四日が経った。


 養生所の裏で、木の棒を持って立つ。それを、汗が噴き出るまでやる。そこから、同じように木でできた的を、幾度となく打つ。それが終わると、今度は棒を置いて、走る。走るのも、定められた時間だけである。


 レオンが許されているのは、これだけだった。ほんとうは馬にも乗りたいし、剣や槍を持ちたい。ただ、医師のドミニクは決して許さなかった。順序というものがある。彼はそれだけを言い、レオンも従った。


 いまも、レオンは棒を手に取り、立っている。はじめは、同じ姿勢で立っているだけでもつらかったが、それも一日だけだった。からだが感覚を取り戻しているのだ、と自分では思っていた。父との剣の稽古でも、こういうことを何度もやらされたのだ。棒は青竜軍アルメの兵が調練につかうものらしい。


 棒を構えていると、少しずつ心気が研ぎ澄まされるような感覚がある。この感覚を、もっと研ぎ澄ましたものにする。それが、自分が元のように動けるかどうかの目安だと思っていた。いまは、構えていても、様々なことが雑念としてやってきて、ほんとうの意味で、集中できてはいない。たとえば、刺された左手の傷の痛み。折れて、添え木で固めた右腕。それを気合で抑え込んでも、今度は、どこかにいる父や、妹のことが気になりだす。はやくからだを回復させたい。そればかりを考えるときもある。そういうことの、繰り返しだった。


 ときどき、兵士たちがのぞくように自分を見ることがあって、はじめは、それも気になった。別に、大した意味はないのだということはわかっていても、なにか試されているような気持にもなる。


「馬鹿者を、おもしろがって見ているのさ、あいつらも。よくそんな姿で稽古の真似事などできる、とな」


「先生が、やれといわれたことです」


「だから、真似事だ。生きているかも、死んでいるかもわからん男が、兵の真似をしているのだな」


 薄ら笑いを浮かべて、ドミニクがそう言った。この男の言葉はもう、罵るようなものだが、不思議とレオンは聞くことができた。


「私は、生きています」


「どうだろうな。眼は死んでいるように、俺には見える」


 レオンは棒を持ったまま、少し黙った。


 眼が死んでいるのか。この俺の。


 自問した。妹が生きていると分かって、死の淵からい出したのだと思っていた。実際、小隊長カピタンアルサスからの便りを受けたときは、体中に力が満ちたような気がしたのだ。それでも死んでいると、この男は言う。


「何を見てきたのかねえ、その眼で」


 吐き棄てるように言って、ドミニクは養生所に戻っていく。


 俺の見たもの。レオンは同じ姿勢のまま、自問を続けた。友が死んだ。部下が死んだ。死んだ者のすべての眼が、自分を見つめていた。なぜあれだけの男たちが死んで、自分が生きているのだ。


 ハイネは、臆病だから生き延びたと言っていた気がする。サントンは、勇敢な者が死んだと言った。俺は、臆病なのだろうか。


 ドミニクは、寿命だと言った。寿命がありながら死にこうとしていたのが俺だ、と言った。寿命だから、生きるしかないのか。あれだけの人間を死なせた俺が。


 いや、妹のため、生きねばならない。父の代わりに、領を治めねばならない。では、父も妹もいなければ。俺はどうなる。死ぬのか。


 レオンは、棒を置いた。


 無性に、けたくなった。馬でだ。そして、ノルンに行きたい。自問の答えがそこにあるのかは、わからない。ただ、そうしなければならないという気持ちが、レオンの心を支配した。


 養生所の中に戻る。ドミニクが、卓上で何かの書類を眺めている。入ってきたレオンを一瞥いちべつもしない。


「先生、外出の許可をいただきたいのです」


 ドミニクは顔を上げもしない。


「なんだ、寝言か」


「今日だけ。日没には、必ず戻ります。ノルンに、向かわせてください」


「俺の言いつけを、すべて守ると言ったのは、どうした」


「先生は、私に死んでいると言われた。先生が言うなら、そうなのかもしれない。しかし、生きている。これも確かだ。私は、生死の境目を知りたいと、ずっと考えているのです」


 ドミニクが、そこではじめて顔を上げた。表情は変わらないが、話を聞こうという気になったのかもしれない。


「ノルンに残した部下がいます。私と同じように、修羅場を潜り抜けた男たちが。そして、死んだ者も。私は、どちらにも、会っておきたい。それが済めば、必ずここに戻ります」


