ハディルの幸福論
静寂支配をする深い闇の中。
ハディルが窓の内側から星を眺めていると、部屋へと侵入してくる者があった。
「相変わらず辛気臭い顔をしておるのう」
年齢と口調が相変わらず合っていない、居丈高な物言いをする子供は人に許可も得ず、ずんずんと部屋の中へと入ってくる。
「青空がずいぶんと落ち込んでおるぞ。ぬしが青空の作った菓子を食べぬからじゃ」
そう言う彼女は手に皿を持っていた。そして皿の上の菓子をフォークで切ってぱくぱくと口の中に運び入れる。
光も無い部屋だというのにヒルデガルトは器用に物を食べる。外からうっすら差し込む星々の瞬きの明かりで十分事足りるからだ。
「おまえには関係ないだろう」
ハディルはようやく口を開いた。
それにしても珍妙な菓子だと思う。円くて分厚いパンのようなものが二枚皿の上に乗っている。とても柔らかいものなのか、上からの圧力で下の菓子がつぶれている。そして上のパンのようなものは湿っている。液体をかけたのだろう。横にはずいぶんと固そうなクリームがどんと摘みあがっている。ハディルの知るクリームはもっととろとろとしているものだが。
ハディルが己の手元をじっと見ていることに気が付いたヒルデガルトは得意そうに胸を張った。
「よいじゃろう。今日も青空に作ってもらったのじゃ。パンケーキという名の菓子なのじゃ。青空の世界ではよりふわっふわとろっとろに作るのが流行しているらしいのじゃ。このクリームは牛乳の成分を我が分離させて作り上げたのじゃ。青空から頼まれての。青空の説明を的確に理解し分析して実行して見せた我の手柄なのじゃ。青空はとても喜んでおった。生クリームというらしいのう。パンケーキに蜜をかけて生クリームと食べると格別なのじゃ。今日作ってもらったものを魔法で現状保管したから時間が経ったいまも作りたてのふわふわ加減がそのまま残っておるのじゃ」
ヒルデガルトは聞いてもいないのにぺらぺらとよく喋った。
彼女の言葉から青空は変わらず元気に菓子作りをしているらしいことが伝わってきた。
それならよかったと思う。
「ぬしは元気がないのう。我がせっかく砂糖を完成させたというのに。これからも青空の作った菓子を食せるのじゃそ」
「俺は元気だ」
「ザイフェルト家の当主を処分したらしいな」
ヒルデガルトの声が一段低くなる。
「魔王に歯向かった者がどうなるか示したまでだ」
「六家の者たちは調子に乗っておった。馬鹿な奴らじゃ。本当の一線を越えるとは」
ヒルデガルトが吐き捨てる。
「それで、何をしに来た?」
「青空の元気がない」
「俺が本性を見せたからだ。青空は……俺のことを怖がっている。もしかしたら魔王と同じ城で暮らすのも厭わしいのかもしれない」
ハディルは自嘲気味に口の端を持ち上げた。彼女の前で魔王の本性をさらけ出した。己の中に眠る魔王の性質。残忍で人を殺すことを躊躇わない、恐ろしい一面を。
己の腕の中に取り戻した青空が、あの少女がはっきりとハディルへの恐怖を示したとき。彼の中で得も知れぬ感情が芽生えた。あのとき、はっきりと怖いと思ったのだ。青空から拒絶されることが。ハディルを見つめるまなざしに恐怖の色が浮かんだことを悟ったとき、ハディルは己の心がきしむのを感じ取った。
それは初めての感覚だった。
これまでハディルは魔王だからと他の生き物から畏怖の対象とみられることに何も思うことは無かった。いや、魔王の称号を受け継いだ瞬間から諦観した。そのようなものだ、と。この世界の生き物が魔王にひれ伏し、畏怖の念を覚えるのは当たり前のことなのだ、と。
「青空は別にレギン城から出て行こうとは思っておらぬが」
ヒルデガルトは小さく首をかしげる。
