4-3 デュエット

 少し回り道をして自分のアパートに寄ったのと、ヴァイオリンのケースを抱えて走ったのとで、公園についたときにはカナトの息はすっかり上がってしまっていた。

 遊歩道を歩きながら汗を拭き、時々立ち止まっては深呼吸をして息を整える。周囲を見渡せば相変わらず人の少ない公園の、草原の草も林の木々も優しくゆれながら、秋色の澄んだ空を仰いでいる。

 美術館公園。ずいぶん長いことここに来ていなかった気がする。しかし、あの館をとびだした月影さんが向かう先は、カナトにはここしか考えつかなかった。

 いつもの林の枝々は、変わらぬ鮮やかな色彩で遊歩道の上を覆っていた。しかしその色は新緑や梅雨のころよりも心なし淡くなっているように感じる。風が吹いてその葉たちが一斉に鳴る。何度も彼の心の中で再生され、彼を励ました風景と音。しかしその風を肌で感じるのは本当に久しぶりだ。それは彼の記憶にあるよりも少し乾いた音で、陽光を透かす葉の様子は物憂げだった。そしてその木漏れ日のゆれるベンチ……。

 そのベンチに、月影つきかげさんは独りで座っていた。思い出の中と同じように瞬く光を浴びながら。でも、打ちひしがれたように顔をうつむけて。

 カナトは彼女に何と言葉をかけてあげればいいのか分からなかった。いったいどんな言葉が、今の傷ついた彼女の心を癒せるのだろう。彼女の姿を見つめながらしばらく考えても答えなどはわからず、彼はただ、黙って彼女の隣に座った。

 お互い無言だった。でも、少しも気まずくなった。かつてはこんな時間を幾日となく二人きりで過ごしていたのだ。

 木の葉の擦れ合う音が優しく振り落ちてくる。見上げたカナトの顔に葉の間から漏れた光が眩しく瞬きながらあたり、そのあたたかい感触が、ふと春の日の出来事を思い出させた。カナトは、時間をかけて鼻から長く息を吐き、吐ききってから、ゆっくりと吸い込んだ。

「……呼吸ですよ」

 あの日、結朋堂ゆいほうどうの洋間に初めて入れてもらった日、あなたはそう言ってほほ笑みかけてくれた……。そう、月影さんに心の中で語り掛けながら。

「こうするんです。すると気持ちが落ち着くんですよ。ええっと……。何とか神経のスイッチが入って」

 するとうつむいていた月影さんの口から忍び笑いが漏れた。ひとつ鼻をすすって顔をあげた彼女は、

「副交感神経ね」

 そう言って、ようやくカナトに顔を向けた。その頬にはあの日と同じ、穏やかで遠慮がちな笑みが浮かんでいた。そして彼女はあの時のように深呼吸をして、空にかかる枝を見上げた。

 演奏前ははずしていたが、今は眼鏡をかけている。そのフレームに木漏れ日が反射し小さなきらめきを放つ。それが一瞬涙のように見えたが、彼女は泣いてはいなかった。

「格好つけて、偉そうにあんなこと言ったけど、私は自分の緊張もどうにもできなかった。ダメだなあ、私。ダメだなあ……」

 そんなことを言う彼女の口元は、むしろ晴れやかにみえる。しかしそれが開き直りではなく、あきらめによる表情だということが、カナトにはすぐにわかった。

「ごめんね。せっかくみんな協力してくれたのに。私が台無しにしちゃった。ごめんね。ほんとうに、ごめんね……」

 月影さんはまた息を吸いながら、眩しそうに目を細める。匂いを嗅ぐように。その匂いに染み付いた思い出を手繰るように。その目じりに今度こそ涙の粒が光るのを、カナトは見た。

