第34話 義元と帰蝶の事。
【 今川義元と藤林長門守 】
日が暮れて、あぶらの火を投じて
今川義元は各所から送られてくる書類と手紙に目を通していると、廊下に人の気配を感じたのです。
「入らせて貰うぞ」
「これはお師匠様、如何なされました」
廊下には、素っ破の
師匠も座ったままです。
その重苦しい雰囲気に義元は息を吐きます。
「大浜が落ちましたか」
「御意」
「織田の小倅、中々にやるようですな」
お師匠の
「よろしかろう。大浜が落ちたなら、今度は大浜に兵を送ればええ。今川は一銭も使わずに、織田に兵と銭を使わせる。真綿でゆっくりと首を絞めてゆけばいいのです」
「
義元の優れた所は、巧みに情報を操って自らが有利なように持ってゆく。
天才的な戦略眼の持ち主です。
敵対していたハズの両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方・足利晴氏らと同盟を組み、包囲網を作って北条と相対する。
義元の見事な交渉術がなければ、決して実現しなかった同盟です。
三河も互いの対立関係を利用して、一兵も動かさずに織田を疲弊させる。
これも義元の手腕です。
水野信元が織田方に旗色を変えた事で、敵対する大浜城の長田氏を唆して、水野氏を攻めさせ、織田の援軍を呼び寄せる。
大浜城の長田氏は不利と見れば、海に逃げて、織田が去った後に大浜を取り戻す。
海を拠点とする中々に厄介な相手なのです。
その大浜の長田氏が破れても、同じ西三河の国人や土豪を唆し、あるいは、西条の吉良に大浜に送ると言う手があります。
いずれにしろ、織田は何度も兵を起こす事を余儀なくされるのです。
織田軍は何度も「勝った。勝った。勝った」と騒ぎ浮かれ、兵と財を疲れ果てさせ、最後の一戦で織田を叩く。
勝つのは1度で十分なのです。
雪斎は腕を組んで沈黙を続けています。
恐る恐る長門守が重い口を開いたのです。
「矢作川西岸の6城と西条の吉良義照が織田に臣従致しました」
はぁ?
そんな阿呆な。
「織田は大軍を送ったのか。否、そんな話は聞いておらん」
「織田の兵は800余り、那古野城主、織田信長の初陣でございます」
義元が予想した通りです。
対する大浜の長田氏には知恵を授け、周りに後詰めを頼むように勧めました。
また、今川に臣従していた城主に協力するように手紙を送り、吉良の家老にも言い含めておいたのです。
「何か不手際がありましたか」
「いいえ、お館様の言われた通り、長田氏は援軍を求め、2,500で対峙しました」
「織田の小倅であったな」
義元は信長を『うつけ』と呼びません。
その父である信秀も津島の銭を使う奇妙な武将で、新参者と加世者を多く投与して、一年中、戦をし続ける器用者です。
その息子が少しくらい変わっていても当然と思っていました。
「で、如何した」
「織田の先駆け、わずか三騎で大浜軍の前衛を突き崩し、それに恐れ慄いた諸将が逃げてしまいました」
「それは大層な敵じゃのぉ。誰じゃ」
その口元に笑みを浮かべ、義元の目が獲物を見つけたように鋭く光ます。
その笑みを見た(藤林)長門守は背筋に冷たいモノを感じます。
「尼子の姫君で竹姫、織田家臣の滝川慶次郎、柳生の嫡子で新次郎の三名の名が上がっております」
「柳生は聞いた事があるぞ。家厳・宗厳の親子で筒井一万の兵を退けた豪の者であったな」
「さようで」
「ほしいのぉ。我が手の者として欲しかったな」
「御意」
義元の脳裏に尼子の竹姫と滝川慶次郎の名はありません。
何故、尼子が尾張にいるかも判りません。
「滝川と言えば、甲賀の出か」
「おそらく、そうかと」
「おぬしの様な者が他にもおったという事か」
長門守は敢えて答えません。
義元が求めている答えではない事を承知しているからです。
多数の鉄砲と火槍が存在した事、
海が紅く染まった事、
