4-5 涙

 玉川老人たちの努力もむなしく、結局結朋堂の土地にマンションを建設するという成瀬氏の意思が覆ることはなかった。

 春にはマンション建設が開始されるという予定も変わらず、結朋堂ゆいほうどうの営業はその年の暮れで終了することとなった。学園創設から数十年間、そこに携わった人々の想いを受け継いだこの朽ちかけの建物はついに、その姿をこの街の風景から消すことになったのである。

 月影つきかげさんが親類のいる大阪に移り住むということを打ち明けてくれたのは、結朋堂とのお別れ会とクリスマス会を兼ねた十二月のある夜のことだった。

「なかなか言えなくてごめんね。みんなの顔を見ていたらなかなか言い出せなくて……。でもこの街やみんなを見捨てるわけじゃないよ。きっとまた帰ってくるから。そしたらまた仲良くしてくれると嬉しいな。さよならは言わないよ。また、きっと帰ってくるから。ありがとう。ほんとうに、みんなありがとう」

 演奏会と同じ白いドレスを着た月影さんは、そう言って、結朋堂の洋間に集ったいつものメンバーの顔を順番に見つめた。守口さん、岩崎さん、そしてカナト……。それからみんなに寄り添い、いそがしくみんなの手を握ったり涙を拭いたり、鼻をすすったりした。

 そんな彼女に理由を問いただそうとする者はいなかった。守口さんも、岩崎さんも、カナトも。みんななんとなくわかっていたのだ。結朋堂のなくなったこの街に月影さんだけが残っていることを、誰も想像することはできなかった。

「……じゃあ、写真、撮りましょうよ」

 静まり返った空気に一滴の黄色い絵の具をこぼすように、岩崎さんが優しい声で提案した。

「ほらほら、みんなそこに並んで」

「スマホじゃないんだね」

「こういう時は三脚にカメラでしょ」

 手をにぎやかにならす岩崎さんに導かれて、暖炉の前にみんなで並ぶ。白いドレスの月影さんを中心にして。彼女の隣にはカナト。二人の両脇に守口さんと岩崎さん。

 三脚に取り付けたカメラに赤いランプが点滅し、シャッター音が鳴り、フラッシュの光が室内を照らす。一生懸命笑顔をつくって、でも今にも泣きだしそうな四人の表情が、四角いディスプレイに映し出された。


 その日の帰りは、途中まで月影さんが送ってくれた。

 ところどころに電灯の点る、住宅街の尾根道。冷たい風が吹きすぎるたびに首を縮こませながら、暗く静かなその道を、二人は口数少なに歩いてゆく。

「そういえば、先週の模試はどうだったの」

 月影さんが、闇に溶け込みそうな小さな声でカナトにたずねた。

「うまくいきました。いい感じです。この調子で頑張れば志望校合格も間違いないだろうって、先生からも褒められましたよ」

「そう」

 彼女の返事は短いけれど、その声は笑みを含んでいる。

「ねえ。君の志望校って、まだ医学部?」

「いいえ」

 カナトは少しの間を開けてから答える。

「見つけたんです。本当に自分が目指したい道を」

「へえー。何になるの?」

「それは、まだ言わないことにします。受かるまでは。志望校に受かったら、話したいです」

「そっか。楽しみだな」

 そう言って、月影さんは立ち止まった。頭上から葉のさざめきが降ってくる。そこは尾根道沿いにある小さな公園だった。月影さんのために何かする。いつか守口さんと歩いたときにそう誓った、あの丘の上の公園だった。

「私、頑張れって言葉はあまり使わないの。人にも。自分にも。なんだか追い詰めてしまうような気がしてたから。でも、誰かを応援したいと思ったとき、浮かんでくるのはやっぱりこの言葉だった。だから、君にこの言葉を贈るね」

 薄暗い電灯の下で、月影さんがほほ笑みながら手を差し出した。彼女の吐く白い息が、一瞬あまたのきらめきを放って散っていく。

「頑張ってね、カナト君。私も頑張るから」

 闇の中に散っていった光たちが、カナトの胸の中に集まって満ちてゆく。その光の底から泉のようにこんこんと、勇気が湧いてくる。

 ああ、初めてだ。

 おさめきれずに溢れてくる気持ちの一部を、白い息とともに夜空に吐き出しながら、彼は思う。

 初めてだ。この言葉をこんなにうれしいと感じたことは。

「ええ。頑張りましょう」

 カナトはそう力強く返事をして、差し出された月影さんの手を握った。彼女の手はふんわりとしていて、熱くも冷たくもない。優しく触れるその滑らかな肌を通して、まるでお互いの熱が溶けあっていくかのようだった。その手にひんやりとした風が当たる。しかしカナトを見つめる彼女の目には、そんな寒さを忘れさせるかのような暖かい光がやどっていた。

 しばらくそうやって見つめあった後、月影さんは静かに目を伏せた。握っていた手を、ゆっくりと、名残惜しそうにはなす。

「私。こっちだから……」

 そう、小さな声で言って、二三歩後ずさる。それから顔をあげ、ふわりとほほ笑みを浮かべたかと思うと、彼女は小さく手を振って思い切ったように踵を返した。そんな彼女に手を振り返しながら、その小さな背が完全に見えなくなってしまうまで、カナトはずっとその公園のさざめきの下にたたずんでいた。


 翌朝、いつもと同じように結朋堂を訪れたカナトは、裏口のドアに手をかけて首を傾げた。

 鍵がかかっている。

 こんなことは初めてのことだった。いつも、たとえそれが朝でも、必ず月影さんの方が先に店にいたものだから。合鍵をつかってドアを開け中に入ると、結朋堂の中は暗くて寒々しくて、シンと静まり返っていた。

 二階の洋間は前日の宴会の騒ぎが嘘のように片付けられてあった。綺麗に拭き清められたテーブル上には花瓶が置かれ、そこに一本の小さな花が差してある。コスモスの花だ。

(この季節に、コスモス?)