 たった四日で、棒を振るい、走れるからだに戻りつつある。それは、この医者のおかげだ。だから、なにも逆らう気はない。もし、だめだと言われれば、それまでだった。


「知恵の回る小僧だ、まったく」


 鼻でわらうドミニクの言葉の意味が、レオンにはすぐわからなかった。


「たしかに、馬に乗って街に戻るな、という言いつけは、しちゃいねえ。これは、やられたな」


「先生、それは」


「どうせ、馬も、この裏に停めてあるのを使うつもりなんだろう。勝手にしな。俺は忙しい。一日、おまえがここにいるか、いないかなど、気にしてられんのでな」


 それだけ言うと、ドミニクはまた書類に視線を落とした。もう、何も言う気はないらしい。まるで、レオンがそこにいないかのような振舞いだった。レオンは頭を下げると、部屋を飛び出した。


 養生所の裏。馬がいた。素早くくらをつけ、またがる。あぶみに足を掛けるとき、すこしだけ体勢を崩しかけたが、左腕の力だけでなんとか乗ることができた。


 軍営から、街へ出る。早足でけさせる。街を出て、街道へ。人の姿がなくなる。遠くに山が見える。


 不思議なほど、駈け続けられている。からだの置くところに手間取ったのは最初だけで、あとは馬の動きに合わせることができた。手綱たづなを両手で握っても、ほとんど力は入らないのだ。それで速さを押さえているのが、いいのかもしれない。


 風が、心地よかった。季節はもう移っているのだろう。ノルンの街を出たときは、緊迫していて、風景など見ている余裕もなかった。あれからまだ十日ほどしか経っていないというのが、嘘のようだった。


 原野に出た。橋がかかっていて、太い川が流れている。川が陽の光を反射しているのが、目に眩しい。この川を越えれば、ノルンまでもうすぐというところだ。


 けているときは、いつも無心だった。昔からそうなのだ。悩んだとき、考えに困ったときはこうしていた。何も考えていないのに、なぜか、駈けたあとはすっきりとする。何かが解決するわけではないが、立ち止まってしまうよりもずっといい方向に、物事が進む気がした。


 木立に入り、ゆっくりと走り抜ける。家屋が見えてきた。街の中に、馬を乗り入れる。そのまま丘を登った。屋敷が見えてくる。誰かが表に出ていて、声を上げた。


「これは。坊ちゃん」


 下馬したレオンに、駆け寄ってきたのは使用人のゲラルトだった。眼に涙を浮かべている。


「連絡もせず、済まないことをした」


「ご無事で。お嬢様は」


「生きているよ。ハイデルに、じき戻る。私も、すぐに戻らねばならん」


 屋敷の中から、男が何人か出てきた。口々に何か叫んでいるが、中心にいる大柄な男だけは、静かにこちらを見つめていた。レオンも、言葉が出ない。なんと言ったものか、迷った。


「皆の顔を、見たかった。生きた者も、死んだ者も」


 辺りが、しんと静まり返った。サントンが、歩み出てくる。


「こっちだ」


 馬をゲラルトに預け、彼の招く方へついて行った。あとから、ハイネもやってきた。三人で、丘を下りた。


 サントンの背中は、小さくなったように見えた。ともに戦った日から。何月も経ってしまったかのようだ。疲れが、にじみ出ていた。後ろを歩くハイネは、眼の下に青黒いくまを作っている。二人がこの十日ほどで何をしていたのか、それでなんとなくわかった。


 街の外れに来た。無数の石が並んでいる。誰かが、隅のほうで土を掘り返していた。何人かが、その石の前にひざまずいている。


 石垣で囲われた、小さな墓地だった。サントンはその中でも、石の新しいところへレオンを導いた。石には、粗く削って、名が彫られている。


「五日かかった。すべてに石を立ててやるまで。終わったのは、つい昨日のことだったよ」


 サントンが、ぽつりと言った。ハイネはうつむいて、黙り込んでいる。


「おまえの石も、作らねばならないかと思った」


 ハイネがそこで、小さく嗚咽おえつを漏らした。レオンはもう一度、目の前の石の名を見た。マルセル・フロイン。隣の石を見た。マルコ・フロインとあった。友の名が、じわりとレオンの心にみ込んでいく。


「おまえが生きていて、ほんとうによかった」


 サントンが泣いていることに、そこで初めて気が付いた。この男の涙など、これまで見たことがなかった。朴訥ぼくとつで強い男だ。


「必ず、生きている。信じていた。生きている限り戦うのだと、おまえが言っていたことを、俺は、ずっと信じていたんだ」


 生きている限り。サントンの口から出た言葉に、レオンは衝撃を受けていた。自分の言った言葉だった。それを、忘れかけていた。いや、死の重さだけが心にあって、忘れてしまっていたのだ。


 死んだ眼をしている。ハイデルで、医者に言われたこと。ようやく、それがに落ちた。自分は、死ぬことばかり考えていたのではないのか。背負わねばならない死は、たしかにある。しかし、それに呑まれてはいなかったか。


