第56話 荒ぶる猪

 ヴォルフ達が出立して、更に一日が経過していた。莱香はそわそわと落ち着かない気持ちのまま、ただ無為に過ごしていた。屋敷から脱走する事も考えたが、住人の進化種達に見つからずに街を出る事は不可能だろう。見つかったら、それこそクリスタが危惧していたような目に遭いかねない。


 また仮に街を出れた所で、土地勘もなく、何の備えもない彼女が、一人で舜の居場所を探し出してそこまで辿り着く事など、更に不可能である。間違いなく荒野でのたれ死ぬか、魔獣の餌だ。

 結果、莱香はもどかしさに身を焦がしながら、こうしてただ待っている他に無かった。





 そんな中、丁度昼に差し掛かった頃だろうか、部屋にいた莱香は、階下が何やら騒がしい事に気付いた。ヴォルフが帰ってきたのだろうか。だとすると予定より随分早い事になる。任務を予定より早く切り上げる理由。それは……目的を達成したから。


(まさか……舜が!? そんな……嘘でしょ!?)


 最悪の想像に動揺した莱香は、殆ど条件反射のような勢いで部屋から飛び出し、騒ぎのする1階に向かって駆け下りた。……結果としてそれは悪手であった。



「え…………」



 玄関ホールへの階段を駆け下りていた莱香は、そこでクリスタ達と押し問答・・・・していた進化種と目が合った。それは、ヴォルフでは無かった・・・・・・・・・・


「ッ! ライカさん! 部屋へ戻りなさいっ!」


 進化種の視線を追ったクリスタは、莱香の姿を認めると慌てたように叫んだ。だが全てはもう手遅れだった。



「グ、フフフッ! 自分から出てきてくれるとはなぁ! やっぱり俺様はツイてるぜっ!」



 そう言って鼻息荒く笑ったのは……黒っぽい体毛のいのしし男であった。身長はヴォルフよりも大きい。恐らく3メートル近くありそうだ。縦だけでなく横の厚みも相当な物で、周囲にいるクリスタ達女性を5、6人は詰め込めそうな程の体積がある。腕の太さも尋常ではない。

 顔は正に猪そのもので、扁平な鼻に、下唇から武骨な2本の牙が大きく突き出していた。


「ひっ!?」


 その威圧感溢れる姿と、こちらを無遠慮に品定めするような視線に、莱香は震え上がる。それはヴォルフとは全く違う、相手の人格など一切無視した冷酷な……それでいて野蛮で野卑な視線であった。


 猪男が一歩踏み出す。クリスタ達が慌ててそれを押し留めようとする。


「アガース卿っ! ここはヴォルフ様のお屋敷です! 主人の許可なく上がり込む事は、如何に他の〈貴族〉の方であっても、許される事ではない筈ですっ!」


 アガースと呼ばれた猪男が煩わしそうに鼻を鳴らす。


「ちっ、ヴォルフの奴め……奴隷を甘やかし過ぎだろ……。うるせぇなぁ。今はもっと重要な事があんだろ? 〈天狼〉のヴォルフ伯爵様ともあろうお方が、正式な手続きも踏まずに新しい女を囲ってたなんてなぁ? それもどうやら異世界人と思しき女を、だ……」


「なっ……!?」


「何で知ってるかってか? クク……わざわざご注進に及んでくれた〈市民〉がいたんでな。ヴォルフのせいでお預けを喰ったのが、相当腹に据えかねてたらしいぜ?」


「……!」


「〈王〉は絶対関心を持つ筈だよなぁ? それを報告せずに隠してるなんて、下手すりゃ〈王〉に対する反逆と取られても仕方ないぜ?」


「くっ……」

 クリスタが悔しそうに唇を噛んで俯く。他のメイド達も同様だ。



「おらっ! 解ったらどけ!」

「きゃああっ!」



 アガースが羽虫でも追い払うように、その極太の腕を軽く一振りすると、それだけで女達はまるで木の葉のように吹き飛ばされていた。



「へへへ……さて、お嬢ちゃん。俺と一緒に王都まで……〈王〉の所に行こうぜ?」


「……ッ!」



 事態に付いていけず、場の雰囲気に呑まれていた莱香だが、アガースの目が再び自分に向いた事で本能的な恐怖から、上の階へ駆け戻ろうとした。すると――――




 ――ブオォォッ!




 最早物理的な圧力さえ伴う「何か」が、フロア中を駆け巡った。それは一階は勿論、比較的上階に近い位置にいた莱香の元まで届いた。


「か……は……!?」


 まるで心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。苦しい。息が出来ない。その場に膝を着いてしまう莱香。



(な……なに……これ?)



