第三話 二番目の犠牲者⑩

「なかなか、読みごたえのある記事でしたよ」

八神が記事の写しを枕もとに差し出しながら感想を述べると、叔父は興味がないとでも言いたげに、ぷいと顔をそむけてしまった。八神は一瞬唖然となったが、コピーの束をバッグの中にしまいこむと、あえて穏やかに切り出した。

「水野さんという記者と連絡をつけていただくわけにはいきませんか。会って話を聞きたいんです」

「それはできないんだよ、春野。記事は遺稿という形で掲載されたんだ。本人が亡くなっていたから」

「――」

「腎臓病の持病があって、投薬の必要がある時だけここに入っていた。その記事は入院中に書かれたものだった。社にファックスで送り届けてまもなく、病室の五階から飛び降りたんだ。表向きは持病が悪化したのを苦にして、ということになっているがね」

とっさに叔父は顔を背けるようにして、例の狼の遠吠えのような咳を自力で抑え込むと、ふりしぼるような声で続けた。

「いつも一生懸命な男だったよ。亡くなる前年に結婚し、当時奥さんは妊娠四か月だった。奴の性格を考えれば、身重の妻を置いて自ら死を選ぶことはありえない。そんな無責任なことをする人間では断じてなかった」

「水野さんも犠牲者の一人ということですか」

叔父は無言でしばらく何か考え込んでいたが、何かを思いついたように、サイドテーブルへと身をのりだした。乾パンのように干からびた手のひらが、ぎこちない棒のような動きで、新聞や書籍が乱雑に押し込まれた引き出しの中をまさぐっていたが、やがて取り出されたのは、年月を感じさせる表紙がよれよれの、けれどどこにでもある大学ノートだった。

「これを見てくれ」

八神は言われるままに中を開いてみた。何かがはらはらと床に落ちた。叔父があとから添付したものらしい。“水野貴志・記”と鉛筆書きで記されたところに、ポートレート風の写真が張り付けてあった。手に取って、しみじみとながめている自分がいた。古い写真だが、ダークグレーのスーツをラフに着こなし白い歯を見せて笑っている男には、誰もが一目で好感を持つ独特の雰囲気があった。外国人風の大きな二重瞼、鼻も口も収まるべきところに収まって、整った顔立ちをしてはいるのだが、それがどこか優しくおっとりした印象を与えるのだ。

「その男が水野記者だ」

叔父に指摘されなければ、すぐにはそうとはわからなかった。髪を短く刈り上げ、バレーボールやバスケットボールの選手を連想させるがっちりした体格は、およそ記者らしくなかった。何よりとてもあんな情熱のこもつた攻撃的な文章を書く人間には見えなかった。

最後にもう一度、名残惜しげに写真の水野と対峙してから、写真を元通りにしまった八神だったが、次のページをめくったところで思わず絶句した。

罫線から一切はみ出すことのない、まるで定規ではかったような正確な筆跡。紙面一面に綴られていたのは、仏典の長い長い書写だった。

大般涅槃経序


北涼天竺三藏曇無讖譯

壽命品第一

如是我聞 

一時佛在拘尸那國力士生地阿利羅跋提河邊娑羅雙樹間 爾時世尊 

與大比丘八十億百千人倶 前後圍遶 

二月十五日臨涅槃時 以佛神力出大音聲 

其聲遍滿乃至有頂 隨其類音普告衆生 

今日如來應正遍知 憐愍衆生覆護衆生 

等視衆生如羅侯羅 爲作歸依屋舍室宅 

大覺世尊將欲涅槃 一切衆生若有所疑 今悉可問 

爲最後問 爾時世尊 於晨朝時從其面門放種種光 

其明雜色 青黄赤白頗梨馬瑙光 

遍照此三千大千佛之世界 乃至十方亦復如是 

其中所有六趣衆生遇斯光者 

罪垢煩惱一切消除 是諸衆生見聞是已 心大憂愁 

同時舉聲悲啼號哭 嗚呼慈父 痛哉苦哉 

舉手拍頭胸叫喚 

其中或有身體戰慄涕泣哽咽 爾時大地諸山大海 皆悉震動 

時諸衆生共相謂言 且各裁抑莫大愁苦 

當疾往詣拘尸那城力士生處 至如來所頭面禮敬 

勸請如來莫般涅槃 住世一劫若減一劫 

互相執手復作是言 世間空虚衆生福盡 

不善諸業増長出世 仁等 今當速往速往 

-------------------------------------------------------------------------------------------。

なんと書写は、50ページのノート一冊分に渡って綴られていた。

「こ、これは――」

「”大般涅槃経”(だいはつねはんぎょう)だよ。釈尊の死後の世界を題材にした、大乗仏教の最終教典ともいわれているものだ」


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