最後に信長が口先一つで六城を落とした手腕の事です。
「ほほほ、赤鬼も大概じゃが、小倅の軍略も大したモノだ」
「誠に厄介な事となった」
「お師匠様、何を弱気になるか。その織田を喰ってしまえば、今川を脅かす者がなくなりますぞ」
「坊はホンに謀り事が好きじゃのぉ」
長門守から信長の初陣に至る報告を聞いて、義元の目がより輝いた。
那古野城を改築すると言うと、逆に目が細くなった。
「その話、誠か?」
「尼子の竹姫の願いと言う事です」
「高こうついたな」
「それはどういう意味じゃ」
「お師匠様、気が付きませんかぁ。尼子の姫は
義元は信秀と信長の仲が悪くないと断言します。
三文芝居で尼子の姫の機嫌を取っていると言うのです。
「鬼のように強く、銭に苦労せず、尼子が持て余す癇癪持ちと見ました」
「機嫌を損ねて、首を取られては堪らないか」
「一騎当千の女武者も厄介な存在と言う訳です」
「尼子が手放すほどのじゃじゃ馬を織田が乗りこなせますかな」
妖美な目の輝きを義元が放ちます。
織田の倉は遠からず空になる。
義元はそう断言します。
さて、周りの者がどうしているかを詳しく聞くのです。
「間違いなく、信秀と信長の仲が悪いと思われておるのじゃな」
「はぁ、竹姫を取り合っておる事を悔しがっております」
「どの情報だ」
「末森城の台所に忍ばせた者の報告に寄れば」
「なるほど」
「末森の奥に竹姫の間を設けておるそうです」
「気の早い事だ」
「奥方共が方々は口々に陰で悪口を言っております」
「そこに手を延ばせ! 特にその女の家を念入りに調べさせよ。師匠、寺の方からも口添えをお願いいたします」
「承知」
今川義元が山伏に様々な情報を持って行かせます。
戦国時代は電話も無ければ、無線もありません。
情報の多くは人の足で運ばれます。
その情報を運ぶのが山伏であり、その情報を売る相手と買う相手を兼ねているのが寺なのです。
寺は修行僧や山伏の情報を得て、地元の領主方々に売って信頼を得て、その土地への影響力を強めてゆくのです。
多くの武将は菩提寺と呼ばれる特別な寺を持っており、京、畿内、あるいは、全国の情報を寺から入手します。隣の国がどこを狙っているなど、貴重な情報を齎してくれる菩提寺は、切っても切れない協力者なのです。
その貴重な情報を持ってくる山伏の話に嘘を紛れ込ませます。
嘘は容易に見抜かれますが、本当の中に混ぜた嘘は見抜かれません。
99の真実に、1つの嘘を混ぜるのです。
「君主がそなたの事を疑っておりますぞ」
「何ですと、そんな馬鹿な」
「事のはじまりは、〇〇が□□と注進した事にあります」
「おのれ、〇〇。□□など、真っ赤な嘘ではないか! 殿のご寵愛に託けて、我を貶めようとするか!」
大抵の人は自分が疑っている者の名前が上がれば、それが本当の事と勘違いするのです。
その情報は信頼する住職がもたらしたモノならなおさらです。
領主も真偽を確かめる事なく、住職からの話を鵜呑みにするのです。
味方の住職が『嘘』を言う理由がないからです。
そこに目を付けたのが義元です。
寺と言う情報ネットワークを利用して、自分の都合のいい嘘を広めてゆくのです。
住職はそれが嘘と知らずに武将達に広めてくれるのです。
「手始めに、その竹姫が信秀の奥方らを疎んじいるとでも流しましょうか」
「そうですな。その辺りからでしょうか」
「では、我々はその噂を町で流しておきましょう」
「次に奥方の悪い噂を流し、その出所を竹姫とする」
「坊は怖いのぉ。その家の不正や悪い噂も集めておけ! 一緒に流す材料と致せ」
「はぁ、必ず」
「そして、最後に不幸が襲う」
「然すれば、その家は竹姫の謀略と勝手に思ってくれるだったかのぉ」
「師匠、寺の方はよろしくお願いします」
「あいわかった」
山伏がその情報を住職に伝え、町で素っ破が偽の情報を広め、住職が小坊主に町で確認させる。