 自分が生き残ったことの意味は、生き抜くことでしか見つけられないのだ。


 レオンは、サントンと向き合った。


「サントン。俺は、おまえに言われてから、ずっと考えていることがある。俺たちが、なぜ生き残ったのか。死んだ者と生き残っている者は、何が違うのか。この者たちのためにも、それを考え続けたいと、俺は思う」


 妹を護ることも、父のような戦士になることも、自分が生きねば成し遂げられない。


「おまえが、いや、俺が言ったように、俺は、戦い続けようと思う。生きている限りだ。戦い続けることが、考え続けることになる。考え続けた先に、何かがある。そう思っていくよ」


 サントンは、呆気に取られているようだった。ハイネも、自分を見つめている。


「難しい。難しいな、おまえの言っていることは」


「難しいと、自分でも思う。だが、生きていてもいいのかと思うのは、やめることにする。生き残った人間の、宿命のようなものだと」


 サントンは涙を拭い、苦笑した。伝わったのかどうか、いまは分からなくてもいい、と思った。


 レオンは、それから、死んだ兵の生家をすべて、おとなった。何を言われようと、それは、隊長である自分が行わなければならないことである。名簿をサントンから貰い受け、三人で街を回った。感謝の言葉を述べる者、罵る者、ただ頷くだけの者。様々な反応が、帰ってきた。相手にもされない家もあったが、それも仕方のないことだった。すべて回る頃には、夕刻になっていた。


 警備兵団の今後については、三人で話し合った。臨時の隊長に、サントン。副官にハイネ。レオンの傷が癒えれば、もとに戻るということになった。兵団に志願する者は、しばらく現れないだろう。今回の件で、除隊を申し出た者もいるらしい。それを無理に止めなかったサントンの判断は、褒めるべきだった。


 屋敷に戻った。ハイデルに戻る前に、手にしておきたいものがあったのだ。


 父の居室。そこにはいま、誰もいない。壁。探しているものが、そこに掛けてあった。レオンは、一本の剣を手に取る。こんなにも重い剣だったかと、あらためてレオンは思った。


 父の剣。譲り受けたものの、どう扱えばいいのかわからず、ここに置いたままだった。


 獅子を斬った、この剣を、自分がつかう。そして戦う。戦った先に見えるものがあるのか、ないのか。生死の分かれ目を見ることができるのか。わからない。考えることも、無駄なのかもしれない。それでも、自分にできることは、とにかく生き続け、戦い続け、考え続けることだ、と思った。そのために、この剣が必要だ。


 剣を、腰に差す。屋敷を出た。ゲラルトを含めた使用人の全員が、見送りのために出てきていた。馬に跨るレオンを、皆が見つめていた。


「必ず戻る。もう少し待っていてくれ。屋敷のことは、おまえに任せたぞ、ゲラルト」


「はい、旦那様」


 ゲラルトの返答で、レオンは言葉に詰まった。老人の眼が、自分をじっと捉えている。何も言わなくていい、と言われている気がした。レオンはひとつ頷くと、馬腹を蹴った。馬が駈けだす。振り返らなかった。


 陽の暮れ行くなかを、ハイデルへと走った。これでよかったのだ、とレオンは思っていた。ノルンに戻ったことは、間違いではなかった。


 もう、空は半分暗くなっている。陽が暮れるより前にという約束は、守れそうにない。ドミニクの罵る声が、もう聞こえてくるようだった。あの医者は、自分が帰ってからも、死んだ眼だと言うだろうか。


 いや、今の自分なら大丈夫だ、とレオンは自分に言い聞かせた。もう、大丈夫だ。生きることは戦いだが、戦い抜く覚悟はできた。


 リオーネのことを考えた。今の自分なら、彼女のことも護れる。自分の手で、護るのだ。それも、戦いだった。


 橋が見えてきた。橋の手前で、馬が一頭、停まっていた。レオンは目をみはった。暗くなっていく周囲の中でも、はっきりと分かる色の髪が、風になびいていたのだ。


 レオンが馬を停め、下りると、相手も下りた。


「ここで待っていれば兄に会える気がすると、言い張るのでな。陽が暮れそうだから、私はいやだったのだが。これは、ほんとうに神の思し召しかもしれん」


 小隊長カピタンアルサスが笑っていた。雪風ヴァイゼンが、静かにこちらを見ている。銀の少女が、こちらに向かって駆けてきた。


 胸に飛び込んでくるリオーネを、レオンはしかと抱きしめた。


「ほんとうに、会いたいと思ったら、会える。わたしは、信じていました、兄上」


「俺も、おまえのことを考えていた。すまなかったな。おまえは、俺が必ず護る。今度こそ、必ずだ」


 生きる。戦う。この妹のために。死んでいった者たちのために。


 胸の中で、リオーネが何度も頷くのが分かった。泣いているらしい。


 小さな頭を、何度も撫でた。




(生と死のはざまに  了)

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