六
「トゥイントゥインがイライラするうう!」
開口一番、鍵助さんが叫ぶものだから、僕は慌てて彼を睨みつけた。
「え? どうかしたの? 染宮君?」
元町と明記された表札の前で、藍羽先輩が首を傾げた。僕は、急いで振り返り、笑って誤魔化した。どうやら、藍羽先輩には、鍵助さんの姿だけではなく、声も聞こえていないようだ。
「時はん。ワイは、プロでっせ。そんなヘマしまへん」
鍵助さんは、僕の耳元で囁く。それならそうと、最初に言っておいて欲しかったし、何より何のプロだ。セクハラか? 覗きか? 鍵助さんは、藍羽先輩を見るなり、目にも止まらぬ速さで、彼女に急接近し、ジロジロとくまなく観察をし始めたのだ。見えないことを良いことに。そして、胸を凝視し、興奮が限界点に達したのか、雄叫びを上げた。前途多難だ。この人を連れてきたのは、間違いだったのかもしれない。今更悔やんでももう遅いけれど、せめて何事もなく終わって欲しいと願うばかりだ。
僕は藍羽先輩につられるように、元町家を見上げた。二階建ての立派な一軒家だ。家の中には、電気が点いておらず、物音一つしない。もう、ご家族は、就寝しているのだろう。腕時計を確認すると、〇時から少し足が出ていて、日付が変わっている。周囲には、同じような一軒家が並び、住宅地となっている。こんな時間に人様の家の前にいると、不審者と間違えられて通報されないか心配になった。まあ、見るからに不審者風情の男は、一般人に見られないようにしているから、まだマシだろうけれど。
僕は、心配そうに元町家を眺める藍羽先輩の横顔を見た。少ない街灯で、周囲は薄暗いけど、藍羽先輩の美しい顔は、健在で頬が熱くなった。僕は、咄嗟に顔を背け、音が響かないように咳払いをする。背後から、小馬鹿にしたような薄ら笑いが聞こえたからだ。その犯人は、鍵助さんだ。
「不憫でんなあ。時はんもワイのように、姿消すことができたら、良かったのに」
それは、大半の男子の願望だ。僕は、不自然にならないように、蠅を追い払うが如く、耳元を手でサッと払った。耳元で響く、耳障りな奴を追い払った。味方だと思っていた存在が、まさかの敵だったとは、予想外の展開だ。薄々嫌な予感は、していたのだが。そんな見えない攻防を繰り広げていると、カチリと遠慮がちに、玄関扉の鍵を解錠する音が漏れた。
僕達三人の視線が、玄関扉に集中していると、小さな隙間が生じた。ゆっくりと扉が開かれていき、元町先輩が顔を出した。周囲を警戒し、背後を確認し、元町先輩は小さく手招きをする。僕達は、物音を立てないように細心の注意を払って、忍び足で家屋内へと入って行った。
「ごめんね、染宮君。それに、雫ちゃんも。こんな夜更けに」
元町先輩は、極力声を押さえて、ヒソヒソ声を出す。僕は、口を閉じたまま口角を持ち上げ、体の前で手を振った。
「へぇ~ちっさいウチでんなあ! ここは、犬小屋かなんかでっか? 銀将はんや歪屋はんのウチと比べたら、酷いもんでんなあ! ここが格差社会の底辺ゆうやつでっか? こんだけちっさかったら、探しもんにも困らんで、ええでんなあ! なあ、時はん?」
突然、大きな声で無遠慮に、人様の家を悪く言う奴がいる。これくらいのサイズが、一般的な家だ。銀将君の家は、行ったことがないので分からないけど、響介さん邸が異常なのだ。背後からの大声に驚いたけど、何とか無視することができた。大袈裟に反応してしまうと、鍵助さんが図に乗るだけだ。鍵助さんの扱いが少し分かった気がした。案の定、鍵助さんは、不満をタラタラ零している。聞こえない事を良いことに、完全に遊んでいる。
僕と藍羽先輩は、下駄箱の空いているスペースに靴を隠した。上がり框に靴下を乗せると、小さく音が鳴り、背筋が震えた。些細な音にさえ、敏感になってしまう。頼むから、鍵助さんは、黙っていて欲しい。皆には、鍵助さんの声が聞こえないだろうけれど、僕には聞こえるのだ。『うわ!』と、悲鳴を上げようものなら、大惨事だ。家族が起きてきたら、説明ができない。夜中に同級生を勝手に招き入れたと知られたら、元町先輩がご両親に叱られてしまう。なによりも藍羽先輩だけならまだしも、僕は一応男だから、印象は最悪だ。だから、元町先輩がご丁寧に用意してくれたスリッパも丁重にお断りした。
僕達は、元町先輩の後に続いて、階段を上がり二階へと向かう。
「う~ん、ちょっと、予想外でんなあ。ワイとしては、もっとこう・・・」
背後から、鍵助さんの声が聞こえて、僕は階段の真ん中で立ち止まった。まるで、独り言のように呟く、鍵助さんに不安感が芽生えた。
