3-13 玉川老人の追憶・後

 成瀬氏の持ってきた話というのは、この結朋堂の土地の、賃貸料の値上げ通告であった。結朋堂は幸ノ丘学園から借りた土地に建てられたのだが、昨年、財政難の学園から成瀬氏にその土地は売却されていた。成瀬氏になってから賃料は高くなり、支払いはギリギリだった。それを来年から二倍に上げるのだという。それは経営悪化した今の結朋堂にはとても払えるものではなかった。

 金をはらえなければ、星川さんはここから立ち退かなければならない。

 幸次は必死に頭を絞る。支払うことができる方法。立ち退かずに済む方法。

「結朋堂が儲かって、収入が増えれば、なんとかなるのでは。何か、できることはないでしょうか」

 星川さんは弱々しく首を振る。

「そんな方法。もう何も考えつかないよ。今までだって頑張ってきたんだよ。でも、何一つうまくいかなかった」

 確かに彼女の言うとおりだ。それがすぐにできるのなら苦労はない。もちろん幸次にも、何も思い浮かばない。きっと、ほかのだれにも。

 ちなみに、後ろ盾であった幸ノ丘学園創設者の児嶋正芳も、今はもう亡くなっているという。助けてくれる者も、誰もいないのだ。

「絵を……。売ったら……」

 長い沈黙の後、思い切って幸次が提案すると、星川さんはとても悲しそうな表情をした。

「それをしたら。父の絵は、バラバラになってしまう。そしたら、もう……」

 最後まで言えずに、星川さんはうつむいてしまった。

 幸次は彼女が何と言いたいのかすぐにわかった。彼女の夢を、知っているから。賢三の絵が散逸してしまったら、もう二度と、星川さんに賢三の美術館をつくることはできなくなってしまうだろう。

 生まれた時から暮らしている、思い出の詰まっている場所から出ていくのはつらい。しかし彼女には、父の遺産を失うこともまたつらいはずだ。そこには、彼女の夢があるから。

 しかし、今や彼女はどちらかを選ばなければならないところに追い込まれていた。

 夢か。思い出か。

 そして星川さんは、夢を選んだ。

「ごめんね。せっかく来てくれたのに、情けないところを見せちゃって。そうだ。今度、お別れ会みたいのやろう。閉店パーティーみたいな……」

 帰り際、店先でそう声をかけてくれた星川さんの顔には、いつものほほ笑みがもどっていた。しかし幸次はすぐにわかった。それが無理をしてつくっているほほ笑みだということを。そこに晩夏のたそがれどきの陽がかかり、物憂げな濃い影をつくっていた。

 幸次は彼女から顔をそむけるように頭を下げ、踵を返して結朋堂を後にする。一歩。また一歩……。結朋堂から離れるにしたがって、彼は言い知れぬ怒りを己に感じた。もっと、自分に金があれば。彼は手をきつく握りしめながら思う。もっと金を持っていれば。もっと自分に知恵があれば。もっと自分に、地位があれば。そうすれば、星川さんに結朋堂を捨てさせずに済んだのに。ああ。もっと自分に力があれば!

 坂を途中まで下って振り返ると、星川さんはまだ店先に立っていて、背伸びをするようにして手をあげ、幸次に向けて大きく振ってくれた。その光景を包むひぐらしの声が、降り注ぐというよりは空に吸い込まれてゆく。彼女の背後に広がる、暮れ色に染まりゆく空に。いつもより騒がしく、悲しく。全てを連れ去ろうとするかのように。


 結朋堂とのお別れ会は、十月の終わりごろに行われた。

 結朋堂に集まったのは、幸次と、ここに通っていた数人の幸ノ丘学園の学生。学ランを着て角帽をかぶった彼らも目を潤ませ、結朋堂と星川さんとの別れを口々に惜しんだ。

 店先にはテーブルが出され、そこに酒とグラスが並んでいる。しかしさっき奥に引き込んだ星川さんは、なかなか姿を現さない。勝手にグラスについだ酒を飲みながら成瀬氏の悪口に夢中になっていた学生のひとりが、心配そうに店の方に視線を向けた。