「そんなことを伝えるためだけに来たのか?」
「青空の作った菓子を自慢するためじゃ」
彼女もまた、青空の作った菓子をとても気に入っている。基本的に人のことを上から目線で見下しまくっているヒルデガルトだが、青空には一定の敬意をもって接している。きちんと名を呼ぶのがその証拠。
ヒルデガルトは嬉々としてしゃべり始める。
「我も忙しくなるのう。砂糖を安定供給するために、一族の力を借りようと思うのじゃ。ちゃっかり金髪男までこの計画に乗ってきおった。頭の中で金勘定をしているのじゃろう」
ディーターは六家であるフォルト家の出身だ。フォルト家は代々商才に長けた者が多い。そのせいかフォルト家は人間と付き合うことを厭わない者も多い。そんな一族の出であるディーターは砂糖の可能性に商機を見出した。
「勝手にすればいいだろう」
ハディルはそっぽを向いた。
「我は砂糖をつくるついでに世界中を回ってきてやったのじゃぞ。それについて礼はないのか?」
ヒルデガルトの口調が変わった。
「……」
「案の定、人間側の国はざわついておったぞ。特にリュデンシュベル辺りが」
世界中を回ってきた、と言う割に出た国名が隣国だった。
ヒルデガルトは青空の手製のパンケーキをすっかり食べ終わる。満足そうに頬を緩めて、それから一拍後。彼女は元の無の表情に戻った。
「青空のことを探しておるのじゃろう。ぬしが横取りをしたからのう」
「俺は……青空になら殺されてもいい」
ハディルは相変わらずそっぽを向いたまま答えた。
その声は酷く単調なものだった。彼女が魔王という存在を厭うのなら、消されても良いかと考えた。自然と口に出た言葉に、ひどく驚いたのはハディル自身。けれど口にしてみればそれはとてもよい案に思えた。
「たわけ、が」
後ろからさきほどよりもさらに低い声が聞こえた。
この部屋にいるのは二人のみ。しわがれた老婆のような声を出したのはヒルデガルトだった。
「簡単に言うでない。ぬしが死ねば均衡が崩れる。そうなれば世界の秩序が乱れる。ぬしは魔王じゃ。魔王がこれ以上欠けるのはならぬ」
ヒルデガルトはハディルを叱責する。
「よいか、すでに我らは原初の混沌の力の一部を失っておる。光と闇の均衡をこれ以上傾けさせるのはよくはないことくらい、ぬしにだって分かっておるじゃろう。もうすこししっかり魔王をやるのじゃ」
ヒルデガルトは言いたいことだけ言って部屋から出て行った。
ハディルは再び空を見上げた。星が瞬いている。きれいな夜だった。この空をきれいだと言ったのは青空だった。ハディルは何も感じないただの景色を、彼女が特別なものに変えた。
不思議だった。青空が笑うと世界が優しくなった気がした。長い長い生が厭わしかったのに、明日が待ち遠しくなった。青空が眠っていると早く起きてほしいと願うようになった。ふにゃふにゃと頬を動かす寝顔をずっと見ていたいと思う反面、早く起きてハディルと名を呼んでほしくなる。
彼女と接していると胸の奥に何かが生まれた。不確かなものは気持ちが悪いはずなのに、名前も分からない不可思議な感情がまったく苦にならない。
しかし、それももう過ぎたこと。
ハディルはこれ以上彼女から拒絶されるのが怖かった。彼女と顔を合わせることを恐れている。それなのに彼女の作った菓子がひどく恋しい。青空はハディルが菓子を食べている様子をただ眺めては楽しそうに微笑んでいる。青空に見守られながらものを食べるのは悪くはなかった。むしろ幸福ですらあった。
ハディルは今しがた考えた自身の思いにびっくりした。
幸福だと感じたのは、おそらく生れて初めてだったからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます