4-7 月影さんからの手紙

『桜が美しく咲き誇る季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 カナト君、お久しぶりですね。本当はすぐにでも便りを送りたかったのだけど、君の受験が終わるまではと、我慢していました。そして桜が咲いた今、いたたまれずにお手紙したためた次第です』


 桜の並木通りに出て、歩道のベンチに腰掛け、震える手で折りたたまれた紙を開く。紙面に踊る彼女の筆跡は、控えめで、彼女らしく落ち着いていて、でもちょっと丸っこくて可愛らしかった。


『カナト君。志望校合格おめでとうございます。どうして知っているかって? 岩崎さんが教えてくれたのです。君の連絡先も、彼女が教えてくれたのでした。勝手なことをと怒らないで。彼女もきっと喜びで、いてもたってもいられなかったのだと思います。君の合格を知って、私もとてもうれしかった。それはもう、まるで自分のことのように。君が一生懸命勉強する姿をずっと傍で見ていたのだから。

 そう。君はいつも一心に勉強していましたね。カフェでも、結朋堂のあの洋間でも。公園でも……。勉強しているときの君の表情はいつも真剣で一途で、ちょっと近寄りがたくて、でもなんだか寂しそうだった。そんな君の姿は、私にはとても懐かしく感じられました。だって、君はあまりにも私と似ていたのですから。かつて、誰も寄せ付けず、目の前のテストの成績ばかりを気にしていたころの私と。

 君と私が出会ったばかりの、春の日のことを覚えているでしょうか。私は君が受験生であることと、友達がいないことを見事に言い当てた。君が不思議がって、私は「超能力」などと答えたのでした。でもあれは、超能力なんかではなかった。ほんとうは、あなたのまとう空気が、あまりに私と似ていたから。不愛想な表情をつくって、視線を下に向けて、全身を少し緊張でこわばらせて。ああ、私だ。かつての私がここにいる。ほとんど直感的に、本能的に、それを私は嗅ぎつけたのでした。

 だから、私は君を結朋堂に誘った。君の姿に少女のころの自分のそれを重ねてしまったから。かつての私のような君を、なんだかほおっておけなかったのです』


 カナトは頭上の桜の枝を見上げる。初めて彼女と出会った日のように、春の明るい光を浴びて柔らかく咲く薄桃色の花々。ゆるく風が通るたび、弾むように彼らは揺れる。幾枚かの小さな花弁をキラキラと、彼の周囲に舞わせながら。

 ああ、だめだ。じっとしてなんかいられない。

 カナトは再び立ち上がり、手紙を抱いて走り出す。目的地は美術館公園。彼女と過ごしたあの公園に、彼女の手紙もつれていこう。彼女と一緒に何度も歩いた、この桜並木の下を通って。彼女といるときは一度もできなかった、薄桃色の花のトンネルをぬけて。


『書いているうちに、あの日々の光景が次から次へとよみがえってきました。思い出が湧き出て、溢れてしまいそうです。今回お手紙を書いたのは、君にお祝いを言いたかったのと、伝えたいことがあったから。口下手で上手く言葉にできないままお別れしてしまった私の、あの日々に感じていたこと、あなたへの想いを告白したかったからです』


 美術館公園の入り口についたカナトは、息を切らしながらまた手紙を開く。レンガ造りの門柱に寄りかかって。頭上に揺れる桜の枝をいったん眩しそうに見上げてから。


『はじめはちょっと興味があるだけだったのだと思います。ただ、ちょっと離れたところで見守っていたい。干渉はしないように。それぐらいの気持ちだった。だから私のことはあまり言う気もなかったし、君のことを詮索しようとも思わなかった。でも、一緒に時間を過ごしていて、そうはいきませんよね。私はうかつにも君にオカリナを聴かれてしまった。そして思いのほか、それが嬉しかった。君に「夢やぶれて」を聴いてもらったあの時、思ったのでした。ああ、本当は、私が求めていたんだ。友達がほしかったんだ。こんなふうに笑顔で聴いてくれる人。感想をくれる人。傍に、いてくれる人。そんな人を欲していた。私は、寂しかったんだ。と。

