夫婦は話し合わないといけないんです

 青空そらがレギン城から出て行った。

 彼女の気配が城から遠ざかったとき、ハディルはいよいよこの時が来たか、と自嘲した。青空が手元から逃げてしまう。


(だが……それでもよい。昔会った人間も、俺のことを恨んでいた。なにを、今更怖がることがある)


 青空の前に出会った異世界の人間の男。彼はハディルが原因でこの世界に召喚ばれたことについて遺恨を抱きながら死んでいった。

 逃げたはずの青空だったがなぜだかレギン城に帰ってきた。彼女の居場所は彼女の身に入れたハディル自身の魔力のおかげで容易に知ることができる。


 レギン城に帰ってきた青空に安堵した。不思議なものだ。青空が出て行くのは当然だと考えるのに、いざ彼女の気配が遠ざかると手放したくないという衝動に駆られる。


 彼女が帰ってきたのは今青空の居場所がレギン城にしか無いというだけで、もしも彼女が本当の居場所を知ってしまったら。彼女は本当にハディルから離れていくかもしれない。いや、そうだろう。ハディルは青空の笑顔を思い浮かべた。ハディルを見つめる優しい視線もなにもかも、もう己に向けられることはないのだ。


 毎日同じようなことばかり考え、朝と昼と夜を繰り返す。

 その日は夜になると、なにやら香しい香りが部屋の中に漂ってきた。


 青空の作る菓子の香りだ。香ばしい、菓子が焼ける匂い。ひどく懐かしい。

 青空が菓子をつくっているのだろう。

 彼女は本当に楽しそうに料理をする。厨房にいるときの青空は溌溂としている。


 青空に会いたい。湧いて出たのはごく自然な己の心のうち。素直な感情だった。

 青空に会うのが怖い。しかし、一目彼女に会いたい。


 どうしてそんな矛盾を感じるのだろう。

 気が付くと、ハディルは部屋の扉を開いていた。


◇◆◇


 城に戻ってきた青空はパンケーキを焼くことにした。

 魔石は便利だなと思う。何しろこれさえあれば上にフライパンを敷いてどこででも料理ができるから。火事の心配もない。


 青空はハディルが閉じこもっている部屋の前でフライパンと魔石を準備してパンケーキを焼いていた。


 日本の神話でもあったではないか。閉じこもってしまった太陽の神様を呼び戻すために、岩戸の前で宴会を開く。そうするとにぎやかな声に引き寄せられて神様は扉を開いて出てきた、というあれだ。


 青空はパンケーキの焼ける匂いでハディルをおびき出すことにした。パンケーキの焼ける匂いだと弱いかな、とヒルデガルトに相談すると彼女は魔法の扇を貸してくれた。なんでも仰いだものの香りを十割増しに増幅する代物らしい。昔、とある魔族に嫌がらせをするために作ったそうだ。臭い香りのする何かを仲たがいをした魔族に向けて仰いだらしい。ルシンが視線を遠くにして「ああ、あの事件ね」と言っていた。


 そんなわけで仰いでみるとたしかにパンケーキの焼けるよい匂いがあたりに充満した。青空のお腹もグーグー鳴った。美味しさ大爆発な香りに青空の方の理性がぶっ飛びそうになる。主につまみ食いをするかどうかという点で。


(は、早く出てきて~。でないとわたしのほうが持たない……。た、食べたい。このパンケーキ)


 じっくり焼いているのはスフレパンケーキ。砂糖を数回に分けて混ぜたメレンゲはしっかりとつのがたち、それを小麦粉とさっくり混ぜるのだ。生地自体もこんもりふわりとしている。これを時間をかけてじっくりゆっくり焼いていく。

 ヒルデガルトに披露したら彼女はとてつもなく感激してくれた。ふわしゅるな食感がたまらないと何度もお代わりを要求してきたくらいだ。

 裏返してこんがり焼き色のついたパンケーキの表面の破壊力抜群な光景に青空のお腹がきゅるきゅると鳴る。


(うううぅ……晩御飯、ちゃんと食べたのに……)


