光なんてなければいいのに

成井露丸

光なんてなければいいのに

(――怖いよう。――暗いよう。……誰か助けてよぅ)


 私は膝を抱えてしゃがみ込んでいた。

 突然、鍾乳洞の中を照らす電灯の明かりが消えたのだ。


 ゴツゴツした岩の間、コンクリートで整えられた足場の上でうずくまる。制服のスカートの中にひんやりとした温度が広がる。


 修学旅行の途中でやってきた鍾乳洞。踏み込んだ時からなんだか、暗くて、冷たくて、怖かった。でも親友の美奈みなに「大丈夫だって! 結衣ゆいは怖がりだなぁ〜」って言われたし、先生も「竹井さん、がんばって! 怖くなんてないから」と取り合ってくれなかった。


 真っ暗は怖い。別に発作が起きる訳でもないし、病気だってちゃんとお医者さんに診断された訳でもないんだけどね。

 でも、だからってこんな場所で停電になるだなんて!

 ついてないにも程がある。――やだ、暗いの怖い!


 初めから、もう、なんだか嫌な予感はしていたんだ。

 鍾乳洞に踏み込んだとたん、氷柱つららみたいに天井から垂れた岩の先から落ちた水滴が首筋に当たって「きゃっ!」てなったし。

 みんなに振り向かれて恥ずかしかった。

 

 洞窟の中には、説明が載せられた看板や、小さな展示があって、私は、ついつい真面目にそんな看板を読んでしまう。そうこうしている内に、気付けば一人になっていた。「あ、いけない」と、みんなのことを追いかけだした瞬間だった。

 鍾乳洞の中を照らしていた明かりが落ちたのだ。


(……みんなどこ? 寒いよう。美奈ぁ〜)


 知らない場所、暗闇の中、一人っきり。どうして良いか分からない。

 本当は大声で助けを呼びたいし、泣いてしまいたい。

 でも、中学二年にもなって、ただ暗くなっただけで泣き出すなんて、恥ずかしいし、きっと後でクラス中の――ううん、学年中の噂になってしまう。

 