「予想外? 鍵助さん。何か分かったんですか?」
手を口元に当てて、囁くように呟くと、鍵助さんは前方を顎でしゃくった。僕は、急いで振り返り、階段を見上げる。視線をくまなく飛ばすが、特に違和感を見つけることができない。
「ワイとしては、もっとでっかい尻が好きなんですわ! もっと、こうパーンと張りがある! 鏡々はんのような立派な尻が」
どうやら、鍵助さんは、階段を先に上がる二人の女性のお尻を見ていたようだ。僕は、青筋を立てて、鍵助さんを睨みつける。
「冗談! 冗談でんがな、時はん! そない怖い顔せんといて! ワイは、少しでも場の空気を和まそうとしただけでんがな!」
僕は、小さく舌打ちをして、後ろを気にせず階段を上る。
「あ! 無視して、舌打ち? それは、アカン! それは、アカンで時はん! いっちゃん傷つくやつやそれ!」
盛大に溜息を吐いて、階段を上がりきった。僕は、最大限に後悔していた。後ろで喚いている奴を連れてきたことに。そして、こんな悪霊を除霊できない己の無能さを恥じた。
階段の先の突き当たりの部屋が、元町先輩の部屋のようだ。元町先輩と藍羽先輩は、既に部屋の中に入っていて、僕の到着を待ってくれている。足音が出ない最速で、廊下を駆け抜け、元町先輩の部屋に入った。扉を静かに閉め、部屋の電気を灯した。部屋の隅まで明かりが届き、部屋の姿が露わになった。カーテンや布団やタンス、その他の雑貨や小物が白とピンクだ。女の子って感じの部屋であった。女子の部屋に入ったのは、初めての経験なので、もちろん僕の想像の範疇だ。なんだか、とてもドキドキして、落ち着かない。そして、良い匂いがする。
「時はん? ムラムラしまっか?」
「ドキドキだよ!」
思わず小声で突っ込んでしまった。そんな姿をお二方に凝視され、彼女達は不審そうに首を捻っている。
「ど、どうかしたの染宮君? な、何か気が付いたの?」
不安を前面に押し出している元町先輩が、声を震わせている。僕は、懸命に首を左右に振って、なんとか誤魔化そうとした。それはそうだ。僕の一挙手一投足が、気になってしまうに決まっている。こんなことなら、鍵助さんの姿が見えていた方が、良かったのではないのか? 僕と鍵助さんのやりとりは、二人からしたら、僕一人が挙動不審のように見えてしまう。胸に手を当てて、深呼吸を繰り返した。気持ちを落ち着かせて、僕の仕事を果たさなければならない。勿論、何もないにこしたことはないけれど、『何もない。大丈夫』という事実が判明しなければならない。
「元町先輩? 先輩が言っていた奇妙な声って部屋のどの辺から聞こえてくるか、分かりますか?」
「それが分からないの。部屋中に響いてる感じで」
頭を左右に振る元町先輩は、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「そうですか、分かりました。ちょっと、部屋の中を色々調べさせてもらっても良いですか?」
「それは、勿論! 宜しくお願いします! あ! ただ、そのクローゼットの中のタンスは・・・ちょっと・・・」
元町さんは、恥ずかしそうに俯きながら、上目遣いで僕を見た。僕は、笑みを浮かべて、顎を引いた。きっと、下着類が入っているのだろう。流石に、女性のデリケートな部分に触れる気はない。一応、目で鍵助さんをけん制しておく。案の定、鍵助さんは、フラフラとクローゼットに歩み寄ろうとしている。僕は、不自然にならないように気を付け、鍵助さんの前に立ちはだかった。すると、鍵助さんは、口笛を吹きながら、誤魔化すように、天井へと顔を向けた。全く、油断も隙も節操もない。僕は気を取り直して、二人の女性に振り返って、無理やり笑顔を作った。
「それでは、ちょっと、失礼しますね」
僕は、この六畳程の部屋の捜索にあたった。机の裏やベッドの下、念の為にクローゼットも開け、入念に調べた。当然、タンスには、触れない。念の為に、クローゼットの上の棚も背伸びをして、覗いてみたが、これといって変わった所はない。僕は部屋の中心のライトの下に移動して、部屋全体を眺めてみたが、結果は同じであった。腕組みをして、考え込む。そして、元町先輩の顔を見た。
「あの、最近、例えば、リサイクルショップとか、道端の露店とかで、何かを購入していませんか?」
「いいえ、あまりそういうお店には、行かないから」
「そうですか」
