4-2 行け!カナト

 月影つきかげさんが出ていった。

 そのことの顛末を、廊下に飛び出したカナトに岩崎さんはどもりながら話そうとしてくれた。慌てている岩崎さんの話は分かりづらかったが、つまりはこういうことのようだ。

 月影さんが舞台に出ると、いきなり並みいる紳士淑女が皆、彼女のことを笑いものにした。ファッションが古臭い。ネックレスが安物だ。そんなことを言いながら。おどおどとした態度も彼らの嘲笑の標的になった。それで出る前から緊張していた彼女は、ますます委縮してしまった。いざ演奏をはじめようとすると、手が震えてうまく楽器を構えることもできない。それを観客たちはますますおかしがり、はやし立てた。追い詰められた月影さんはその場に立っていることもできずに、ついに逃げ出してしまった……。

「ごめん。私がもっとしっかりと彼女の気持ちをほぐしていれば……」

 今にも泣きだしそうになりながら自分を責める岩崎さん。彼女の肩に、守口さんが無言で手をのせた。君のせいじゃないよ。そう、励まそうとするように。

 カナトも岩崎さんを慰めようと、彼女の傍に寄る。

「岩崎さんのせいじゃないですよ。悪いのは……」

 しかし、彼はそこで言いかけた言葉を飲み込んだ。

 顔をあげた視線の先に、聡一の姿を見出したから。

 聡一は岩崎さんの少し後ろに、亡霊のように力ない様子で突っ立っていた。

「お前だな」

 聡一の顔を見たとたん、カナトの胸に炎が立つ。彼はとびかからんばかりに聡一に駆け寄り、その胸ぐらをつかんだ。

 お前のせいか。

 そう、にらみつける目で詰問しながら。やはりお前の仕業だったんだな。お前が、月影さんに恥をかかせて、辛い思いをさせたんだな。彼女のあこがれていた舞台で、彼女のその思いを踏みにじったんだな。お前が……。

 湧き上がる怒りがカナトの腕に力を込めさせる。しかし片方のこぶしを握り締め、振り上げたところで、岩崎さんの声が背後からカナトを制した。

「やめて。その人は違うよ」

 それと同時に守口さんの手がカナトの腕を優しくつかむ。その手に吸い取られるように、カナトの腕から力が抜けていき、それと入れ替わるように冷静さがよみがえる。我に返ったカナトの耳に、岩崎さんのなだめるような声がまた、流れ込んできた。

「その人は、私と一緒に月影さんをかばってくれたんだ」

 カナトは聡一の襟元から手を放し、改めて彼の顔を見上げた。

 抵抗もせずにカナトのするに身を任せていた聡一は、一歩下がり、そして眉をひそめ唇をかんでそっぽを向く。

「殴りたければ、殴るがいい。結局は、俺のせいだ。だけど……」

 憎まれ口をたたいてから、痛みにこらえるように顔をしかめた。

「こんなつもりじゃ、なかった。俺はただ、あの人に喜んでもらいたかった。ただ、それだけだったのに」

 そうつぶやいた彼の目が、すがるように虚空を見つめる。その表情はどこまでも真摯で、純粋で、まるで子供のように邪気がなくて……。そこにはかつて彼が見せていた退廃的なものは微塵もない。不遜さも。傲岸さも。

 どうして……。

 カナトは聡一のみせた態度の意外さに戸惑い、言葉を失う。どうして、お前が月影さんをかばうんだ。どうして彼女を喜ばせたいと思うんだ。お前は彼女をからかっていたじゃないか。彼女を恨んでいたんじゃないのか。

 しかし聡一の少し濡れた瞳に灯る、澄んだ光を見て、カナトはようやく悟る。彼がその邪気のない目で今見つめているものが何なのか。ああ。お前も月影さんのことを……。

「俺は彼女をとどめることもできなかった。彼女は外に出ていったよ。カナト。お前が、追え」

 相変わらずそっぽを向いたまま言う、聡一のその頬を、一筋の涙が伝っていった。


「控室でお待ちの方。成瀬様がお呼びです」

 玄関へと足を向けたカナトの動きは、突然投げつけられた金属のような冷たい声によって止められた。

 振り向くと、案内係の女の人が廊下に立っていた。

 廊下の奥は隣接する和館とつながっている。その一室で、早々にお開きになった演奏会の会場を出た成瀬氏が、待っているということだった。

 案内係は刺すような視線でカナトを見つめている。お前みたいなガキが、成瀬氏を待たせるんじゃない。そう責めるかのように。

 立ち止まったカナトは逡巡する。

 はやく行かなければ。でも、どこに? レクチャーをするのか?

 カナトの脳裏に、先ほど会った成瀬氏の、贅肉のついた顔が浮かぶ。何をしようが止められんぞ。そう冷たく言いはなった、あの傲岸な態度と一緒に。

(負けるものか)

 あの小太りの中年紳士への対抗心が、怒りとともにカナトをからめとる。しかしその炎はすぐにしぼんでしまう。レクチャーをしてどうなる。月影さんは出ていった。たしかに彼女がうまくいかなかったときのために二段階作戦を考えた。でも、予想もしていなかった。彼女が演奏を放棄して出ていってしまうなんて。そしてそれを知った自分の心がこんなにも動揺するなんて。まるでひとりだけ取り残された気持ちだった。彼女が去ってしまった舞台で、僕がひとりで頑張ってどうにかなるのか。

 ならば、月影さんを追うのか?

