「トトリ。ここはトトリの家?」

「違う。知らない家。でもあれはお父さんのお気に入りのシャツだよ。一週間のうちに四日も着るんだから間違いないよ」

 トトリの目は朝から今までで一番、生き生きとしている。

「本当にお父さんの家か分からないんじゃない? 大丈夫かな?」

 いざ目的の家が目の前となると、急に尻込みしてしまう。私はいつもそうだ。

「大丈夫だよ。お父さんはきっとお母さんから逃げ出したんだよ!」

 トトリは「ありがとう」と元気よく言ってから、さっさと呼び鈴を鳴らしてしまう。

 私は少し離れた所から見ていたけれど、トトリがベランダに出て洗濯物を取り込み始めたので安心して帰ることにした。

 帰る時に目が合うと、トトリは嬉しそうに手を振ってくれた。

 雨が降っている。

 私はコンビニで傘を買うついでに、時間を潰してからそのままあったか亭に向かう事にする。


 雨はふんわりと舞うように降り続いて、店に着いても全身がびっしょりと濡れているような事はなかった。

 まだ茶碗の神様はいない。

 私は木戸を開いて台所庭へ入る。

「雑兎。来たよ」

 すると木の上から真っ赤な実を咥えて、雑兎が降りて来た。

「木登りする兎なんて聞いた事もないよ」

「なに言ってんだよ。今は山羊だって木登りする時代だぞ。お前も食うか?」

「それ何の実? ていうか誰の感情?」

 私が顔をしかめると雑兎はピョコンピョコンと外に出る。

 ひょいっとカウンターの椅子に座る姿は慣れたものだ。

「誰のかは知らねぇけど、感情は秘密で、これは柿だ」

「こんな真っ赤なのが柿⁉」

「お前もいい加減に慣れろよな。あの庭は神様の台所だぞ」

「そうだよね。それより感情の名前を教えてよ」

「だから秘密だって」

「秘密にしなくたっていいじゃん」

「だから感情の名前が秘密なんだよ。ややこしいな」

 私たちが笑い合っていると、そのうちに茶碗の神様が帰って来た。


「あぁ、コヤネ。今日は早いね」

「うん。秘密の柿をちょっと食べちゃった」

「いいよ。秘密なんて美味しいの?」

 竹林の方から手ぶらで帰って来た神様は、気さくに笑い返してくれる。

 雑兎が神様に答える。

「めちゃくちゃ美味いぞ! シロップ舐めてるみたいに甘いんだ!」

 神様は店の看板や提灯、行燈に灯りをともしながら話を聞いている。

「ねぇ、神様。神様に名前はないの?」

「ある神と、ない神がいるよ。僕は付喪神だから名前はないんだ」

「じゃあ、何か名前つけてもいい?」

「僕に名前をくれるの? それは嬉しいな」

 神様は嬉しそうに私の隣に座る。

「ただ呼び名が欲しいだけだから。あんまり期待しないでよね?」

「うん。コヤネがくれる名なら何でもいいんだよ」

 私はススキ色の髪に緑の瞳、緑色の着物の神様を眺めながら考える。そして、こんな色使いの何かを見た事があるのを思い出した。

 しかし、それが何か思い出せない。代わりに亡くなったお祖父ちゃんの顔がちらつく。

「ケンはどう? 亡くなったお祖父ちゃんの名前なんだけど、神様を見てると何だかお祖父ちゃんを思い出すの」

「ふふっ。いいね。ありがとう」

 くすくすと笑い出した神様が、どういう訳かとても懐かしい顔をしている気がした。

「あ! お客さんが来るよ。今日も仮面をつけておこう」

 神様は言いながら私の顔を撫でるようにして他人の仮面をつける。

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