「――怖いよう誰かぁ〜。……美奈ぁ〜。ううぅ〜。助けてよ……一上いちがみくん……」


 結局、絞り出したのは呟くような小さな声。

 親友の名前と、そしてずっと好きだった、男の子の名前。一上いちがみれんくん。

 暗闇と不安がちょっとした心の隙間を私に生んだ。

 誰にも言っていない秘密の名前が、音になって飛び出した。

 誰にも聞こえないだろうと、思い込んで。


 中学一年生の時から好きだった。でも、一上くんは親友の恋人。


 頭も良くて、背も高くて、中学一年生から生徒会の委員もやっている彼。

 一上蓮くんのことを好きになったのは、中学一年生の夏の始まりだった。

 日差しの下で彼を目にする度に、心臓が弾んでいった。


 だけど私が何も言えずにいる内に、この夏、美奈と一上くんが急接近したのだ。

 そして二人は恋人同士になってしまった。


 親友の恋人には手を出せない。

 だから、私は自分の想いにそっと蓋をしたのだ。

 まだ、誰にも言っていない。でも、消えてくれない想い。


 その時、自分の足元がボウっと光った。


「――誰? 呼んだ?」


 背後からの光がうずくまる私を照らす。

 驚いて返ると、バランスを崩して尻もちをついてしまった。


「痛たたっ……」

「――大丈夫?」


 痛みを堪えながら視線を上げると、そこにはライトを光らせながら、私のことを覗き込む少年がいた。


 それは一上蓮くんだった。

 私の好きな同級生。――そして、美奈の恋人。


「……一上くん?」

「――竹井さん?」


 スマートフォンのLEDライトを懐中電灯代わりに掲げた一上くんが、心配そうな表情を浮かべていた。小さな光が彼の表情を暗闇のなかでぼうっと照らす。

 私はその小さな光に見つけられて、頬が緩むのを感じる。


 小さくても明かりを得た安堵と、大好きな一上くんとが目の前にいる嬉しさが、一人っきりの私を真っ黒な世界から救い出した。


 でも、それと同時に心臓は締め付けられる。

 だって真っ暗な鍾乳洞の中、私は彼に手を伸ばすことさえ出来ないのだから。

 こんなに近くにいるのに。


 だけど暗闇の中で突然現れた小さな光は、私に何かを期待させる。

 ドラマチックな瞬間は新しい変化を期待させる。


「足元気をつけてね。竹井さん」

「う……うん」


 一上くんが一歩先を歩き、私はおずおずと付いていく。

 暗所恐怖症だから、一上くんが居ても、怖いものは怖い。

 「二人っきりで居る嬉しさと、真っ暗な中を歩く怖さのどちらが強いか?」って聞かれたら、「どっちもどっち」だよ。


 でも一上くんと二人でいることのドキドキと、暗闇の怖さのドキドキが、なんだか私の心臓で混ざり合う。よく分からない化学反応だ。


「でも、一上くん、……スマートフォンを懐中電灯代わりにするなんて、凄いね。――私、思いつかなかったよ〜」

「……え? いや……みんなやっていると思うけど?」

「……え?」

「あ……」

 

 しまったという顔をする一上くん。私は恥ずかしくなって俯いてしまう。

 そうだよね。スマートフォンのLEDライトを懐中電灯にするくらい、みんなしてるよね。なんで、私、思いつかなかったんだろう? 馬鹿だな〜。……馬鹿なんだけど。


「でも、仕方ないよ。竹井さん、暗所恐怖症なんでしょ? さっき会った時も、パニックになっていたみたいだし。僕が偶然、近くに居て良かったよ」


 一上くん、優しい。


「……パニックだったかな――私?」

「うん、パニックだったんじゃない? そうじゃないと、美奈はともかく、僕の名前を呼ぶなんて考えられないよね? 混乱しちゃっている証拠」

「――そっか、混乱してたんだぁ……」

「してたんじゃない?」

「そう? ……でも、嬉しかった。ありがとう……一上くん」

「どういたしまして。竹井さんは僕の数少ない女友達だし、なんてったって、美奈の親友だからね。僕も竹井さんのピンチを救えて良かったよ」


 そう言って立ち止まると、振り返り一上くんは、はにかむように微笑んだ。


 二人っきりの鍾乳洞の暗闇の中、スマートフォンのライトがぼうっと光る。

 その小さな光は、彼と私だけを照らしている。

 二人っきりの世界。小さな光が創り出す、仮初の時間。


 胸が、傷んだ。


「行こうか?」

「……うん」


 私は足元の濡れた岩を踏みしめて一歩進む。

 仮初の時間かもしれない。

 鍾乳洞を出たら、また、私は一人になる。

 美奈や一上くんや友達に囲まれて、また一人になるのだろう。


「……あのね、一上くん」


 歩きながら、前を行く彼に声を掛ける。


「何? 竹井さん」

「……美奈とは、上手くいっている?」

「え〜、いきなりだなぁ。鍾乳洞の暗闇の中で、恋バナこいばなって。ホテルで寝る前のトークじゃないんだから。……ていうか、竹井さんも、やっぱりそういう話題好きなんだ?」