その後、その住職がどう捉えるか。
まぁ、10人の内、9人の住職はその噂を信じます。
「人は自分の信じている所から崩れて沈んでゆくのです」
義元がいたずらをする子供のような無邪気な笑顔を作り、まるで新しいおもちゃが手に入ったかのように喜んでいるのです。
◇◇◇
【 斎藤利政 】
美濃稲葉山城の
手にあるのは六角からの手紙です。
美濃守護である
「定頼め、将軍義晴のみにかまっておればよいのに」
三好長慶は細川晴元の命令を受けて越水城から堺に向かう所であり、その情報を掴んだ細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などが逆襲を考えています。
要するに、細川一門が互いに権力争いをして、血で血を洗う身内争いをしています。
六角定頼はその12代将軍足利義晴を擁護して、その争いに介入し、果てる事ない争いを繰り返しています。
ある意味、美濃や尾張で争乱をしているのも、その余波のようなモノです。
現代風に言うなら、どんな悪い事をしても、警察が出て来ないから好き勝手にやる事ができる。
美濃を乗っ取る事も、尾張を攻める事も、天下を掠め取る事もです。
国のトップが馬鹿だと、国が荒れるのです。
利政は溜息を付いて、どうするかを思案します。
北は朝倉、西に六角、南に織田、三方を敵に囲まれて苦しい戦いを強いられています。
膠着する状況を打開する為に、朝倉は将軍を通じて、六角に仲裁を頼んだのです。
断れば、六角も本格的に兵を送ってくるでしょう。
100万石の六角が…………想像したくありません。
「朝倉め、いらん事をする」
「父上、どうかされました」
「おぉ、蝶か」
美濃の帰蝶は、正室の
「これを見よ」
そう言って送られてきた六角からの手紙を放り投げた。
帰蝶はそれを読み上げるとやんわりと微笑んだ。
「よろしい話ではございませんか」
「はぁ、あの碌でなしの下に嫁ぐ事がか?」
「
「あやつで美濃が治まるか!」
父の利政の声に怒気が混ざります。
利政は愚か者を嫌います。
「治める必要はございません。子を為してくれれば、それでよいのです。2つか、3つまで育った所で、頼純様がお亡くなりになれば、都合がよいというモノです。父にこの美濃を差し上げましょう」
「あは、あは、あは、蝶は怖い事を言うのぉ」
「父上は後見人、わたくしは御生母として評定、軍議に出ても誰も文句をいいません」
「然もありなん。蝶が男であったらとつくづくと思うのぉ」
「ふふふ、お上手ですね。父上」
嫡男の義龍は図体ばかりデカくて頭が足りない。
帰蝶は器量良く、頭がいい。
何よりも、本質を見抜く目を持っていました。
しかし、女です。
「今日はなにようじゃ」
「そうでございました。信長が『うつけ』かどうかを聞きに参ったのです」
「蝶も鬼の話が気になるか」
「彦太郎(光秀)と左馬助(秀満)は気にしておりましたが、内蔵助(利三)は嘘じゃと申しておりました」
「また、勝手に遊びに来ておったのか。困った奴らだ」
帰蝶の母、小見の方は明智の出であり、歳の近い帰蝶をよく訪ねてくるのです。
「小見の方が甘い顔をするから、図に乗るのじゃ」
「わらわのおもちゃを取らないで貰いたい」
「奴らは蝶のおもちゃか!」
「菓子を与えるだけで、色々と情報を仕入れてくれる。重宝な奴らじゃ」
「あは、あは、あは、そうか。そうか。では、おもちゃを取るのは止しておこう」
「流石、父上です」
奴らにとって帰蝶は奇貨であり、帰蝶がそれに気づかぬハズもない。
なんとしても気を引きたい相手だと言うのに可哀想な事だと利政は思ってしまいます。
「で、父上は信長を『うつけ』と思われるのですか」
「鬼を手懐けるなど『うつけ』も『うつけ』、『大うつけ』だな」
「ほぉ、父上はあの噂を信じられるのか?」
「噂とはなんじゃ」