一つの可能性として、リサイクル品や手作り品には、人それぞれの想いや念が籠っていることがあると聞いた事があった。もしくは、骨董品などに、悪しき品物が混ざっているなど。その悪しき品物を知らずに購入してしまったという線は、どうやらないようだ。僕は、もう一度、腕組みをして考え込む。すると、静寂の中に微かに、呻き声が漏れだした。僕は、反射的に顔を上げ、声の方へと視線を向ける。僕の動作を見て、元町先輩と藍羽先輩が、驚いた表情をしていた。僕は、目を丸くして、体が硬直した。
「う~ん、う~ん・・・もうちょっと・・・」
僕の視界では、しっかりと目視確認できていた。あまりの出来事に、体が動かず、反応が遅れてしまった。まるで、ゾンビのように床を這いつくばって、必死に腕を伸ばしている化け物がいた。必死になって腕を伸ばし、藍羽先輩の胸に触れようとしている化け物。そう鍵助さんだ。
「ん?」
鍵助さんは、宙で五指を蛇のように動かしながら、首を捻っていた。が、そんな事は気にせず、慌てて鍵助さんに駆け寄った。驚いた藍羽先輩は、一早く後退りし、難を逃れた。
「どうしたの? 染宮君?」
元町先輩が、怯えた顔で僕を見つめている。それは、そうだろう。どうやって、言い訳をすれば良いのか、見当もつかない。僕は、苦笑いを返してから、床を調べるフリをして、鍵助さんに顔を寄せた。
「マジで、ふざけんなよ! これ以上、邪魔するんだったら、銀将君にチクるからな!」
「そんなイケズなこと言わんとってや、時はん! もうせえへんさかいに、勘弁してえ!」
ボソボソと脅し文句を言ってやり、鍵助さんはシュンという音が聞こえてきそうな程、しおらしく小さくなった。部屋の隅で、壁に向かって正座している。
「すいません。僕の勘違いでした」
何をどう勘違いしたのか、皆目見当もつかないが、お二人には、そう言い訳をした。どうにかこうにか、体裁を取り繕って、僕達は部屋の中心に集まって、座っている。特に注意すべき異変はないので、しばらく様子を見ることにした。しかし、和気あいあいと会話が弾む訳もなく、重苦しい時間が流れている。腕時計を確認すると、時刻は一時を回っていた。
「いつもなら、これくらいの時間には、異変が起こっているんですか?」
「ううん、そうとは限らないの。日によって違うから」
元町先輩は、心配そうに眉を下げた。藍羽先輩が元町先輩の腿に手を置いて、慰めている。さて、どうしたものか? と、僕が部屋の隅に視線を向けると、鍵助さんは相変わらず壁に向かって正座している。よっぽど、銀将君にチクるという脅しが効いたようだ。確か、主従関係は、ないはずなのだけど、銀将君が余程怖いのだろうか?
秒針の音が部屋中に響いている。何も起こらない時間が、悪戯に経過していく。何も起こらないにこしたことはない。しかし、あんなんでも一応鍵助さんは、専門家だから、今日解決できたらそれが一番良い。
「ん? 何や?」
突然、鍵助さんが、立ち上がり、カーテンの方へと歩いていく。鍵助さんの動きを目で追っていると、カーテンの前で立ち止まった。
「どうかしたの? もしかして、な、何か見えるの?」
引きつった色の悪い顔で、元町先輩が声を震わせる。しまったと、唇を噛んだ。何もない空中を目で追っていたら、それは不安になる。配慮が足りなかったと反省した。
「いやいや、ただ蚊が飛んでいただけですよ。すいません、まぎらわしいことしてしまって」
「・・・そう」
全然、納得していない様子の元町先輩が、蚊の鳴くような声を漏らした。僕は、視線だけをカーテンの方へと送る。鍵助さんは、カーテンの前で、振り返って唇を突き出していた。
「ワイは、蚊でっか?」
拗ねたような声を出す鍵助さんは、まさに蚊程も役に立っていないので、堂々と無視した。鍵助さんは、何やらブツブツ文句を言いながら、カーテンに向き直った。いったい、どうしたのだろうか? 一応、先ほどカーテンと窓を開けて、外も確認した。カーテンの向こう側は、腰窓があって、侵入防止の格子が設置されていた。すると、鍵助さんが、顔をカーテンに向かって突き出した。僕は、ギョッとしたけれど、態度に出さないように、懸命に耐えた。この光景もなかなかのものだ。頭のない男が、突っ立っているように見える。どうやら、カーテンや窓をすり抜けて、外を確認しているようだ。しばらくしてから、鍵助さんは顔を戻し、僕を見て笑みを見せた。
「時はん! 見つけましたわ!」
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