episode3 前触れ
獣
陽が昇っているうちに、捜さねばならなかった。
リオーネの姿は、屋敷のどこを探してもない。いつもならば
もっと、きつく言っておくべきだったのかもしれない。自分の馬を駈けさせながら、レオンは歯ぎしりした。
街の外の林にいるならば、レオンが父を見送って戻ったときに、すれ違っている。それを、見逃したか。しかし林といえど、街全体を取り囲むようにしてあるし、山の一部である。たまたま出会うということのほうが、あり得ないことなのかもしれない。
自警団の者を呼ぶことも考えたが、それはやめた。これは、屋敷の者と、自分の目の
ただ、どこかに
街の者が、馬で通りを駆け抜けようとしているレオンを呼び止めた。いつも、屋敷に作物を入れにくる男だ。妹を見なかったか、と尋ねると、男は
「山の方に。屋敷の方々も探していらっしゃたので」
「すまない。助かった」
目立つ容姿でよかった、とレオンは思った。彼女は、どこへ行こうと、人の目を引く。誰もが、あの流れる銀の髪を、目で追うのだ。本人は嫌がるが、いまは
東には行かず、西へ走る。街を出て、原野に向かう方向とは逆である。街の入り口から見て、奥といえる山の方に向かった。
葉をつけ始めた若い緑の木々の中に、銀の髪を捜す。腰に
この街に暮らすようになってから、何度も駆け回った森ではある。木がどれだけ成長したか、何色の花がどこに咲いているかまで、わかるような場所だ。しかし、リオーネは違う。なぜ、こんなところに入ったのか。誰かが一緒についているのか。木漏れ日があるこの時間ならいいが、無くなってしまえば、ここには闇しかない。火の
とにかく、急がなければ。自然と、足は早まる。
何度も声を上げた。もしかすると、すでに街のほうで、誰かが彼女を見つけているかもしれない。そんなことを思った。それならいい。そのほうがいいのだが、なぜか、そうは思えない。引き寄せられるように、さらに森を奥に歩く。
草の音。茂みが揺れる音がした。剣を抜く。集中した。
茂みから、銀色の塊が飛び出してきた。レオンは思わず、声を上げた。リオーネである。ほとんど、転がるようにして走り、木の根に
「兄上。助けて」
その叫びが聞こえるのと同時に、
獣。そう思った。そしてすぐに、違う、とも思った。獣のような、なにか。虎か、狼か。熊か、獅子か。そのどれでもないようなものが、目の前にいた。それは、レオンの姿を認め、動きを止めて、低く伏せるようにした。
太い胴体に、四肢があり、爪が見える。毛は黒く、光を吸い込んでいるような色である。ただ、全身を覆う漆黒の体毛の中で、眼だけが輝いて見えた。飛び抜けて赤い眼である。その赤い眼と、自分の眼が合ったのが、はっきり分かった。
呑み込まれる。
背後のリオーネの吐く息の音が聞こえる。よほど動転しているのか、荒い呼吸が止まっていない。そちらも気になったが、目の前の相手から意識を逸らせはしない。眼と眼が合っている。離せば、殺される。本能で感じるものがある。
ひとつ息を吐いた。
獣が、横にゆっくりと動く。正面に回るように、レオンも動く。足元は木の根と草ばかりだが、感覚で、しっかりと踏める地面に足を置くようにした。相手が、さらに一瞬だけ、頭を低くした。来る。反応した。巨体で目の前が暗くなる。胴の下を
今度は、獣が距離を取る。踏み込む。突きを
跳び掛かってこようとした相手に、気を放つ。獣が、動きを止めている。思わず、舌を打った。今ので跳び掛かってきていたら、斬れた。誘ったのだ。その気配を感じ取ったのか。肺から、大きく空気を吐き出す。
獣ではない。またそう思った。獣が、こんな動きをできるはずがない。これではまるで、立合いだ。人間を、それも強い人間を相手にしているような錯覚に陥った。
獣が跳躍する。今度は、
立ち上がる。声を出し、自分に
獣が後脚を不規則に上げながら、また横に動いている。蹴りが、腹か、どこかに入ったはずだ。それを気にしている。負けていない。
赤い眼が鋭くなり、
お互いに、すぐには動き出さない。呼吸は、もう整っている。気も満ちている。あとは、どちらが先に、死の境界まで踏み込めるかだった。対峙は、これで終わるという気がした。
跳び掛かってきた。それは、はっきりと眼で捉えられた。踏み込む。剣を
獣が、身を
「兄上」
叫ぶように、リオーネが駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、兄上。ごめんなさい」
「何を謝ることが、ある」
視界が白くなりそうなのを
「獣の声が、したの。それでここに、来てしまった。私のせいで、兄上が」
青い眼から涙が溢れ出ていた。闘ったレオンより、言葉を
「他にもいるのか」
「いない。分かるもの。あの獣の声も、もう遠くに行った」
なにが分かるのか、と
「帰るぞ。話は、それからだ」
ほとんど何も考えずとも、帰りの道筋はわかる。リオーネは、一言も発さないまま後をついてくる。馬が
「これは。どうしたことです」
ゲラルトだった。レオンの姿に、目を見開いている。何人かの女中が、小さい悲鳴を上げている。
「馬に、乗れそうにない。肩を貸せ、ゲラルト」
「それはもう。妹君には、お怪我は」
「私は大丈夫。それよりも、兄上の手当てを早くしないと」
リオーネの声は、まだ
屋敷に戻ると、すぐに医者が呼ばれた。寝台に横たわるレオンの横で、リオーネがじっと
「妹を。診てやってくれ」
一通りの検分を終えた医者に、そう言った。リオーネが首を振る。レオンはそれを見て、少し笑った。
「こういうときは、変な気を遣うものではない、リオーネ。擦り傷くらいと思っていても、あとで
「でも、私は大丈夫です」
「もういい。とにかく、診てもらえ」
それだけ言うと、リオーネは黙った。医者が、どうすればよいのか、というふうにレオンを窺う。頷くと、リオーネの
脚や、腕に、いくつもの傷があるようだった。医者は、大きなものはない、と言い、レオンの傷に付ける
「獣の声、と言ったな」
医者が去ると、レオンは寝台の上に腰かけたまま尋ねた。妹は頷き、僅かな
「屋敷にいたら、変な感じがしました。肌が、
「あの獣のいる場所が、わかったのか?」
「山の中に、呼ばれた気がしたから。人ではない感じがしたので、余計に、気になって」
「そもそも、あれは何なのだ」
「それは、私にもわかりません。じっと見ていたのですが、私に気付いて、追ってきたのです。逃げるしか、ありませんでした」
「逃げるだと。よく、それができたものだ」
「あの獣の追ってくる方向が、分かる気がしたのです。姿が見えなくても、見えるような」
それも、妙だった。嘘を
「あんなものがいるとはな。俺も死ぬところだったが、街に出てきていたら、
ほとんど、独り言だった。街に出ていたら。落ち着くと、そのことが恐ろしくなった。いま、あの獣はどこにいるのか。斬ったが、殺したわけではない。もし、近辺にいるのなら、と考えた。自分のように、闘える者がいればいいが、いなければ、人が死ぬ。
ふと、父の姿が思い浮かんだ。
ここは、自分の領地なのだ。父は、今はいない。レオンは、痛む体を起こし、寝台から立ち上がった。なんとかせねばならない。しかし、どうすればよいのか。リオーネが、まだ申し訳なさそうに自分を見ている。
獣の声。信じてよいものか。それも含めて、考えなければならない。リオーネについてくるように言い、レオンは部屋を出る。妹が、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます