4-4 夢見ていたこと

 岡哀子おかあいこの歌を二曲。アニソンを一曲演奏して、ようやく二人は楽器から手を離した。

 拍手はなかった。不思議なほどこの界隈には人がいなかったから。まるで今日一日はこの公園が彼らのために貸し切られているかのように。

 拍手の代わりに林の枝々が楽しげにさざめき揺れる。カナトは道端に生えていたコスモスの花を手折って、うやうやしく月影さんに差し出した。

「ありがとう」

 月影つきかげさんは白いドレスのスカートの裾を持ち上げ、足をクロスしてお辞儀をし、それを受け取る。耳の上にさして、カナトにほほ笑みかけてくれる。薄紫のその花が、彼女のその笑みに先ほどとは違う明るさと華やかさをあたえていた。

「どう。似合う?」

「ええ……。まあ」

 カナトは自分の頬がちょっとほてっているのを感じた。顔が赤くなっているんじゃないかと恥ずかしくなり、視線を斜め下にそらして頭をかく。

「照れちゃって!」

 そう言いながら顔を覗き込もうとする彼女の視線から逃れるようにベンチに座り、カナトは思いたったように言葉をかけた。

「そうだ。話を聞かせてくださいよ。ほかのいろんな公園で演奏したんでしょ。その時の面白い話を」

「えー。特にないよ。面白いことなんか」

「メリーポピンズのコスプレに対する、市民の皆さんの評価を知りたいもんです」

「あー、それ言うかなあ。あれは軽く私の黒歴史だよ」

「でも、なかなかのクオリティでしたよ」

 ちょっと頬を膨らましてから、でもすぐに口元に笑みをつくって、彼女は記憶を探るように頭上の葉を見上げた。

「やたら写真撮られた。人だかりができて、演奏どころじゃないの。しまいには公園の管理の人から怒られて、トイレで着替える羽目に……」

 その時のことを思い出したのか、月影さんは笑いながらちょっと情けない表情をしてみせた。

「他のところで普通のかっこうで演奏したときはねー。熱心に聴いてくれた外人さんがいて、演奏後に抱きつかれちゃった。なんて言ってたかわからないけど、素晴らしいとでもいってくれたのかな」

「それは聞き捨てならない」

「あれ? 嫉妬してるの?」

 月影さんのいたずらっぽい視線からカナトは慌てて視線を逸らす。きっとまた頬が紅くなっていると思いながら。

「僕にはそんな軟弱な機能はないですよ。勉強命ですしね」

「ねえ。君の話も聞かせてよ。図書館の話。どんな人がいた? どんな本とであったの」

「僕は……」

 カナトも月影さんのように頭上の枝を見上げる。僕こそ、たいした土産話はない、と思いながら。でも、あることをふっと思い出して、厳かな表情をつくってみせた。

「僕は、料理にまつわる、ある恐ろしい説を発見しましたよ」

「料理?」

「そう。料理です。卵の殻を上手く割れない人は、呪われているんですって。前世が鶏で、他の鶏やヒヨコをつついてばかりいたから、その報いに」

 月影さんはぽかんと口を開けて目をぱちくりさせる。

「どうしよう。お祓いとかした方がいいのかな」

 真面目な声でそう言うものだから、カナトはこらえきれなくなって吹きだしてしまった。

「冗談ですよ。今考えついた嘘です」

 すると月影さんはたちまち頬を紅に染めて、抗議するように身を乗り出した。軽く握りしめた手を上下させながら、

「ひどい! っていうか、なんで私が卵の殻をうまく割れないこと知ってるの」

「さあ。何ででしょう」

 とぼけながら笑うカナトにつられるように、月影さんもまた笑いだした。

「ねえ。嘘は、なし。本当の出来事を教えて」

「本当は……」

 カナトはベンチの背もたれに寄りかかりながら木漏れ日に目を細める。

 本当は、いつも、月影さんのことばかり考えていた。この公園で過ごした日々。結朋堂でのひと時。本から顔をあげて図書館の窓の外を見やるたびに、あの時間に思いをはせ、また月影さんと過ごすことだけを夢見ていた。

「本当は、ずっと夢を見ていました」

「どんな夢?」

「こんな……、夢です」

 カナトはそう言いながら空に向かって手をかざした。

「こんなふうに月影さんの隣に座って、話をしたり、演奏をきいたり、時には一緒に奏でたりして……。そんな日が続けばいいな。ずっとずっと、続けばいいなって……」

 そして月影さんに顔を向けてほほ笑みかけた。いったい何を言ってしまっているんだろう、自分は。そう思いながら。でもその言葉は何の気負いもなく、ほとんど自然に、今日はいい天気ですねというくらいに当たり前な感覚で、彼の胸の底から吐き出されたのだった。

 口を半開きにしてカナトを見つめていた月影さんの頬に、ほんのり紅みがさしてゆく。彼女は顔を伏せるとポツリと一言つぶやいた。ほんの一言、消え入りそうな声で。

「ありがとう」

 それに続いて彼女が何か言う。しかしそれは頭上の枝々のさざめきにかき消されてしまう。もう一度聞きなおそうとカナトは耳を寄せる。その彼の鼻先を、いつかと同じ香りがかすめる。

 ああ、金木犀の香りだ。

 そう思った瞬間、彼の身体を柔らかくあたたかい感触が包み込んだ。

 気が付くとカナトは月影さんにかき抱かれていた。あの七月の雨の日のように。あの時よりももっと長い時間。もっと強い力で。

「ありがとう。とても感謝してる。本当に、ほんとうに感謝してるの。うまく言葉では言い表せないくらい。このあと何があっても、きっとこの気持ちは変わらない」

 そして月影さんはカナトの肩に頬を押し付けた。

 カナトはちょっと戸惑いながら、恐る恐る、しかし優しく月影さんの背に手をおいた。彼女の背は思っていたよりも細く、暖かく、そして少し震えていた。ひょっとして彼女は泣いているのかもしれない。そう思いながら、彼は空を見上げる。

 初秋の、木漏れ日を散らす午後の空。そして胸に感じる、その陽だまりのようなあたたかい感触。なんだか懐かしいような、むずがゆいような、それでいて苦しくも痛くもあるその感覚が胸から全身に広がってゆく。その感覚に身をゆだねながらカナトは思う。漠然と。しかし不思議な確信をもって。

 この夢の覚める時が、近づいているのではないか。と。

(たとえ、そうだとしても……)

 カナトは思う。たとえ離れてしまうのだとしても、僕はあなたを想いつづける。あなたの背を追いつづける。あなたと僕の魂はきっともう、固く結びつけられていると思うから。

「僕こそ、月影さんに感謝しています。僕の気持ちも、決して変わりません。あなたを好きだという、この気持ちも……」

 どこへ行ってしまっても。どれだけ離れても。

 彼は目を閉じ、そう強く念じた。


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