第4章 大切な人

4-1 幸学の会

 幸学ゆきがくの会主催による演奏会は、幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんの一角にある、コスモス会館というところで行われた。

 コスモス会館というネーミングから、カナトは小さな集会場を想像していた。しかし演奏会当日、送迎の車から降りてその門前に立った彼は、その威容に圧倒されて言葉を失った。

「これが……。コスモス会館?」

 宮殿のそれのような、純白の大きな格子門を見上げながら、かすれた声を絞り出す。誰からも返事がないので振り向くと、守口さんも岩崎さんも口を開けて同じように門を見上げていた。月影つきかげさんは蒼白な表情でうつむいている。緊張させる要素はなるべく目に入れまいとするかのように。

 玉川老人だけが平然とした表情で、桜の落ち葉を杖でつついていた。

「何年もここに住んでいるのに、知らなかったかね」

 玉川たまがわ老人の言葉に、カナトはだまってうなずく。

 知らなかった。住宅地からも駅からも少し離れたこの谷筋に、普段は用もないので、近づいたこともなかったのだ。

「そういう、玉川さんは」

「知るわけがない」

 そう短く答えて、彼は笑った。

 門をくぐると白い砂利を敷き詰めた広い道がのび、その先に瀟洒しょうしゃな洋館がたたずんでいた。

 砂利道を進み、大きなモミの木に挟まれたレンガ造りの車寄せに入り、石段の奥にある重厚そうな玄関扉の前に立つ。

 カナトは深呼吸して自分の胸に手を置く。

 自分の鼓動が胸をゆらしているのがわかる。自分は今、緊張している。でも、大丈夫。月影さんが隣にいるから。彼女が教えてくれた。緊張を克服する方法を……。

 横を向くと、月影さんはますます顔を白くして、手で口を押さえていた。額に汗が浮かんでいて、目は半分しか開いていなくて、今にも胃の中のものを吐きだしてしまいそうだ。

「だ、大丈夫ですか」

「う……。ダメかも……」

 岩崎さんが心配そうに彼女の顔を覗き込む。

「ちょっと、深呼吸したらどうですか。ほら以前言ってたでしょ。こういう時は呼吸だって。さあ。ひー、ひー、ふー。ひー、ひー、ふー」

 岩崎さんは冗談のつもりで言ったのだろうが、今日は誰もつっこまない。いつもなら守口さんが何か言ってくれるところだが、その代わりに入り口の扉がゆっくりと、威圧するような軋みをあげて開いた。

 ホールに入ったところで一行はとめられ、二組に分けられた。演奏をする月影さんと付き添いの岩崎さん。演奏会の後で成瀬さんにレクチャーをするカナトと守口さん、そして玉川老人。

 なかなかそこから動けない月影さんを、タキシードに身を包んだホールのスタッフが冷徹な態度で追い立てた。なんとか左手の廊下の奥に彼女が消えるのを見届けてから、その小太りの男の人は心底面倒くさそうにため息をつく。

「君たちの控室は右手だ。そこで、呼ばれるまで静かに待っているように」

 たたきつけるような言い方だった。言うことだけ言って足を奥に向けかけて、しかし彼は思い出したように立ち止まった。

「あの時の子供か。あの店が、そんなに大事か」

 そしてカナトをにらみつける。首をかしげながら見返すカナトに、彼は口の端だけで笑いかけてみせた。

「今日はせっかく時間をとってやったんだ。あの日みたいに俺をにらみつけるだけなんて、勘弁してくれよ」

 カナトはようやく男の正体に気づいて、隣家の番犬を前にした猫のように身構える。全身に緊張が走る。こいつは、あの雨の日、結朋堂ゆいほうどうで月影さんをなじっていたやつだ。タキシードなんか着ているからわからなかった。ちょっと待てよ。こいつ今なんて言った。時間をとってやるって……、ひょっとしてこいつが……?

 カナトの頭に浮かびかけたことを口にしたのは、彼の背後にいた玉川老人だった。

「やあ。成瀬なるせさんじゃったか。めかしこんでるからわからなかったよ」

 老人の挨拶に、小太りの中年男は少しだけ頭を下げて応えた。

「俺に何を吹き込む気か知らんが、動き出した計画は、もう個人の力では止められないぞ」

「止めて、みせますよ」

 カナトは精一杯の虚勢を張って返事をする。喉までせりあがってきそうな鼓動を必死に抑えながら。

「ま、せいぜいがんばれ」

 成瀬氏は肉のついたあごをなでながらもう一度口の端で笑い、虫を振り払うように大げさに裾をはらって去っていった。

「何なんでしょうね。あれ」

 指定された控室に腰を落ち着けてから、カナトは小さな声でぼやいた。控室といっても豪奢ごうしゃな部屋だ。天井は高くて、広い窓からは庭園の噴水が見える。大きな暖炉の傍におかれたソファはふかふかで、気持ちいいのだけれど、座っていてもなんだか落ち着かない。

