第二話 魔物の棲む街②

石段の上から見る空は雲がさっきより灰色がかっていて、やっぱり雨が降るのかもしれないと思う。大気もむしむししていて、額からもわきの下からも、ものすごい汗が吹き出していた。けれど風が吹くと、門のそばの楓の木がいっせいに揺れ、さわさわと涼しげな音をたてた。そんな時は立ち止まって風の音に耳を澄ませた。風が頬を撫でていく間に、汗が少しずつ乾いていくのが心地よかったが、それにも飽きると石段を飛び下りて、再び跳ねるように境内を駆け抜けた。お寺には大勢の人がいて、中には外国から来た人もいたから、優は何となくウキウキして、途中で立ち止まってはぶんぶんゴマのデモンストレーションに励んだが、注目してくれる人は一人もいなかった。歩いては立ち止まり、時折思いついたようにコマを回し、それから思いついた走った休んだりを繰り返した。そのうちに大問題にぶちあたることとなる。水路へどう行けばいいのか、まったく見当がつかないのだ。あの日は兄ちゃんたちのあとについていればよかった。何しろ水路に立ち寄ったのは山からの帰り道で、今はお寺から入って、前とは逆方向に進んでいるというので、よけい頭がこんがらがるのだ。ただ網膜に焼き付いている景色だけがたよりで、それを映像技師がフィルムとフィルムをつなぐみたいに、辿っているだけだからいい加減なものだった。

優はそのうちに考えるのをやめた。とにかく駆け、駆け、駆けつづけた。そしてつきあたりまで来ると、迷うことなく右に折れた。理由なんかない。ただ心の声が右に行けと叫んだのだ。やがてくすんだブドウ色の苔むすレンガ造りの橋が見えてくると、階段をいきせききってのぼりはじめた。急な階段をゴムまりのような勢いで上り詰めた時、心臓はドクドクと早鐘のような音を立てていたが、優はけんめいに樹木や草むらをかきわけると、土手の方へ飛び上がらんばかりの勢いで駆け下りて行った。そこから土手に沿って五百メートルほど走ったところで、水路の淵にしゃがみこんだ。水は前に見た時よりも少し汚れた灰色をしていて、風の向きによっては、金魚のウンチみたいな臭いがしたけれど、もちろん引き返すことなんてしない。

火輪湖から取り入れられた水は、大鳥市を南西に進み、五陵(ごりょう)の隧道から古都市に入って、華上の水力発電所地点で南下し、南千寺船溜まりへと下り、ついには鴨野川へと流れつく。運河は古都に暮らす人々にとっての命綱だけれど、むろん優はそんなことを知るよしもなかった。ただひたすら鳥のさえずりに耳を済まし、たえまのない水音にこたえるようにコマをくるくると回した。今ではすっかり長いあいだ回すことができたしコマの回るスピードも速くなった。そうして三十回近くコマの糸をよじったり開いたりしたあと、柏尾トオルがしていたように地面の上にうつぶせになった。それから手を伸ばしてみたが、あと少しのところで水面というところであきらめて立ち上がった。いっそのことサンダルごと中に飛び込もうと思った時、どこからか小さくて硬い感触のものが飛んできて頬にはねかえった。驚いて顔を上げると、雲はもう溶けた生クリームみたいになっていて、鉛色の筋が不気味なだんだら模様を描いていた。

“やっぱり、雨が来るのかな”

やがて目についた人の手の形に似た葉っぱが、いっぱいぶら下がっている木の下に身を寄せた。雨はしだいに激しさを増し、そのうちに滴が頬に刺さるような大粒のもの変わっていった。ふと出がけの母さん言葉が思い出され、彼は泣きそうになった。泣きたいのは当然だった。水路に落ちた雨はきれいな水玉模様を描くのに、彼の周りに降る雨は、まるで鋭い切っ先でできている凶器みたいに背中や首に容赦なく突き刺さってくるのだ。

そうこうするうちに、雷が鳴りはじめた。優は山にメガトン級の爆弾が命中したみたいな大きな音がするたびに、耳に両手を押し当ててぶるると身を震わせた。

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