「うん。私だって女子なんだよ? 興味はあるし、それに、美奈は親友だしね。ちゃんと、大切にしてもらえているのかな〜って。ちょっと気になって」

「そっか。そうだよね。うん。順調だよ。ご心配いただきありがとうございます」

「……別に心配ってわけじゃないけど。ま、順調ならよろしい」

「ははは。ありがとうございます」


 おどけたように、一上くんは頭を一つ下げた。


「竹井さんと美奈は本当に仲が良いよね」

「うん、親友だからね〜」

「親友かぁ。女の子同士の友情ってなんだか良いよね」

「そうかな? でも、だから美奈のこと泣かせたりしたら承知しないんだからね」

「肝に銘じておきます」


 神妙な顔でそう言うと、一上くんは可笑しそうに笑った。私も笑った。

 演技みたいに冗談めかした会話。そこに潜ませた和やかさ自体が演技なのに、一上くんはそれに気づかない。

 ――ううん、気付かなでいてくれて良いのだ。


 私はそんなずる賢い女になりたい訳じゃない。


「きゃっ!」


 その時、小さな岩に躓いて、突然、私は体勢を崩す。


「竹井さん、大丈夫っ?」

「……う、うん」


 倒れそうになった私を、一上くんが間一髪のところで支えてくれた。

 暗がりの中、私の額は一上くんの胸に収まっている。

 思わずしがみついた両手は彼の背中。私を支える一上くんの腕は私の後ろに回っていた。彼の手のひらが背中に触れる。

 ――まるで恋人が抱き合うような格好。


「……だ、大丈夫……だからっ」


 思わず、一上くんの胸を押して、身体を引き離す。

 本当はずっと抱き合っていたかったけれど。


「あっ、ごっ、ごめん」


 今更、状況に気づいたのか、一上くんが両手を離した。


「きゃっ!」


 突然、支えを失った私の身体は、また、バランスを崩した。


「おっと」


 間一髪で伸ばされた一上くんの右手が、私の腕を掴む。


「……大丈夫?」

「うん……平気。――ありがとう」


 右腕を引かれて、彼と向かい合った私の目と鼻の先に、一上くんの顔。

 「良かった」と言って「ハァ〜」と吐く彼の安堵の溜息が、私の額に温かく掛かった。

 掴まれた右手。引かれた力は、男の人のものだった。

 一上くんは運動部でもなくて、見た目は筋肉質でもないんだけれど、それでも、やっぱり男の人なんだなぁ、ってちょっと思った。


「やっぱり、暗いし、足元悪いよね」

「う……うん。そうだね」


 まだ一上くんの右手は私の腕を捕まえている。

 その繋がった部分を、彼はそっと持ち上げる。


「明るいところに出るまでさ、手、繋いで行こうか?」


 心配そうな表情で、私のことを覗き込む彼。一瞬の沈黙。


「――あ、もちろん、竹井さんが、嫌じゃなかったらだけど?」

「ううん! 嫌じゃない! 嫌じゃないよ! 繋いでいこう。うん、繋いでいこう!」


 食い気味の返事。 ――あ、ちょっと、やっちゃった感?


 一上くんは少し驚いたように目を開いて「そ……そう?」と言うので、私は恥ずかしくなりながらも「う……うん」と頷いた。


「じゃあ。――はい」


 一度、私の右腕を離し、あらためて一上くんが,左手のひらを差し出した。


 それはまるで、物語の中で舞踏会で、王子様がお姫様を踊りへ誘うような、そんな仕草。


 朧気おぼろげなスマートフォンの光の中で、彼の手のひらにそっと自分の右手のひらを乗せた。私の右手を握る彼の左手。その指は、思っていたよりゴツゴツしていて、力強くて、でも、なんだか温かかった。


 それは、すぐに消えてしまいそうなLEDの小さな光の中での出来事。


「行こうか?」

「――うん」


 そんな小さな明かりに包まれて、私たちは鍾乳洞の中を、出口に向けてまた歩きだした。手を繋ぎながら。


 もう暗闇の不安も、一人きりの孤独も無かった。

 でも、私の心臓は勢い良く拍動を始めていた。その拍動は心地よくて、私の頬を上気させる。全身が温かい。今だけの熱が、私を包み込む。


「もうすぐゴールだと思うよ」

「そっか。……まだ、鍾乳洞の中の明かりは戻らないみたいだね?」

「だね。スマートフォンのバッテリーが持って良かったよ」

「そうだね。私は、一上くんに見つけてもらえて――良かったよ」


 本当は、まだ、鍾乳洞の出口に辿り着いて欲しくなんてない。

 右手から伝わる一上くんの体温をいつまでも感じていたい。


 胸のドキドキは少しずつ少しずつ加速している。

 小さな光の中で、触れた彼の左手から、私の中に何かが入ってきて、化学反応は始まっていた。それは、もう止まらない加速。何かの融合と、何かの崩壊と、何かの放出が、熱を伴って私の中でうねり始めている。もう止まらない。