「しょうがないよ。我々はただの学生。何の地位も特別な能力も持っていないのだからね」

「そうそう」

 守口さんの言葉に、玉川老人が杖に寄りかかりながらにこやかにうなずく。

「覚えておくといい。人はまず見かけで判断する。容姿。服装。年齢。職業。地位……。人の中身をみろなどというが、それは外見で判断した後の話じゃ」

 そういう玉川老人の服装は、作務衣だ。ろくろの前で土でもこねていそうな服装。九月とはいえ寒くはないのだろうか。ちなみにカナトも守口さんも、冠婚葬祭用の真っ黒なスーツに身を包んでいる。

「そういえば、玉川さんは、薬局グループの社長さんなんですよね」

 守口さんが思い出したように尋ねると、玉川老人は彼の言いたいことを察したように苦笑いした。

「世田谷で三店舗経営しているだけのな。とてもじゃないが億からの金を捻出できるような財力はないんじゃよ。会社的にも。個人的にも」

結朋堂ゆいほうどうは赤字だったでしょう。最初から儲かりそうもなかっただろうに。そもそもどうしてあそこに店を開こうとしたのですか」

「わしにもわからんかった。たまたまある日、うちの社員だった月影さんに連れられて、あそこに行って、あの建物を見て……。そしたら、あそこを借りねばならんという気持ちになったのだ。ずっとその理由が自分でもわからなかった。この前、君たちの発表を聞かせてもらうまでは」

 君たちの発表。それが一週間前に結朋堂で行われた、自分のレクチャーと月影さんの演奏であることが、カナトにはすぐにわかった。

 玉川老人は遠い目をしてしばらく窓の外を見つめていたが、やがて思い出話を語るような口調で話しはじめた。

「あの発表をきいた後、わしは思い出したんじゃ。それまで忘れていたことが嘘のように。あの時のことを。学生時代のことを。結朋堂で過ごした日々のことを。……星川さんのことを」

 そして目を閉じ顎をあげて、何人かの名前をそらんじた。

「恩田君。木下君。田中君……。みんな、あそこでともに時間を過ごし、議論した、仲間だった」

「恩田って、ひょっとして……」

「そう。以前結朋堂に入っていた恩田書店の、店主じゃ。それだけじゃない」

 老人は作務衣の懐から何枚もの紙をだして、テーブルの上にのせる。そこにはいくつもの店の名前と、人物名が記されていた。それは守口さんが以前法務局で調べてくれた、結朋堂に入っていた歴代の店舗と店主のリストだった。

「ビデオ店・結朋堂。木下道直」「電気屋・結朋堂。田中孝治」「骨董品店・結朋堂。村山良助」……。

「前のビデオ店も、その前の本屋も、そのまた前の骨董品店も、みんな、あそこで過ごした仲間たちがやっていたんじゃ。結朋堂の名前を受け継ぎながら。あの建物を守るために」

 いったん口を閉じた玉川老人はなかなか次の言葉を出さなかった。出そうにも出せないようで、ふたたび外の風景に視線を向け、目をしばたたかせる。しばらく口をもぐもぐ動かしてからようやく発した声は、少ししめっていて震えていた。

「わしだけ忘れていた。いや。記憶を閉ざしていたんじゃ。星川さんとの別れがあまりにつらかったから。わしだけ逃げていた。でも、彼らは違った。ちゃんと忘れずにつないでいてくれた。それだけじゃない。彼らは……」

 そして、カナトと守口さんを見つめる。長く垂れた眉の下の目を、今までないくらいに大きく開いて。その目から、一筋の涙をこぼしながら。

「彼らは、君たちのような若者を残してくれた。あの建物への愛着を受け継ぐ若者を。今まで思い出から逃げていたわしにこんな資格はないかもしれないが、わしは彼らに感謝したい。そしてわしの記憶を呼び起こしてくれた、君たちにも」

 彼はまた作務衣の懐に手を入れ、今度はノートほどの大きさの封筒を取り出し、愛おしげにその表面をなでた。

「今あの会場にいる者たちは地位も金も持っている。彼らは人を外見で判断する。弱いとみた者からは、何だって奪うことができる。でも、彼らが決して奪えないものを君たちは持っている。わしもかつて持っていたものだ。これを……」

 そして、その封筒をカナトに差し出した。

「これを、君に託そう」

 カナトがその封筒を受け取ると、玉川老人は深々と頭を下げた。ありがとう。心の底から湧き出るような、あたたかい声でそう言いながら。

 老人にうながされてカナトは封筒の中のものをだしてみる。そこに入っていたのは一枚の写真だった。古い写真。そこに写っているのは、結朋堂を背にした何人かの学生の姿だった。ひとりだけ女の人が、真ん中に立ってほほ笑んでいる。コスモスの刺繍のあるあの白いドレスを着て。田山氏の部屋にも置いてあった写真。玉川さんも持っていたんだ。

「こんなに大事なものを……。いいのですか」

 玉川老人がしっかりと手を握り締めるようにうなずく。

 老人の力強い視線に応えてカナトが写真を受け取ろうとした、その時だった。部屋の外で騒がしい足音と声がしたかと思うと、突然扉が開かれた。

 廊下から顔をのぞかせたのは岩崎さんだった。彼女は珍しく息を切らしながら、乱れた髪もずり落ちかけた眼鏡も直そうとせず、早口に報告した。

「月影さんが……、出ていっちゃった」

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