 足腰にいくら力を込めても、全く立ち上がれない。力が入らない。


 莱香の足を止めたものの正体……それは純然たる殺気であった。アガースから放たれたそれは、莱香の根源的な恐怖を呼び起こし、彼女をいわゆる「腰が抜けた」状態にしてしまっていた。


 日本では実家が有名な剣道場であり、莱香自身も天賦の才と持て囃され、同世代では右に出る者がおらず、男性の高段位相手でも全く引けを取らない腕前であったが、そんなものは所詮技術だけのお遊びであったのだと思い知らされた。


 階段を軋ませながらアガースの巨体が近づいてくるが、恐怖に震える莱香は全く動く事が出来ない。



(い、いや……た、助けて……)



 そんな願いも空しく、豪腕が莱香を抱きすくめる。片手で抱きかかえるように莱香を持ち上げるアガース。



「ああっ! いやぁぁっ!」


「へへへ……背骨をへし折られたくなきゃ、大人しくしてろよ?」


「……ッ」


 恐怖から思わず暴れようとした莱香だが、その言葉に身を竦ませる。その言葉の実行は容易い事だろう。そもそも莱香がいくら暴れたところで振り解ける気は全くしなかった。


 大人しくなった莱香を抱えて、意気揚々と屋敷を後にしようとするアガースだが、その前にクリスタが両手を広げて立ち塞がる。




「……どけ」


「い、行かせません。ライカさんを……連れては行かせません!」


 例え〈貴族〉が相手でも絶対に引かない、という意思がそこにはあった。


「馬鹿がっ!」


 苛立ったアガースが、空いている方の拳を振り上げる。クリスタが吹き飛ばされる光景を想像して、莱香は目を瞑る。だが……



「ふっ!」



 横薙ぎにされた豪腕を素早く掻い潜ったクリスタは、アガースの軸足の膝関節目掛けて鋭い蹴りを放つ。



「ライカさんを……離しなさいっ!」

「おっ……」



 信じ難い事に、アガースの巨体が僅かだが揺らいだ。そこに間髪入れず今度は、莱香を抱えている腕の手首目掛けて全力の手刀を叩きこむ。しかし尋常でない太さの筋肉に阻まれ、莱香を取り落とさせるまでは行かなかった。


「くっ……!」


「ふんっ……!」


 再び振るわれる豪腕。クリスタは大きく飛び退って躱すと、徒手空拳で構えを取った。



「ク、クリスタさん……」



 昨日他のメイドから、クリスタが実は7年前までは、暗殺者を養成する組織のもとで育てられていたらしい、という話は聞いていた。ヴォルフに身請けされてからは、護身用としてヴォルフを相手にして、更にその技能に磨きをかけているのだという。


 この様子だと、その話は嘘では無さそうだ。



「奴隷の……女の分際で、〈貴族〉である俺様に手向かう気か?」


「私の主人はヴォルフ様だけです! 主人の意に沿わない事柄は全力で阻止しますっ!」



 気合を入れるように叫ぶと、クリスタは再びアガースに立ち向かう。まるで地面を這うかのように、腰を落とした体勢で肉薄する。


 アガースが、今度は打ち下ろすように拳を落としてくる。クリスタは最小限の動作でそれを躱すと、相手の脇を縫うようにして懐に入り込み、両手に構えた掌底を……アガースの股間に叩きつける!



「いっ……!」


 それを見た莱香は、思わず目を背けた。勿論莱香自身には想像できないが、知識として「そこ」が男の急所であるという事は知っていた。


 果たしてアガースの身体が一瞬硬直する。その隙に再び莱香の奪取を試みるクリスタ。だが、アガースの目に怒りの感情が宿る。


「貴様ぁっ!」


 その巨体からは考えられないような素早さで後方へ飛び退ると、空いている手に放電現象が発生する。


「……!!」

 それに気付いたクリスタが回避行動を取ろうとするが、それよりもアガースの手から放たれた電撃が彼女を直撃する方が早かった。




「うああぁぁああぁぁっ!」




 絶叫。そして糸が切れた人形のように倒れ伏すクリスタ。


「ク、クリスタさん……!?」


 その姿に、莱香は悲痛な声を上げる。他のメイド達がクリスタに駆け寄る。どうやら今の魔法は手加減されていたらしく、死んではいないようだが、完全に意識を失っていた。



「ふん、たかが女風情が生意気な……。本来なら無礼討ちする所だが、他の〈貴族〉の奴隷を勝手に殺す事は出来無ぇからな。ヴォルフに感謝しとけよ?」



 それだけ言い捨てると、アガースは莱香を抱えたまま屋敷を後にした。

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