「彦太郎は鬼が2,500の兵を一人で殺したと言った。左馬助はそれでは衣ヶ浦の赤く染まる訳がないと一万の兵が斬殺されたと申した。内蔵助は織田が流した嘘であり、鬼などいないと言っておる」
三者三様の話を持って来たようであった。
「蝶はどうだと思う」
「わらわか。そうであるな!衣ヶ浦の話は大袈裟であろう。2,500の兵を一人で殺したのも嘘であるな。一人で100も殺せば、他は逃げて行く。一万の兵も嘘じゃ。あそこで一万も集まるなら、尾張は三河に乗っ取られておる。さらに織田が嘘を流すならもっとマシな嘘を流すであろう。尼子の姫が鬼になるなど奇想天外で誰が信じるか」
「ほぉ、蝶は嘘と思っておるのか」
「逆じゃ。嘘ならもっとマシな嘘を吐くと言っておる。尼子の姫が鬼のように強いというのは、本当の事なのじゃろぅ。じゃが、箔を付ける為に、少々大袈裟に言っておるとわらわは見ておる」
よく考えている。
帰蝶は聞いた話を鵜呑みにしていない。
まったく、惜しい。
「そうじゃな。尼子の姫が連れてきた先駆けは余程に強い者が軒を連ねておるのであろう」
「先駆けでございますか」
「おそらく、50から100であろう。強い先駆けは恐ろしいぞ。戦況をがらり替えてしまう。先駆けは死を恐れずに敵に向かってゆく、本陣まで一気に駆け抜ければ、向こうは総崩れじゃ。そこで総攻撃を掛ければ、10倍の敵を突き崩す事ができよう」
「なるほど、尼子の姫に付き従った先駆けでございますか」
帰蝶がうんうんと何度も頷いています。
この子は次に何をやらかすのだろうと利政は聞かずにはおられないのです。
「何を考えておる」
「あの三人に先駆けになるような豪の者を探させます。その者に貧しい子供を100人付けます。5年ほど育てれば、より先駆けが作れるでしょう」
「5年か!」
「はい、わらわが子を為して、その子が3歳くらいになるには、最低5年は掛かります。その頃に間に合えばよろしい」
「ははは、すでに見えておるのか」
帰蝶の軍略は天武の才であった。
その片鱗を見て、利政は笑うしかなかった。
「なにか、面白い事を言いましたでしょうか?」
「すまん、すまん、此度の事であの『うつけ』をそなたの婿にして、織田との和議を考えておった」
「それは困ります」
「ほぉ、困るか。『うつけ』は嫌いか」
「はい、『うつけ』は嫌いですが、『大うつけ』は好きでございます。六城を落とした軍略を持つ才を惜しいと思うのです」
「なにゆえに」
「わらわが評定・軍議に出る為には、夫に死んで頂かなければなりません。そのように才ある者を亡き者にするのは、心が痛とうございます」
「ははは、なるほど」
利政は笑った。
心の底から笑った。
美濃守護の嫡男であった
「そうなると、頼純の母が朝倉の出と言うのは都合がいいのぉ」
「はい、タダで人質が手に入ります。あぁ、そうです。生まれた子も朝倉から姫を貰いましょう。養母をその母にさせれば、すぐにでも送ってきましょう」
「六角ではないのか?」
「六角と縁を結ぶのは、こちらから人質を出す必要があり、余り得策ではございません。六角守護の嫡男、六角
「ほぉ、そこまで考えるか」
「それに」
「それになんじゃ」
「尾張を平らげた後に、近江もいただきとうございます」
「ははは、尾張の次は近江か」
「はい」
「では、まず美濃を取りにゆくとするか」
「はい」
こうして、利政は六角の仲介を受け入れる事にした。
土岐頼純は利政が断る事を期待していたなど知る由もない。
「蝮の娘だと、そんな恐ろしい娘を妻にできるか」
少なくとも3年、長ければ5年以上も利政が絶対的な擁護者になってくれるなど、知る訳もなく、利政が受け入れると聞いて怯える日々を過ごしたなど、帰蝶も思いもしなかっただろう
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