 虚脱感がカナトを襲う。

 追ったところで、どうなるっていうんだ。そんなことしたって、もう何も戻らない。手を伸ばしたって無駄なんだ。彼女もいってしまった。母のように。綾子のように。

 その時、カナトの前に聡一が立ちはだかった。

「何をしている」

「何って、僕には、何もできない」

「馬鹿な」

 そう吐き捨てて、聡一はカナトをにらんだ。

「お前は彼女を追わなければダメだ。彼女が心配じゃないのか」

「でも、追ったって……」

「どうしてお前は!」

 突然聡一はカナトの胸ぐらをつかんだ。さっきカナトがそうしたように。それと同じくらいと思えるほどの怒りを込めて。

「どうしてお前はそうなんだ。どうしてお前は、大事なものを手放そうとするんだ。綾子の時もそうだった。綾子はな……」

 綾子……。高校一年の時に思いを寄せていた女子の名前を突然出されて、カナトは面食らった。聡一に奪われ、もてあそばれたと思っていた子。笑顔を失ったまま引っ越していった女の子。こんなところで彼女の名前を出されたことが不思議だったが、聡一は真剣な表情でそんな彼女の名をかたった。

「綾子はな。お前のことがずっと好きだった。お前のことをずっと待っていたんだ」

「気安く彼女の名を呼ぶな。嫌がらせをしていたくせに」

 そう言ってカナトは聡一の手を振りほどく。

 簡単に手を離した聡一は、しかし視線だけはカナトから離さずに答える。

「違う。俺がクラスメイトの嫌がらせから守ってあげてたんだ」

「無理やり彼女と交際していただろ」

「ただ、悩みごとの相談に乗っていただけだ。いいか」

 そして聡一はカナトの両肩をつかんでゆすぶった。乱暴な力は感じない。励ますような、目を覚まさせようとするような、そんなゆすぶり方だった。

「どんな時でも、彼女はお前だけを見ていた。引っ越していったあの日まで、ずっとずっと、お前を待っていたんだ」

 そう言い切ると彼は、カナトの身体を和館とは逆の玄関の方へと向けて、その背中を押した。

「レクチャーとやらは、俺が代わりにやっておいてやる。K大医学部現役合格のこの俺様がな。だからお前は安心して行け。あの人に、綾子のような思いをさせるな」

 振り返ったカナトに聡一は力強くうなずいてみせた。その表情は今まで見たいかなる時よりも真摯で自信に満ちていて、頼もしかった。

 カナトは初めて、長年苦手意識を持ってきたこの男に、親近感のような、仲間意識のようなものを抱いた。彼のことはわからないことが多くて、嫌な思い出も悪い印象もまだ強くこびりついているけど。けれども、とにもかくにも同じ女の人を好きになり、その人のために何かしたいという、同じ気持ちを持つ男だった。その意味で、確かに同志に違いなかった。

 悠長な足取りで廊下に出てきた玉川老人が、聡一の隣に立ち、彼の肩に手を置いてほほ笑んだ。

「わしらに任せるがいい。君も、月影さんも、もう十分に頑張ってくれたよ。あとは、わしらの番じゃ」

 彼だけではなかった。守口さんも、岩崎さんもカナトを促すように見つめている。そうとも、行きなさい。君達の努力は無駄にしないから。そう語りかけるように。

「でも、追いかけたって……」

 そのときふと、風を感じた。懐かしい感覚。これはあの公園で感じていた風だ。そう思うと同時に、頬をなでる風と共に、新緑の枝のさざめきが降り注ぐ。そのささやきに混ざって、オカリナの音が流れてきたようにカナトは感じた。

 本当に、追いかけることは無駄なことか?

 カナトは目を閉じて自問し、そして首を振る。

 彼の瞼の裏に橙色の光の粒が雨のように降り注ぐ。その光のまたたきの向こうに、いくつもの表情がよみがえる。

 星川賢三の画集を抱えてうずくまる月影さん。柔らかい光沢を放ってわななく唇。白い頬をつたい、きらめいていた涙。

 陽子さんから受け継いだドレスに身を包み「多摩の四季」を演奏する彼女の、祈るような表情。

 仲間たちと結朋堂ゆいほうどうの話をしてくれた玉川さんの澄んだ眼差し。

 たとえもう会えないものでも、もう届かないものだとしても、彼らのあの表情が、あの表情をつくらせたものが、虚しいものだとは思えない。追いかけた先にあるものがただの思い出の欠片だとしても、それは素晴らしいものなんだ。

 そうだ。僕は、追わなければ!

 カナトは静かに目を開き、一歩、足を前に出す。足は廊下の床をけり、彼の身体を宙に浮かせる。次の一歩、もう一歩。床をけるたびに、屋敷の玄関が彼の目の前に迫ってくる。

 カナトの頭は今、かつてないほどに澄み渡っていた。彼の中からまったく迷いは消えていた。もう、迷う余地はなかった。彼の前には今、向かうべき一本の道だけが、淡い光芒を放ちながらまっすぐに伸びていた。

 いこう。僕のいるべき場所に。

 月影さんのところに!

 そしてカナトは玄関の扉を開いた。

「いっけー! カナト」

 背後でした聡一の声に押されるように、扉をぬけ、彼は明るい外へ出る。九月のあたたかな陽が、彼の決意を祝福するように、サーっと彼の身体に照り注いだ。


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