 ずいぶんと食い意地が張っている。こんなのハディルに聞かせられない、と思ったのと扉が開いたのは同時だった。


 かちゃり、と扉が開いた。

 ハディルが出てきたのだ。


「!」


 ハディルは部屋の前で焼かれているパンケーキを見下ろしている。不可思議な光景だと思っているのだろう。厨房ではないところでお菓子が作られているのだから。


 青空は立ち上がり、ぱっとハディルの腕に掴まった。

 それから、羽織っていた布を取り払う。


「青空……?」

「捕まえました。ハディル様!」

 青空はぎゅっと彼の腕にしがみつく。

「ヒルデガルトの魔法具か」


 ハディルが苦い声を出した。青空は少しだけ傷ついた。彼の声色の中に、青空を拒絶するような色があったから。けれども、青空は気が付かない振りをする。絶対に腕を振りほどかないと心に誓う。


「はい。そうです。ヒルデに一計を案じてもらいました。彼女、すごいですね。いろんな魔法グッツを出してきて。実はこの世界のド〇えもんではないかと思ったりもします」

「なんだその、ドラなんとかというものは」

「いえいえ。こっちの話です。って違います。ハディル様、話がしたいんです」


 青空はしっかりと彼の目を見た。青空の知るハディルがそこにいた。深紅の瞳は深い森の清流の流れのように静かで。ヘルミネを殺そうとしたときの激情の欠片も見られない。


 どちらも彼が持っている、ハディルの性質。

 青空は目を逸らすことなくハディルの瞳を見つめた。


「好きにしろ」

 ぼそりと小さく呟やかれたその言葉の真意まではわからない。

「ありがとうございます。ハディル様」

 青空はほっと息を吐いた。


「せっかくですからパンケーキも食べてください。焼きたては特に美味しいんです」


 青空はちょうどよく焼きあがったパンケーキを準備してきたお皿の上に乗せて、彼のいる部屋へと入った。

 部屋の中は暗かったが、ハディルがすぐに魔法で明かりを灯してくれた。


 青空はハディルのためのパンケーキを彼に渡した。廊下での調理ということもあり、あまり手の込んだ盛りつけはできないためシロップのみをかけた。このシロップもこの世界に自生する樹から採れたものだ。


 ハディルは手渡されたそれをじっくりと観察する。その後一口口の中へ。青空は息をつめて彼の様子を見守った。

 もきゅもきゅと咀嚼をしてごくりと飲み飲んだハディルは一言、「不思議な食感だ」と言った。


「……美味しいですか?」


 ハディルはこくりと頷いた。それからもう一口、さらにもう一口と手と口を休めることなくせっせとパンケーキを攻略していく。青空は幸せな気分でハディルの食べる様を見守る。


 やっぱり、こうして美味しそうに食べてくれるのを見ると嬉しくなる。もちろんヒルデガルトやルシン、ヒーラーやディーターたちがぱくぱくとお菓子を食べてくれるのも嬉しいのだけれど。ハディルが一心にお菓子を食べるのを眺めていると胸の奥がむずむずとしてくる。


「わたし、ハディル様が美味しそうに食べてくれるのが一番好きみたいです」


 気が付くとそう漏らしていた。

 ハディルは手を止めた。

 ちょうど最後の一口が彼の口の中に収まったところだった。


 食べ終わったハディルは、居心地が悪そうに青空から視線を離した。

 青空は目の前のハディルと話をしたいと思った。正直に言うと青空はまだハディルの置かれている立場というものがどういうものか分からない。


 けれども青空はハディルのことを知りたいと思った。きちんと話をしないといけないことだけは感じている。これからもハディルの側にいるために。


「お礼、言うのが遅くなりました。先日は、殺されそうになっていたところを助けてくれてありがとうございました」

「……」


 ハディルは無言のまま。

 青空はハディルの手に、そっと腕を伸ばす。自分から男性の手に触れようとするのは初めてだった。


「……無理に触れようとするな」

 拒絶の言葉に青空の心が委縮しそうになる。それでも、青空はハディルに会いたかった。青空は体中から勇気をかき集めた。


「あのときは、せっかく助けに来てくれたのに怖がってしまってごめんなさい」

「気にするな。俺は魔王だ。魔王の本質を間近で見たんだ。怖がるのが普通だ」

「でも」

「俺にはもうかまうな」


 ハディルは冷たく青空を拒絶する。こちら側には入ってくるなと壁を作った。

 青空は黙り込む。固い声に泣きたくなる。もともと人と争うことは苦手なたちだった。いつもクラスの中では大多数の意見に従って生きてきた。


「……嫌です」

 青空は小さな声で反論した。


「ハディル様は……酷いです。わたしのこと勝手に妻にしたり。同じベッドで寝ろとか言ったりしたくせに。今度は自分から手を離すなんて」

「俺は……ザイフェルト家の当主を殺した。この手で」


 ハディルの告白に青空は息を呑む。

 ハディルの深紅の瞳が灯りに揺らめく。青空は何を言っていいのか分からなくなる。


「それでも、俺の側にいるというのか? おまえは、俺が怖いのだろう?」

「それは……」


 青空の常識とはかけ離れた世界。平和な世界で生きてきたのですね、とディーターに言われた。


「俺の中には混沌の力が宿っている。俺の中で、原初の力は荒れ狂う。目の前のものを破壊しろ、と俺の中に語り掛けてくる。俺は、青空を傷つけるのが怖い。青空が俺の前で笑ってくれなくなると考えたら、怖くなった」


 だからもう、俺の前には姿を見せるな、とハディルは囁いた。

 青空は目の前の男のことで苦しくなった。なぜだか分からないけれど、胸の奥が痛い。しくしくと痛む。


「嫌です。わたし、ハディル様ともっとちゃんと分かり合いたいって思ったんです」

 青空は叫んだ。


「確かにこの世界の常識とわたしの世界の常識はかけ離れています。国の制度とか、魔族と人間とか。まるきり違います。正直、ハディル様のことも怖く感じました。だけど……わたしは……ハディル様のことを知っていきたいんです。怖いって思ったけど、だからもっとハディル様のことを知りたいって思いました」


 青空は涙ぐむ。勝手に雫が瞳に盛り上がる。いまここで彼と話をしなければ永久にハディルとはお別れだと思った。自分の考えなんてぐちゃぐちゃでちっともまとまらない。それでも話をしないといけないと、それだけは分かる。


「ハディル様が言ったんじゃないですか。わたしのこと妻だって。それなのに、勝手に捨てないでください。魔王様なら言ったことをちゃんと守ってください」

 青空はポケットからあるものを取り出した。


「わたし、今日街へ行ってきました。これを買いたくて。ディーターさんにお金貸してくださいって頼んだら、砂糖の事業でこれから儲かりますから正当な報酬ですってお小遣いくれて」


 青空は立ち上がりハディルの隣に座った。そして手に持ったものをハディルに託した。


「わたしの世界では結婚するときに指輪を交換するんです。正直わたしたちの結婚っておままごとのようなもので、わたしはハディル様のことまだよくわからないけれど。それでも、わたしハディル様に向き合いたいなって思って。わたしなりに考えた結果がこの指輪です」


 ハディルは白銀の指輪を持ち上げる。

 ハディルは青空の言葉になにも返さない。青空は続ける。


「夫婦は話し合わないといけないんです。勝手に見切りをつけて逃げ回るのは駄目です。わたしも……ハディル様のこと、ちゃんとわかっていきたいです。だって、ハディル様がわたしを……その。妻に選んだのでしょう?」


 自分から妻ということに青空はまだ照れてしまう。けれど、ハディルが言ったのではないか。夫婦とは共に寝るものだとかいろいろと。その前に夫婦は互いのことを知って、きちんと話さないといけないのだ。その意味も込めて青空は妻という言葉に力を願いを込める。


「俺のこと、まだ夫だと思ってくれているのか?」

 長い沈黙の末、ハディルが静かな声を出す。


「そういうふうに面と向かって言われると……照れてしまうので。こういうときは戦友といいますか、友人といいますか……まずはお友達から、ということで」


 青空はゆっくりとハディルへ腕を伸ばす。

 それから恐る恐るハディルの頬に指を添えた。男性に、それも頬に触れるのなんて生れて初めてのことで。


「……青空?」

「お願いです。わたしのことを、拒絶しないでください」


 青空はゆっくりとハディルに近づき、それから母親が子供にするように彼の頭を自身へと引き寄せた。

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