第5章 月影静乃

5-1 再会・前

 春の、たっぷりと予感を含んだ風が緩やかに吹いている。

 駅前の街路に降り立った月影静乃つきかげしずのは、その空気を胸いっぱいに吸い込むと、目を細めて周囲の景色を見渡した。明るい光の降り注ぐ、こじんまりとした商店街。裏はすぐに丘の斜面で、その急な斜面に、いろんな色や形の屋根をかむった家々が、段々になって、重なり合って立ち並んでいる。

 変わらないな。

 商店街の角を曲がり、住宅街の坂道を上りながら、静乃しずのは思う。

 この街は、変わらない。もちろん新しいマンションが建って、新しい家が建って、お店も変わったりしているけれど。でも、この街かどに漂う雰囲気は、空気は、匂いは、私がいた時と同じだ。きっと目をつむって歩いていてもわかる。ここが幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんだってことが。

 静乃はゆっくりと踏みしめるように坂道を歩きながら、住宅の生垣に咲く花をながめたり、木立の枝の間を行き来する小鳥を目で追ったりする。まるで近所を散歩するように。鼻歌を歌いながら。懐かしい景色を愛でながら。

 彼女にとっては、五年ぶりに歩く幸ノ丘学園の坂道だ。かつては毎日のように歩いた道。この五年、何度も夢にみて時には涙した街路。しかし不思議だった。こうやってこの街に身をおいてみると、自分がまるであの時に戻ってしまったような気持ちになる。五年ぶりなのに。まるでその年月がなかったかのように。この街を去ったのがつい昨日のことであるかのように。

 坂を上り切った静乃は、尾根道沿いの住宅地の公園で小休止をとった。

 ずいぶん息が上がっている。こういうところは過ごした年月を感じる。かつては平気で上っていた坂だけど、記憶にあるよりもきつい。久しぶりだからか、それとも年齢のせいか。三十三という自分の年齢も思い知らされる。

 ふと振り返ると、かつて緑の丘であったはずのところに大きなマンションがそびえたっていた。かつて結朋堂ゆいほうどうのあった丘だ。彼女は少し胸に痛みを覚えて目を伏せた。やはり年月は過ぎている。町は少しずつ変わって、失われたものは戻らない。時間は確実に進んでいるのだ。

 静乃は目元をそっと指の先で拭ってから、谷へ向かう道を駆け下りた。

 振り返るのは、もうおしまい。

 そう、自分に言い聞かせながら。思い出は大事だけれど、でも今日は懐かしむことだけが目的ではないのだ。

 谷の桜並木に出て彼女はいったん立ち止まる。嘘のように静かな住宅街を突き抜ける桜並木。満開に咲き誇る薄桃色の花々が、アーチをつくってどこまでもつづいている。ほほ笑むように咲き乱れ、誘うようにゆれながら。ゆれるたびに無数の花弁を無人の街路に散らしながら。

 その光景に少しの間見とれたあと、静乃はリュックから一通の手紙を取り出した。そのちょっとよれた封筒をそっと抱きしめ、そして彼女は彼の名を呼ぶ。

 彼の名を呼び、彼に語り掛ける。

 さあ、約束を果たしに行くよ。君と一緒に何度も通ったこの桜並木を抜けて。君と通れなかった、この薄桃色の花のトンネルをくぐって。

 そして静乃は、桜のアーチの下に、一歩を踏み出した。


 空気までピンクに染められてしまったような桜並木の下を歩きながら、静乃はこの五年間のことを振り返っていた。

 あわただしくて忙しくて、充実していた五年間。職場は想像していた以上に厳しく、毎日のように怒られた。知らないこと、できないことばかりで、先輩や上司だけでなく年下の子たちにさえ呆れられることもあった。泣いた夜は数えきれない。でも、彼女はそれに負けなかった。そのつらさや苦しさを乗り越えて、その職場で粘り続けた。

 それができたのは、彼からの便りがあったから。

 大阪に住むようになってからも、彼とはときどき手紙のやり取りをした。彼の手紙にはいろんなことが書いてあった。授業のこと。サークルのこと。バイトでの失敗。実習や研究活動で面白かったこと……。その紙面からは本当に彼が学生生活を楽しんでいることを、そして未来へ着実に進んでいることを、うかがい知ることができた。彼から手紙が届きそれを読むたびに、静乃はあの幸ノ丘学園での日々を思い出し、自分の決意を新たにすることができたのだ。

 ああ、彼はちゃんと前に進んでいる。私もくよくよしてなんかいられない。私も、進まなくては!

 涙を拭いて、そう自分を奮い立たせることができたのだ。

 静乃からの手紙は、なるべく楽しいことを書くようにした。旅行をしたことや、職場で新しく知ったためになる知識。美味しいものを食べに行ったこと。ときどき、嘘を書くこともあった。本当はこっぴどく怒られたのに、褒められた話にしたりとか。涙をこぼしながら失敗談を笑い話にしたこともある。

 今となっては懐かしい思い出だ。

 仕事が楽しいと思えるようになったのは三年くらいたってから。ほとんど失敗もしなくなり、真剣にまじめに取り組む姿が次第に周囲からも認められるようになった。誠実な態度が信頼され、職場になくてはならない人物のひとりとして、いつしか認識されるようになっていた。もちろん知識も技術も、多くのものを身につけた。勉強もたくさんした。

 正直学問は果てしがない。知識も薬も日々進歩し、それに追いついていくのでやっとだ。それでも五年たつ頃には、ようやく自信のようなものも持つことができるようになった。それはもちろん、この道を究めたというような、だいそれたことでは決してないのだけれど。まだまだ自分は未熟で、勉強しなければならないことがたくさんあることも、わかっているけれど。でも、自分はこの道でやっていける。この道でいつか活躍することが想像できる。その途上に今自分はちゃんとのっている。そういう自信だった。

 これからやりたいことも決まっている。この経験を生かして、また薬屋さんをやりたい。玉川さんの会社で。今度はより多くの、この地域に住む人々の役に立ってみせる。そして休日はまたあの公園でオカリナを吹くんだ。

 退職することを告げた時、うれしくも職場の皆から別れを惜しんでもらえた。厳しかった上司や先輩から励ましやエールをいただいたときは、思わず涙ぐんでしまった。やはり別れはつらい。五年間住んだ土地、職場、仲間たちにもいつしか愛着が生まれていたのだ。大阪に住み続けたらと言ってくれる人もいたが、しかし静乃は東京に戻る決意を変えはしなかった。

 約束があるから。

 その約束を、果たしたいとおもうから。

 彼との約束を。

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