利くみたいね。今や軍の首脳部は彼女の支持者だらけよ。やりあうにはあまりにも相手が悪すぎるわ』


 その言葉に対してようやくに返ってきた言葉があった。


『また逃げるのか』

『逃げる? 失礼ね。これがアタシの〝勝ち〟なのよ。戦って相手を殺してねじ伏せるのが、あなたたち軍人や傭兵や政治屋の勝ちなら、私のように闇に生きる女は生き残ることこそが勝ちなのよ。そのためだったら自分の親兄弟ですら売り飛ばすわ。私はそういう女なのよ』


 それは開き直りというより一つの信念だった。黒猫という女が闇社会の中で生き残り続ける唯一のルールだったのだ。

 念話の向こうから怨嗟をこめた罵倒の言葉が飛び出す。


売女ばいたが!』


 誰がそのような言葉は黒猫には通じない。


『ありがとう。最高の褒め言葉だわ。今までで散々言われてきたもの! あなたこそ表の顔と裏の顔、散々に使い分けてやりたい放題やってきたんじゃない。溜めまくったツケを払う時が今こそ来たのよ』


 そして黒猫は最後の言葉を伝えた。


『あなたと仕掛けた悪巧み、結構楽しかったわよ。じゃあね〝坊や〟』


 念話の向こうから何やら声が飛んできたが黒猫はそれを無視して念話装置を切った。

 そして立ち上がりながら、彼女のそばに無言で佇む側近の男性へと告げた。


「この屋敷の中を大至急片付けて。当分の間、北部都市から姿を消すわ」


 彼女の言葉に側近の男性は無言で頷いた。

 黒猫は満足げに笑みを浮かべながら側近へと告げる。


「お湯を浴びてくるわ。その間でお願いね」


 その言葉を残して黒猫は姿を消した。彼女がこの屋敷から引き払い、北部都市からも姿を消すのにはさしたる時間はかからなかったのだった。

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