第十七話

 ふと顔を上げると、わたしはかむらの滝の前に立っていた。

 あれ、わたし……いま海に落ちたんじゃなかったっけ……?

あたりを見回そうとして、ぎくっとした。手足はある。意識もちゃんとあるのに、身体が思うままにならないのだ。全自動ロボットの内部に閉じ込められたみたいだった。

 どういうこと……これは──誰? 

 揺れる泉の水面に、すらりとした美しい女の姿が映る。淡く光を放つ、真珠のような白無垢──婚礼の衣装。

 間違えようがなかった。わたしは、あの人の身体の中にいる。

「亀姫!」

 名前を呼ばれて振り返った。髪飾りが繊細な音を立てて揺れる。そこには狼がいた。金色の目、真っ白な毛皮を着て、泉の淵に立っている。

「飆」わたしの声じゃない声が、わたしの喉から流れ出る。「皮衣を、奪い返したのですね」

 飆を見た瞬間、胸が締め付けられるのを感じた。これは亀姫の感情、それとも、自分の? 「お前を、止めるためじゃ」飆の声には荒々しい苦痛が滲み出ていた。

「倉の守番たちも、手にかけたのですね」鈴の音のような涼しい声が、険しくなる。

「ああ」飆の声は、犬の吠え声みたいに聞こえた。「何人でも手にかける。お前を守るためならば」

「わたくしを──そして、あのお方を止めることはできませぬ」亀姫は静かな声で言った。

 飆は泉に足を踏み入れた。彼が身体に纏っている風が、水面にさざ波を引き起こす。「行くな──! 望まぬのならば、行かなくても良いのだ!」

「ふるさとが海神の怒りに沈むのを、ただ待てと?」彼女は首を振った。「これは約定。あのお方と取り交わした契約です。破るわけにはいかない。いいえ、もうすでに──」そっと顔を伏せた。「ここに留まる年月が長すぎました。別れを、先延ばしにしすぎてしまった」

「この島には、お前が必要なのじゃ」飆は懇願した。「行くな!!」

 亀姫は微笑んだ。それは、ひどく哀しい微笑みだった。

『この島には』

飆の言葉のせいだ。わたしにはわかった。けれど亀姫は、失望を心の底に沈めた。身体を締め付ける着物の下で、彼女の胸が大きく膨らむ。覚悟を決めるその一瞬の呼吸──飛び込み台の淵でするように、深く息を吸った。亀姫は両手を広げて、言った。

「ならば、とめてご覧なさい!」

 亀姫の力はもの凄かった。飆の渾身の攻撃も、城壁のような結界に阻まれて散り散りになる。結界は攻撃の手段にもなった。飆を閉じ込めたままかむらの滝が流れる岩盤にぶつけて大穴を開けたり、薄く細い結界を刃のように使ったり。

 凄い、という言葉を越えている。亀姫の中で渦巻く途方もない力を、わたしも一緒に感じていた。とてもじゃないけれど、これだけの力を制御する能力は、わたしにはない。台風のまっただ中に放り出されたみたいに、自分の意識にしがみつくのがやっとだった。

 けれど、毛皮を纏った飆の力は、亀姫のさらに上をいっていた。彼が足をかければ、巌は砕け、岸壁がえぐれる。亀姫が傷を負わずに持ちこたえているのは、飆が彼女を死なせたくないと思っているからにすぎないのだ。風は彼の思いのまま。飆は突風を身に纏い、滝を逆流させ、泉の水を吹き飛ばした。木々は地に生える雑草の如くうねり、何本かは耐えきれずに根元から倒れた。

「留まると言え、お富!」飆が吼える。

 亀姫は、食いしばった歯の間から言った。「こ、断る──!」

 やがて亀姫が押され始めた。結界は弱くなり、飆を捉えようとしても、紙のように脆い檻にしかならない。

「く……っ!」

 ついに彼女は泉の底に膝を突いた。着物も髪も乱れ、簪も飛んでいった。白粉も剥がれ落ちてしまっている。

 飆は狼の姿のまま、少し離れたところに立って、亀姫が観念したように俯き、長い息をつくのを見つめていた。

「飆……」姫がゆっくりと顔を上げ、鈴の鳴るような声で尋ねた。「わたくしを──愛していますか?」

 ほんの一瞬だった。その一瞬は戸惑い、あるいは迷いであっただろうか。そして、彼は答えた。

「ああ」

 それが答えだった。わたしの心に重なった亀姫の心が、陽光を浴びた桜の花のように輝いて……散っていった。

 彼女は両手を掲げた──愛しい人の抱擁を待つように。飆はそれに応えようと、毛皮を脱いだ。眩い閃光が彼を包み、光の中から凛々しい人間が立ち上がった。面をつけていない口元には、やさしげな微笑みがあった。