「君と一緒に、よくここに来て演奏したね。楽しかったな。一番、あの頃が、楽しかったな」

 月影さんの白く華奢な手が、膝の上にのせられたオカリナのケースをぎゅっと握った。

「ねえ。演奏してくださいよ。僕に、月影さんのオカリナ、聴かせてください」

 カナトはその手を見つめながら、思い切って提案した。ひょっとしたら月影さんは嫌がるかもしれないとも思ったが、今この場所でできることはこれしか考えつかなかった。

 月影さんは困ったように眉をひそめ、でもちょっと嬉しそうに頬をゆるめる。

「えーっ。じゃあ……」

 思案顔でケースの蓋を開け、ゆっくりと楽器を口もとにもっていった。

 澄んだ音色が、静かな公園の緑の間を渡ってゆく。美しく哀しげなメロデイ。優しくも悲痛な感情をのせた音の波が伸びやかにカナトをとりまき、その胸をえぐる。

 ああ、この曲は!

 カナトは思わず身を乗り出す。ああこの曲は、初めて彼女からきかせてもらった曲だ。忘れ物を口実に舞い戻ったあの結朋堂の洋室で、月影さんに聴かせてくれと頼んだ。戸惑いながらも演奏してくれた月影さんの背後で、アーチ窓のガラスが橙色の光を散らしていた……。

「その曲は、何という曲でしたっけ」

 演奏が終わって月影さんが口からオカリナを離すと、カナトはあの時の口真似をして彼女に語り掛けた。

「夢やぶれて」

 月影さんはカナトを見て苦笑いしながら舌を出す。

「悪い冗談です」

 そう言い返してカナトも笑う。

「じゃあ、次はあの曲吹いてくださいよ。ほら、岡哀子おかあいこの……」

 カナトは間髪入れずにリクエストする。

 月影さんはうなずいてまた楽器に息を吹き込む。

 岡哀子の失恋ソング。彼女の一番得意な曲。でも、彼女の奏でる音はイントロが終わるところから弱々しくなり、サビに入ろうというところで消え入りそうになってしまった。

 ああ、途切れないで。

 カナトはとっさにベンチのわきに置いておいたケースを開けて、中からヴァイオリンを取り出した。そしてその飴色に輝く楽器を素早く構え、弦の上に弓を走らせる。久しぶりの感覚。手やあごに伝わる振動が、昔の記憶を呼び起こす。一週間練習を休めば、戻すのに四カ月かかると母からはいわれていた。その母が亡くなって何年も触れなかったヴァイオリン。でも、今、弓をつかむ右腕も弦にのせた左手の指も、嘘のようによく動いた。

 月影さんが唖然と口を開けて、そんなカナトを見つめている。

「どうして弾けるの」

 彼女の前で一度も披露したことのないヴァイオリン。もう弾けないからと言って演奏するのを拒んでいた。練習だってしていない。でも……。

 カナトは月影さんの問いに、ヴァイオリンを弾きながら笑みを含んだ視線で答える。

 でも、あなたの曲なら弾けるんですよ。何度も、何度も隣で聴いていたから。新緑の葉の揺れるさまをみつめながら、梅雨の曇り空を見上げながら、あるいは暑い日差しに浮かぶ汗をぬぐいながら。覚えてしまうくらいに、脳に染み付いてしまうほどにあなたの演奏を聴いたから。そしてそれを、無意識に再生しているほどに胸に焼き付けて、恋いこがれていたから。

 月影さんのポカンと開いていた口が笑みの形になる。カナトが彼女に視線を送りながら楽器の先端部分で合図を送ると、彼女も再びオカリナを口につけて演奏を再開した。

 オカリナのまっすぐ伸びる澄んだ音。ヴァイオリンのふるえながら包み込む柔らかな音。二つの音が絡み合い、流れていく。片方の旋律を支えたり、あるいはメロディを互いに受け渡しあったりしながら。深山の岩場をゆく清流が分かれたり合わさったりするように。それはひとりの時とは全く違う厚みと豊かさで、星屑のようなきらめきをその透明な音の流れの上に浮かべながら、その光景全体を潤していった。

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