 そう思いながら近づいてみると、それは紙で造られた造花だった。

 その花を手に取って眺めるカナトの胸に、ある感覚がふいによみがえる。どこか懐かしくて、むずがゆくて、痛くも苦しくもあるあの感覚。

 ああ、夢が……。

 瞬きをしながら思わず天井を振り仰いだとき、カナトの背後で音がした。振りかえると、部屋の入口に岩崎さんと守口さんが立っていた。

 岩崎さんはすでに異変を察知したように、頬をこわばらせながら問う。

「月影さんは?」

 カナトはコスモスの造花に視線を落として答えた。

「いって……、しまいました」

 いってしまった。その別れは彼にとってあまりにも唐突だった。別れは避けられないこととしても、もっと一緒にいられるものだと思っていた。もっと一緒に過ごして、合格の報告もして、一緒に喜びあって、褒めてもらって。自分の決意や意気込みを聞いてもらって。できれば一緒に桜を見上げながら、将来の話なんか語り合ったりして……。

 そうじゃなかった。ぎりぎりだったんだ。月影さんはほんとうに、別れのぎりぎりまで、それが言えなかったんだ。そんなことなら。そうと知っていたのなら……。

「泣いてるの?」

 部屋の中に数歩入って彼の顔を覗き込んだ岩崎さんの表情は、いつになく気づかわしげだった。

 カナトはかすかに首を振る。

「泣いてませんよ」

 そして岩崎さんから顔を少しだけそらせる。

「僕は泣けないんです。泣く機能が、ないんですから」

「嘘ばっかり!」

 そう言って、岩崎さんは暖炉に向かった。鞄から写真の入った小さな額を取り出して、暖炉の上に立てかける。すでに置いてある古い写真の隣に仲良く並べて。そしてその写真を見ながらもう一度言う。

「嘘ばっかり言って! 素直じゃないんだから」

 そして声のトーンを落として、ささやくように付け加えた。

「私は、泣くよ」

 鼻をすする音が聞こえ、カナトは暖炉の方に視線を向ける。岩崎さんは彼に背中を向けて、眼鏡をはずした目をしきりに腕でこすっていた。

 カナトはコスモスを花瓶に戻すと、そのテーブルの、窓際の椅子に座った。彼のいつもつかっていた、定位置の席。頬杖をついてコスモスを見つめていたつもりが、いつの間にか花瓶に、そしてテーブル上へと視線は下がっていった。

(ねえ)

 ふと、声をかけられた気がして彼は顔をあげる。

 正面の席に、女の人が座っていた。黒縁眼鏡をかけた、白い肌の女の人。つややかな黒髪の、ちょっとカールのかかった毛先が、黄色いカーディガンの華奢な肩にかかっている。彼女はテーブルに肘をつき、目を細めて窓の外を見つめていた。

 彼女につられてカナトも窓の方に目を向ける。

 そこでは白く小さな片がひらひらと、弱い光を散らしながら舞っていた。

 雪だ。初雪。

 いや、違う。あれは……。

 カナトは目を見開く。その小さな片は少し桃色がかっていて、布のように薄くて、軽やかで……。

 桜だ!

 そう思った瞬間、外に舞っていたはずの花弁が数片、テーブルの上に流れ込んできた。窓は閉まっているはずなのに。風もないのに。でもあたかも春風に翻るようにいきいきと。まるでそれが光ででもできているかのように。

 そのひとひらが、彼女のさしだした手のひらにゆっくりと舞い降りる。彼女はその花びらにちょっと視線を落とし、そして浮かべた笑みをカナトに向けた。

(桜、咲いたね!)

 甘く、優しく震える彼女の声。眩しそうに目を細めるその表情は木漏れ日のように哀しくはかなげで、でも清らかであたたかくて……。

 カナトは彼女の名前を呼ぼうとした。しかし彼が口を開いたとたんに、彼女の姿はその笑顔の余韻を残して光の中に溶けて消えてしまった。彼女の消えた跡にまた桜の花びらが舞い散る。風とも光ともわからぬ波動に巻き上げられて、花びらたちのいくつかはカナトの頬をなでていった。彼女がその柔らかい指先で優しく触れるように。ひとひら、またひとひらと。

 気が付くと、桜の花びらは全く消えていた。どこにも、その一片すら見出すことはできなかった。窓外に目を向けるとそこに小さな白い塊が舞っている。今度こそ間違いなく初雪だった。

 ふと、まだ頬に感触があるので、カナトは指で軽くそれに触れた。それも桜ではなかった。それは花びらよりも暖かくて、触れたとたん溶けるように彼の指先を濡らした。


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