「お富……」

 それに応えるように、亀姫も微笑む。

そして、飆が一歩踏み出した途端、結界が彼を包んだ。

「何──!?」飆は暴れた。「お富! これはどういうことじゃ!」

 ありったけの力を込めて結界を破ろうとし──それでもびくともしないと分かると、呆然と彼女を見つめた。亀姫が毛皮を手にとるのを。

「その言葉に、偽りはありますまい」亀姫は、静かに言った。「でも、想いは……違う。わたくしの抱くものとは」

亀姫は、自分が作った結界に歩み寄って、そっと手を触れた。飆の黄金の目に、今にも泣き出しそうな亀姫の顔が映る。

「あなたにとって、わたしはいつでも小さなお富だった。十年前、あの森で出会ったときから、ずっと変わらぬまま──あなたは、負うた子を愛せる? 娘としてではなく、一人の女として?」

 答えは、飆の顔に表れていた。「それは──」

「ずっとあなたを求めていた」亀姫は、ゆっくりと結界から離れた。「けれど、あなたはわたくしを求めてはいない」

「それは違う、お富──儂は……」

「海の底にならば、わたくしを必要としているものがいる──あんなにも切実に」

「行くな……頼む、行くな!」

 結界越しにくぐもって聞こえる、飆の悲痛な叫び。耳を閉じてしまいたかったけど、わたしの心が乗り移った亀姫はそうしなかった。彼女が手をかざすと、飆の顔に、見慣れたあの面が表れた。

「あなたの祠をつくり、義妹いもうとに祀らせましょう。あなたは人を殺めた。その償いに、彼女の家とこの島を守り、栄えさせるのです。それまで、その面は外れない」

 そして亀姫は、懐から鏡を取り出した。ほっそりとした両手の上の小さな銅鏡が、結界とその中の飆を映す。

「さようなら、飆……」

 そして、飆は鏡の中に吸い込まれていった。亀姫は、あたりを満たす絶望の咆哮が聞こえなくなるまで、凛とした表情のまま、じっと前を見つめていた。やがてあたりに再び静寂が降りてくると、力尽きたようにその場にしゃがみ込み、鏡に頬をすり寄せて泣いた。

 鏡に落ちた涙は銀に輝いて、やがて鏡面を埋め尽くした。 


 「はっ!?」

 息を吹き返したわたしは、『やっぱり死んじゃったんだ』と思った。だって、周りには何も無かったから。見渡す限りの暗闇──わたしが想像していた死後の世界はもうすこし穏やかで美しいところだったけど、地獄に堕ちるんでない限り文句は言えない。

 そっと手を伸ばすと、何かに触れた。

「これ……」

 手当たり次第に探ってみる。どうやらわたしは球体の中にいるらしかった。おそらく、閻魔大王に会う前の待合室ってところだろう。

 わたしの結界と似てるな、と思ったとき、ようやくこれが結界以外の何ものでもないことに気がついた。

でも、変だ。いつの間に結界を張ったのかわからないし、それに、結界を張るときにいつも感じる、自分と繋がっているような感覚がない。

「どういうこと……?」

 再び注意深く辺りを見回すと、あたりが完全な暗闇ではないことが分かった。時折、幽かな銀色の光が結界の外を飛んでいく──いや、違う。

「飛んでるんじゃない……泳いでるんだ」

 独り言が、耳の中でぼわんと籠もった。高い山に登ったときにそうなるみたいに。確か、こうなるのは気圧が違うから。同じことが、海の中でも起きる。

「じゃあ、ここは海の──!?」

 右手に触れたものに、思わず悲鳴を上げて飛び上がった。何か、毛むくじゃらのものがある。密閉された空間で鉢合わせたくない、ありとあらゆる哺乳類を思い浮かべながら、もう一度、そっと触れてみる。ラッキーなことに、それは『生き物』ではなかった。滑らかでたっぷりとした毛。かすかに暖かく、触れると、指先に静電気が走ったみたいに、ちょっと痺れる。その感覚には覚えがあった。

「これ、毛皮だ……」

 見なくても分かる。この毛皮が、雪のように白い狼のものであることは。

 急に胸が苦しくなった。気圧が変化したせいじゃなくて、あることに気づいたから。

 わたしは、結界の底に手を突いた。眼下にあるのは、月の光も、日の光も届かない海底の真っ暗闇。

「そこに、いるの?」そっと問いかける。「亀姫……?」

 すると、かすかな動きを感じた。結界が上昇している。

「待って!!」わたしは結界に命じた。もちろん、上昇は止まらない。「ちょっと待って──!」

 濃厚な闇が徐々に薄れ、深緑と紺色が混ざった色に変化する。海の中を泳ぐ魚の影が次第にはっきりと見えるようになってきた。海面が近づいている。

「あ……ありがとう!」わたしは言った。届いているという確信があった。「ありがとう……」

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