 だから、少しだけ、右手に力を入れて、彼の手を強く握る。でも、彼に気付かれない程度の力で。私は、もう、きっと、止まれないから。でも、それは伝えられなくて――


「ねえ、一上くん?」

「――何?」

「もし、……もしだよ? 一上くんと、美奈が、喧嘩しちゃったりしてね、……その、別れるようなことがあっても――」

「……あっても?」

「うん。もし、万が一、そういうことがあったとしても、一上くんは私と……友達で居続けてくれるかな?」


 立ち止まる。そして、一上くんは振り返って、微笑む。「馬鹿だなぁ」って。


 彼の左手と私の右手は重なったまま、小さな光の中で二人を繋いている。


「竹井さんと僕はもう友達でしょ? 万が一、美奈と別れてもそれは変わらないよ。何を心配しているのか知らないけどさ。そんな心配しなくていいからね?」


 一上くんの持つ右手のスマートフォンから放たれるLEDの光が、少し弱まった気がした。そこで、ふと気づく。LEDの光が弱まったんじゃない。周りが少しずつ明るくなってきているのだと。


「でも、竹井さん。その質問、一つだけ前提が間違っているからね」

「……前提?」

「うん。僕と美奈が別れたらってところ――」


 光が射し込む。彼の背中には鍾乳洞の出口があった。

 そこから広がる外の世界の光が、私たちをの周囲を少しずつ明るくして、スマートフォンの小さな光を、かき消していく。


「僕と美奈は別れないから。こんなこと言うのは恥ずかしいし……、竹井さんが美奈の親友だから言うんだけどさ。僕、美奈のことが本当に好きなんだ。それに、美奈といると落ち着くんだ。中学生の恋愛だって大人は本気にしないかもしれないけどさ。こういう気持ちって、ずっと続くと思うんだ」


 そう言うと一上くんは、「恥ずかしいから、美奈や、他の友達には秘密だよ」と悪戯っぽく微笑んだ。


『あっ、蓮だっ! あれ? 結衣も一緒なの?』

 

 鍾乳洞の出口の方で声がする。美奈の声だ。


 外の世界の大きな光を背に、浮かび上がる少女のシルエット。

 性格も良くて、元気で、今は生徒会役員までやっている私の自慢の親友。


「――じゃあ、行こうか?」


 繋いだ手を少しだけ持ち上げて、一上くんが――そっと離した。

 私の手は宙に浮かび、無骨な彼の温もりは私の肌から失われていく。 


「――うん」


 スマートフォンの画面をタップして、彼は小さな光をあっさりと消す。

 そして一上くんは、私に背を向けると地面を蹴り、リズムよく歩き出した。

 私と二人で歩いていた時よりも、ずっと軽やかな足取りで。


 その背中を見つめる。きっと私は今も優しい笑顔を浮かべている。

 笑顔は幸せを表しているわけじゃない。もし、これが嘘の表情だと言うのなら、じゃあ、他にどんな表情をすれば良いというのだろう? ――教えてよ。


 小さな光は消えても、胸の鼓動は加速したまま、止まらない。

 大きな光が洞窟の向こうで輝いている。


 私はそっと離された右手のひらを、自分の心臓に押し当てる。


 ――ドクッ、ドクッ、ドクッ


 きっともうこの鼓動は止められない。

 ずっと、抑えてきた想いだったのに。

 LEDの小さな光が、変えてしまった。

 私の恋を、動き出させてしまった。


 でも、私は美奈を裏切ることなんてできない。親友だから。大好きだから。

 でも、私は一上くんを嫌いになんてなれない。友達だから。大好きだから。


 やがて、一上くんが、大きな光の中へと包まれる。

 そしてシルエット。美奈の隣で、綺麗な二人のシルエット。


 振り返った二人が、私に手を振る。


『結衣〜! はやく、はやく〜!』

『もう、大丈夫だぞ〜! 明るいぞ〜!』


 視界の向こうで、二人が寄り添う。

 それは光の中で輝く二輪の花のようで。私はそれを眺めるだけで。


 私にはどうすることもできない。


 それなら、


 あぁ、光なんてなければいいのに――

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