 結局ずいぶん君には無理をさせてしまいました。公園に引っ張り出して、たくさん演奏につき合わせてしまいましたね。勉強の邪魔かなと心配もしたけれど、演奏を聴いてくれる時の君はいつも笑顔で、その笑顔を見るのが嬉しくて、それで調子に乗って甘えてしまいました。あの時間は私にとってとても楽しい、幸せな時間でした。それは君にとってもきっとそうであったと思いたい。あのときの君の笑顔が、私にそう信じさせてくれるのです』


 見つめている字がにじんで見えて、カナトは顔をあげ、袖で目をぬぐった。

 風が頬をなで、木立の木々の葉がやさしい音色でさざめいてゆく。それがふと彼女のささやき声のような気がして、思わず周囲を見渡す。そこかしこに残る彼女の余韻に彼は語り掛ける。

 そうです。もちろん。僕にとってもそうでした。あの時間は、僕にとってもとても楽しい、幸せな時間でした。

 葉づれの音が降り注ぎ、枝の間で陽光が眩しく瞬く。どこかで彼女が笑ったように思えて、カナトは鼻をすすりながら微笑む。そしてまた、歩き出した。あそこへ行かなくては。彼女とあの時間を過ごした、あの林のベンチへ。


『私は君にとても感謝しています。ほんとうに。言葉にできないくらい。君は私にいろいろなものをくれた。私のために頑張ってくれた。受験生なのに。自分もいっぱいいっぱいのはずなのに。いったいどうして?』


 月影さんがかつて座っていたベンチの上に、木漏れ日が揺れている。カナトが開く手紙の紙面にも。桜の咲く日だというのに、この辺りは今日も人気がない。桜のエリアとは離れているからだろうか。ただ、遊歩道にかぶさる浅緑の木の枝が、あの日々と同じように眠たげに揺れているばかりだった。


『最初は同じ匂いを持つ者どうし、傷をなめあうように時間を過ごせればいいと思っていた。でも、そうはならなかった。君は、どんどん変わっていった。いつの間にか、かつての私みたいに自分の勉強のことだけ考えているような人間ではなくなっていた。君が結朋堂を守るために一肌脱ぐと言い出した時、私はとても驚きました。どうして? 君は私だよ。私だったらきっと、大事な夏休みの勉強時間を削って調べものなんかしようとしなかったよ。そしてその時気づいたのでした。ああ、この子はもう、私ではなくなりつつあるのだと。君は君の道を歩みつつある。それは喜ばしくもあり、少し寂しくもありました。

 しかしその気持ちはすぐに別の感情へと変わっていきました。

 君の頑張る姿。調べ物をする姿。調べたことを発表する姿。その姿に私は深く感動したのです。それはそれまで勉強していた君の姿とは別次元で、いきいきとしていて、輝いていて……。その光が、私の心の中にこびりついていたあきらめや後悔とかいったものを洗い流していったのです。私も! 君の姿を見ているうちに私も思うようになりました。私も、頑張らないと。どんな形でもいい。頑張って前向きに生きないと。そうでないと、君からおいていかれてしまう。君は私だよと言えなくなってしまう。また、ひとりになってしまう。

 だから、私は決意したのでした。私も頑張る。その第一歩として、自分の職業とちゃんと向き合おう。まずは薬剤師という自分の仕事としっかり向き合って、真剣に仕事をして、立派な社会人になろう。

 それはまた、何もできない私が君にしてあげられる唯一のこととも思えたのでした。君のちょっと未来を希望で照らすこと。私は君の、ちょっと未来の姿だと思うから。

 おりしもそのころ大阪に住む親類から、ある病院を紹介されました。そこは最新の技術や知識の学べる、国際的にも有名な、先進的な病院でした。今までの私だったらきっと臆して見向きもしなかったような職場です。でも、そこに行くことにしました。幸ノ丘学園からも、東京からも離れてしまうけれど、それくらいしなくては変われないと思ったのです。

