黒竜が暴走しました

 若干雲の多い、けれども昨日と大して変わらない日の昼下がり。

 男の職場である黒竜の飼育場に黒い髪の少女が今日もやってきた。彼女はこの世界に三人存在する偉大な魔王の内の一人、ハディルの妃の座に収まった異世界からやってきた娘。彼女の後ろには一角族の女性がしずしずと付き従っている。


「こんにちは。今日もよろしくお願いします」


 魔王の妃、青空は一介の黒竜の飼育員である男にも丁寧な態度を崩さない。

 男は慌てて敬礼をした。

 青空は持っていたバスケットを男へ差し出す。


「これ。差し入れです。飼育係の皆さんで食べてください。今日も色々と作り過ぎちゃったので」


 おずおずと差し出されたのはキッシュとかいう異国の料理。


 お妃さまは手ずから調理をする一風変わったお人なのだ。オランシュ=ティーエという国にも身分というものは存在する。魔王の妃ともあろう最高位の女性が厨房に立つとはすごい世の中になったものだ、と男は遠くへ思いを馳せた。


 馳せていると正面から「ごぉぉっほん」という大きすぎる咳払いが聞こえた。銀髪侍女に扮した一角族の女が発したのだ。


 男は慌てて「ありがとうございます!」と返した。ちなみに今日を入れて三回目の差し入れでもある。


「お口に合えばいいのですが。今日は、昨日とはまたちがうハーブを混ぜてみまして。あと、具材も今日はお魚にしてみました」

「さ、さようでございますか」


 キッシュというのはさっくりしたパンのお仲間のような土台の中に野菜やら肉が卵と牛乳を混ぜて固めたものの中に入っている食べ物だ。薄いパンに具材を包んで竈で焼く料理の、包んでいる部分が無いような食べ物で男は好きな味だ。パンよりもさっくりしたバターの風味のきいている生地もよい。同僚たちにもおおむね好評な食べ物だ。


 男が青空から本日の差し入れを受け取っている最中、柵の中ではおはぎがしゅぱっと飛んできて、きっちりお座りをして待機をしていた。


「あ、おはぎ。今日もよろしくね」

 青空がにっこり笑うとおはぎはこくこくと大きく頷いた。

「今日は昨日よりも高く飛んで大丈夫だよ」

 別の飼育係が鞍を取り付け、青空はおはぎにまたがる。


 ようするに、ここ数日と変わらない日常だったのだ。

 そのときまでは。


 青空がおはぎの背にまたがり、おはぎがふわりと羽を動かす。

 まだ黒竜乗りに慣れない青空を驚かせないようにおはぎはゆっくりと飛び立つ。ヒーラーは下から主の黒竜乗りを見守っている。今日もいつものように「青空様、頑張ってください」と出発時に声を掛けていた。


 青空を乗せたおはぎが徐々に高度をあげていく。


 そうして。

 突如おはぎは高速で空高く舞い上がった。否、駆けあがった。


 それは一瞬の出来事だった。

 他の黒竜たちも、国境の見張りで留守にしている竜たちを除いた、この場で羽を休めていた黒竜たちが一斉に飛び立った。


 空高い場所から青空のものと思わしき悲鳴が聞こえた。


「青空様ぁぁぁぁ!」


 ヒーラーが絶叫する。

 男も泡を吹いた。


 まずい。何かが起こった。黒竜が暴走をした。この城で飼われている黒竜は皆魔王ハディルに恭順を示した個体ばかり。滅多なことでは反旗を翻さない。彼らは己の意思で魔王のおわすレギン城に留まっている。誇り高い彼らのため逃亡防止の結界などは張っていないのだ。その黒竜が突如飛び去った。その背には魔王の妃、青空を乗せて。


「た、大変だ……」


 男は顔を真っ青に染めて、一目散に駆け出した。


◇◆◇


 同じころハディルは魔王の間にて老人の相手をさせられていた。

 相手はオランシュ=ティーエの有力貴族六家が一つ、ザイフェルト家の当主。元は金髪だった髪の毛は加齢のせいか色あせて、顔には皺が刻み込まれている。この世界の一般的な人型魔族である、人魔族の寿命は約四百五十から五百年ほど。彼も現在四百年を多少超えた年齢。世間では立派に年を成したご老体なのだが、五百を超えたハディルにしてみればただの年下男だ。魔王の力を受け継いだせいで外見にあまり変化が見られなくなったハディルであるがそれなりの年月を生きているのだ。


「陛下、妃が欲しいのならうちのヘルミネでよろしいでございませんか」

 今日も今日とてこの男は同じ文言を繰り返す。

「うるさい女はきらいだ」

 ハディルは素っ気なく返した。


 面倒な老人に付き合ってやるのも魔王の務めのひとつだと言う。言うのはディーターだ。魔王の元には魔族が集まる。集まった魔族に崇められてこその魔王、だそうだ。

 魔王というのは存外に面倒な役回りを押し付けられるものだと、ハディルはこの地位についてから知った。


「陛下。ヘルミネは気力も元気も体力も有り余っておりますぞ。魔王の妃に必要なのは料理人ではない。強気な態度と相応の魔力。そして美しさ。どれもヘルミネは兼ね備えております」


 先代魔王の統治が終わり平和になったオランシュ=ティーエ。

 命の危険が去り平和が訪れると今度は名誉が欲しくなる。他人よりもより優れた地位が欲しくなる。頭一つ抜け出したい。その欲望をかなえてくれるものこそ、己の娘や孫を魔王の妃にするということだった。


「そんなに魔王の妃になりたいのなら、俺でなくてもいいだろう。魔王はもうあと二人も他にいる」

 ハディルはザイフェルト家の当主の顔も見ずに言った。

「あとの二人って。獣人と女ではないですか」

「獣人だろうと女だろうと魔王は魔王だ。そっちの嫁にしてもらえ」

「そんなぁ。ヘルミネにだって選択権がありますゆえ」


「俺にだって選択権くらいはある」

 ハディルは主張した。


「うちのヘルミネのどこが不満だというのですか。あの異界の娘よりも美人で胆力も腕力も根性もありますよ」

「青空は美味しい料理を作る。料理が絡むと途端に饒舌になってよく笑う。そのくせ俺の隣ではすぐに頬を膨らませる。意味が分からないが見ていて飽きない」


 ハディルはすらすらと答えた。目の前の老人がぽかんと口を開いたが、ハディルの方が驚いていた。青空のことを思い起こすと勝手に言葉が湧いてきたからだ。

 そのとき、ハディルは椅子にもたれていた体を起こした。青空に与えた自身の魔力が勢いよく遠ざかっていったのだ。

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