4-6 泣く青年

 大勢の人間がいるだけで醸し出される騒音。

 車輪の振動。

 ブレーキの音。

 駅に着くたびに流れるアナウンスと列車のドアの開け閉めの音。

 そしてそれに続く人の出入りの気配……。

 車両が揺れるたびに吊革をつかんだ手に力を込めて姿勢を保ちながら、カナトは片方の手に持つ分厚い本を読みふけっていた。

『近代建築の巨匠たち』

 表題にはそう、書かれている。大学の推薦図書になっていたものだが、読み始めたら面白くて、なかなかページをめくる手をとめられない。

「なあ、さっき観た映画。感動したな」

 隣に立っていた聡一から声をかけられて、カナトはようやく顔をあげた。

 思わず座席の上の広告が目に入る。

『あなたもきっと涙する。この春みんなが泣いた、心温まるラブストーリー』

 そんな黄色い字が躍るポスター。その背景には青空に舞い散る桜の花が描かれている。

 さっき新宿で聡一と守口さんと三人で観てきた映画だ。

 カナトは少しの間その広告を見つめてから、ほほ笑みながらうなずいた。

 いい映画だった。ありきたりのハッピーエンドだけど、でも、それがよかった。もう二人はだめかと思ったのに。すれ違いのまま終わってしまうかと思われたラスト。しかし彼らは結ばれた。晴れやかで、余韻の残るいいラストだった。観てよかったと心から思えるような映画だった。

「聡一もけっこう泣いていたね」

「いやいや。お前の方が泣いてただろ。エンドロールの時号泣だったろ。カナトって、そんなキャラだったっけ?」

「それを言うなら、君もそんなキャラだったか。聡一君」

 守口さんが口をにやけさせながら聡一の顔を覗き込む。

「まさか君が男同士で恋愛映画を観ようとするとは。彼女はどうした」

 聡一は照れたように頭をかきながら答える。

「俺はこっちが本来の姿ですよ。大学の勉強は大事だって、守口さんも言ってたでしょ。実習も多いし、女遊びしてる暇なんかありません。それよりカナト……」

 そして今度は聡一がカナトの顔を覗き込む。

「お前こそ彼女でもつくらないのかよ。せっかく志望校に受かったんだぞ。守口さんと同じ最難関の工業大学。もてるだろうに。上級生になって就活とか卒論とかはじまる前に謳歌したらどうだ」

「いやあ。僕は……」

 言いかけて、カナトは窓外を流れる沿線の桜並木に目を向けた。あっという間に流れ去る桜の枝から散った幾枚かの花弁が、風に乗って薄曇りの空をかけてゆく。

「僕は、もう心に決めた人がいるから」

 カナトはそして、風景の中をかすめていったひとひらの花びらを目で追った。

「……あの人から、連絡は来るのか?」

 急にしんみりとした表情になった聡一が、カナトと同じように窓の外に視線を向けながらきいてきた。

 カナトはゆっくりと首を振る。あれ以来、彼女からは何の音沙汰もない。しかし彼は信じていた。彼女は決して自分たちのことを忘れてはいない、と。必ずこの幸ノ丘学園に戻ってくると約束したのだから。逢いたいという想い。声をききたい衝動……。そういうものももちろんあるけれど、彼はそれを胸にしまって己を高めることを心に決めていた。

 精進しよう。一生懸命勉強しよう。彼女が戻ってきたとき、恥ずかしくない人間になっているように。彼女の隣にいるのにふさわしい男になっているように。

 それはいつしか彼の中で約束のようなものになっていった。僕はあなたへの想いを秘めて勉強する。そして必ず立派な大人になる。そしたら。そして再会したら……。

幸ノ丘学園ゆきのおかがくえん前~」

 アナウンスとともに扉が開き、カナトは隣駅に用事があるという二人と別れてホームへと出た。

 ふと、懐かしいものが視界をよぎった気がした。ホームの階段へ向かう人々の中に。自分のそれと同じ型のリュック。チャックのところに不細工なペンギンの人形がぶら下がっている。リュックの主の女の人の、頭の後ろで束ねた黒い髪に、コスモスの飾りのついた髪留めがきらめいていて……。

 カナトはハッとして立ち止まり、目を凝らして辺りを見渡す。しかしペンギンのストラップも、コスモスの髪留めも、もうどこにも見出すことはできなかった。

 駅から出て商店街の路上に立つと、あたたかい光が眩しく彼の顔に降り注いだ。

 穏やかな風に誘われて見上げた先に、坂道の上の桜の老木が見えた。マンション建設のための整地のはじまった丘で、あの桜だけはそのまま残っている。

 月影さん。

 その桜のたたずむ坂の上に視線を向けながら、カナトは心の中で彼女に語り掛けた。

 あなたは今、どうしていますか?

 僕は大学に受かりましたよ。守口さんと同じT工業大学。

 聡一とも仲良くなりました。彼や守口さんたちと時々遊びます。勉強も毎日楽しくやっています。

 将来は街の歴史に残るような建物造りに携わりたい。結朋堂がそうであったように、そこにかかわる人々が愛情をこめて受け継いでくれるような。その街に住む人の心のよりどころとなるような。そんな仕事がしたいと思っています。

 逢えたら、お話したいことがたくさんある。それはこれからもっと増えていくことでしょう。

 あなたと再会できる日が楽しみです。

 それがいつかはわからないけれど、きっとそれはあの日のような、今日の日のような春の日で、桜が咲いていて……。

 花交じりのあたたかい風がカナトの頬をなでてゆく。手を差し出すと、その手のひらに一枚、桜の花弁がゆっくりと降り落ちた。


 アパートに戻ると、父がダイニングでコーヒーを飲みながら本を読んでいた。

 相変わらず忙しい父だけど、最近は休日はちゃんと休むようになったようだ。結局どこかに出かけてしまうことが多いのだけど。ただ、父の様子に以前はなかった余裕が垣間見れるようになったのは、息子としてうれしく思う。

 もう一つ嬉しいことがある。それは父が、カナトのT工業大入学をとても喜んでくれたことだ。カナトが真剣に選んだ道、目標、夢。それを祝福し、応援すると言ってくれた。今度こそ彼のその想いに応えられるようになりたいと、カナトは決心している。

「ただいま」

「お帰り。……あ。そうだ」

 いつものように自室に戻ろうとするカナトを、父は呼び止める。

「お前に、手紙が来てたよ」

 そしてテーブル上に置いてあった、厚い封筒を差し出した。

 誰からだろう?

 手紙を受け取って差出人を確認したカナトの胸が、大きな鼓を打った。

 鼓動がどんどん速くなり、熱くなった血が全身を駆け巡る。

月影静乃つきかげしずの

 そう、封筒の裏に書いてあったから。

「ちょっと、出かけてくるね」

 そう言って、カナトは外に駆け出した。

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