 あの街や君たちと別れるのはほんとうにつらかったし、さみしかった。正直に言うと、ずっと君と一緒にいたかった。でも、私はこの気持ちをとりあえず胸にしまおうと思いました。これを試練にしようと。これは自分に課した試練だ。この気持ちを糧に私は己を高めよう。自分を高めて立派な大人になろう。胸を張って幸ノ丘学園にもどれるように。成長した君と一緒にいて、恥ずかしくないように。私は君だよ。君の、十年後の姿だよ。そう、堂々と言えるように。

 これはもう、私の中では約束のようなものです。私は必ず、君のいるところに戻る。おそらく君が社会に出て、ひとりで歩くようになった時。それまできっと辛いこと、苦しむこともたくさんあるだろうけれど。でも、必ずそれを乗り越えて、あなたと再会して、そして伝えられるようになっていたい。君の十年後はこんなふうだよ、って。君の十年後はこんなにも、希望に、喜びに満ち溢れている! って。堂々と、胸を張ってそう伝えたい。

 心からありがとう。何度言っても足りません。私は君に感謝しています。私は君に何か返せるのかな。私が君に希望を示せるような人間になることで、それが少しでもできるのなら、こんなにうれしいことはありません。

 君の活躍を心から祈っています。今の私が君にエールを送るなんてちょっとおこがましいかもしれないけど。ただ、もし辛いとき、くじけそうなときがあったら、思い出してください。私がいることを。君に救われた人間が、どこかで頑張っているかもしれないことを。君は、すごい人なんです。

 再開できる日が楽しみです。また逢うことができたら、お話したいことがたくさんあります。それはきっとこれからますます増えていくことでしょう。

 再会するのは春の日がいいな。あの日のような、今日のこの日のような、桜の舞うあたたかな春の日が……。

 それまでどうか、お元気で。君の幸せを心から願っています』


 読み終えると、カナトはその手紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻した。

 頭上で木の葉が優しくささやいている。春の午後の陽を散らしながら、ゆったりとたゆたっている。通り過ぎた風と共に誰かが腕に触れたような気がして振り向くが、そこには誰もいない。月影さんがいつも座っていたベンチの上には、木漏れ日が物憂げに揺れている。

 カナトは封筒を胸に抱きしめて目を閉じた。

(呼吸だよ)

 彼女の声を思い出して、彼はゆっくりと息を吐く。そして大きく空気を吸い込む。予感を含んだ、春のあたたかい空気。

 カナトの閉じたままの瞼の下に、涙がにじんだ。それは木漏れ日を受けてきらめきながら頬を伝い落ちる。ひとつぶ、またひとつぶと。とめどなく。

 僕の方こそ!

 カナトは月影さんの手紙をかきいだき、目を閉じたまま彼女に語り掛ける。

 僕の方こそ、あなたに感謝しているんです。あなたのおかげで僕は変わることができた。人のために頑張ることを覚えた。将来の目標もできた。好きな人のことを思ってこんなふうに……。

 そしてようやく涙を拭き、しかし目は閉じたまま口を笑みの形にして、語り続ける。

 こんなふうに、泣くこともできるようになったんです。あなたこそ、僕にたくさんのものをくれた。ありがとう、月影さん。こころから、ありがとう。僕は一生懸命頑張ります。立派な大人になってみせます。再会したときに、あなたと一緒にいて恥ずかしくないように。堂々と、胸を張ってあなたの隣を歩けるように。

 どこかから流れてきたオカリナの音にさそわれて、カナトは目を開いた。

 周囲を見渡すが誰もいない。耳を澄ませてみるともう、オカリナの音を聴くこともできなかった。かわりに葉擦れの音が降り注ぐ。見上げれば浅緑の葉の重なり。相変わらず眩しい光を散らす午後の空。その光の中を、どこから迷い込んできたのか一片の桜の花弁が駆け抜けていった。


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