第三話 二番目の犠牲者 ⑥

いっしょに暮らすとしても音羽のマンションは狭すぎた。それに時間に不規則な八神と同居などすれば、義母みたいな人間は気をつかいすぎて、反対に体調を壊してしまうかもしれない。何より幸子が、年老いた母親と日がな一日いっしょにいることに耐えられなくなるだろう。

そうだ、あの日、渋滞で立ち往生となっている最中に、ラジオから、ビートルズの“Don't let me down”が流れてきたんだ。真っ赤なテールランプが、うつむいて押し黙っている妻の横顔を突如浮かび上がらせて、ぎょっとなる。

忌々しい記憶が濡れたような灯りの中から突如よみがえって、胸がきりきりと痛んだ。たまらずダイヤルに手を伸ばそうとすると、幸子は淡々と告げた。

「気にしなくていいの」

テニス部と軽音楽部を篠田は掛け持ちしていた。ギターの腕前は天下一品、歌は玄人はだしで、文化祭ともなると、裏声をきかした声色に女子生徒が夢中で聞き入ったものだ。

“Don't let me down, don't let me down

Don't let me down, don't let me down

Nobody ever loved me like she does

Oh, she does, yeah, she does”

“がっかりさせないでくれ がっかりさせないでくれよ

俺を落胆させないでくれ 俺を落胆させないでくれよ

かつて誰も君の様には俺を愛してくれなかった

君の様には そうさ 君の様にはね”

車は長らく停止したままで、ラジオは繰り返し訴える。

Don't let me down, don't let me down.

虫唾が走るようだった。年甲斐もなく胸がむかむかして、八神は今にも叫び出しそうになっていた。

“あいつは幸子の一番大切なものを奪った。そして心まで踏みにじった。そのことをこの僕が知らないとでもいうのか”

東山大路丸大町の熊野神社の前まで来て、手元の時計をのぞくとちょうど19:00だった。八神はまた重い体をひきずるように早足に歩きだした。

東山通りから近衛通りに折れ、夜間出入り口を示す電光掲示板に向かってさらに歩を進める。入口のところで警備員に用件を聞かれることもない。

顔なじみの相手でもあり、この頃は面会時間ぎりぎりでも手真似で通してくれるのだ。人気のないホールからエレベーターに乗り込むと、八神はかつて新聞記者として活躍している頃を知っているだけに、病魔にとりつかれた叔父の身の上を嘆きたい気持ちになった。若い頃には、今は亡き夫人を連れて井出の家にも顔を出していた叔父。あの頃八神はまだ中学生だったが、社会部の記者として、日本全国を駆けずり回っていた叔父のダンディな姿は、今も頭に焼き付いている。父と母が相次いで亡くなると、叔父はかけがえのない唯一の身内となっていた。そしてあの忌まわしい事件が起こる。

当時、八神は本署に配属されたばかりの35才。仕事への意欲は人一倍で、考えるよりは先に走りだしているようなタイプだった。山品疎水で女児が遺体で発見された時は、いち早く現場に駆け付けた。刑事になりたいという甘い夢を追っていたこともあり、なんとしても自分の手で解決したいと力んでいたのだ。一方、課長や係長は、初動捜査もろくろく行わず捜査本部すらたてず、まるで犯人逮捕をはなから放棄しているかのようだった。

八神一人張り切って、聞き込みをしたり目撃者をやっきになって探し回ったりした。けれど、容疑者の手掛かりにつながる情報は皆無だった。もう諦めたかけた頃、叔父もまた事件を追っていると知った。署の状況を嘆く八神に、叔父もまた自分を取り巻く状況も同じようなものだと告げた。つまり、女児の事件に関する限り、警察と同様新聞社内部でも、事件に関わるなとお触れが出ていたようだった。

理由はよくわからなかったが、それでなおさら、犯人逮捕にしなければならないという気分が高まった。当時二人は、いわば警察や無関心な社会への反骨心や、正義心といった絆で結ばれていたのだった。けれどこれがいけなかったのだ。誰が密告したものか、叔父は警察内部に縁故があるとして、同じ年の梅雨の時分が来る前に本署への出入り禁止が言い渡され、八神もまた、情報をリークしたかどで、本署勤務をはずされた。名物記者として名をはせた叔父は、45才の働き盛りで、閑職の文化部の資料整理部へと回された。自らの無知蒙昧が不運を招いたとしても、それだけではあるまい。今にしてわかるのは、あの時の不当で理不尽な扱いには、何かしらの大きな力が働いたのだろうということだ。じっさい、小さな男の子がまたしても犠牲になったというのに、本署の連中は相も変わらずわれ関せずを決め込んでいる。この嘆かわしい現状をなんとしても叔父に訴えたかった。

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