「星川さん……。どうしたんだろう」

「きっと、泣いているんじゃあ、ないかな」

「やっぱりつらいよな。悲しいよな」

「おい、幸次君。君、ちょっと様子を見てきたまえよ」

 幸次は眉をひそめて首を振った。彼もきっと星川さんは奥で泣いているのだと思う。だからこそ、そっとしておいてあげたい。そう、思うから。

「我々もそうは思うが、今日の主役だから……」

「頼む。星川さんの姿を見納めておきたいんだ。君が一番彼女と親しかったではないか」

 酒も入っている数人にそうおされてしまえば、断り切れない。彼はしぶしぶ店の方へ足を向けた。

 その時だった。閉まっていた入口の戸が開き、中から人が姿を現した。

 店先から、ざわめきが消えた。

 皆言葉を失い、口を開けて店の戸の前に立つ人物に視線を向ける。

 そこに立っているのは、星川さんだった。いつものようにほほ笑みながらみんなを見つめる。しかしその恰好はいつもと全く違っていた。膝下までの丈の釣り鐘型のスカートの、シンプルなドレス。紺色のストールを肩にかけ、髪には純白のヘアバンドをつけている。白いそのドレスに身を包んだ彼女は、ちょっとはにかんだように、ほほをわずかに染めていた。

「みんな。お待たせ」

 一瞬の静けさの後、学生たちから歓声が上がった。みんな彼女の周囲に駆け寄って口々に賛辞を浴びせる。

「素敵です」

「美しい」

「妃殿下みたいだ」

 そう。それは当時流行していた、ミッチースタイルだった。その年ご成婚された、皇太子妃殿下のまとっておられた服装の一つを真似たものだった。

「どうしたんです。それ」

「うん。妹から借りたの」

 星川さんは学生一人一人に笑顔でこたえ、礼の言葉を返す。やがて彼らの輪から出てきた彼女は、優雅な足取りで幸次の前に歩み寄った。

「どう。似合うかな」

 そう首をかしげながら問い、スカートをちょっとつまみ上げてみせる。その仕草が可愛らしくて、幸次は思わず頬を赤くする。どぎまぎしてうまく言葉を探せない彼は、

「ええ。まあ」

 とだけ、ぶっきらぼうに返事をした。

「まあ。照れちゃって」

 そう言って笑った、星川さんの大きな瞳が濡れていることに、その時ようやく彼は気づく。

 その瞳で少しの間幸次のことを見つめてから、星川さんは皆に向き直って手をあげた。

「みんなー。写真撮ろうよ」

 枯れ色の葉の目立ちはじめた、桜の枝の下に、シャッター音が鳴り響く。結朋堂を背にして、星川さんを中心に並んだ人々。彼らの笑顔や泣き顔が、その乾いた機械音とともにフィルムに写し込まれてゆく。

 写真撮影を終えようというとき、突然誰かが大きな声で歌いだした。声を震わせながら。鼻をすすりながら。

 それは、この地域の歌として最近作曲された、「多摩の四季」という歌だった。この土地の四季を、自然を、故郷への愛着を込めてうたった曲。

 最初の歌声は嗚咽に飲まれるように小さくなり、やがて消えそうになる。すると、別の者がそれを支え励ますように歌いだした。その隣の者も。そのまた隣の者も。

 星川さんも体を揺らしながら彼らに続いて歌いはじめた。それに合わせて幸次も声をはりあげる。しまいにはその場にいる全員での大合唱となった。肩を組み、顔と顔を見合わせ、時に声を詰まらせながら、誰もができる限り大きく口を開けて、むきになったように歌い続けた。

 幸次も。星川さんも。

 泣き、笑いながら。

 この店との別れを惜しむように……。


 それから一月後。結朋堂から星川さんは去っていった。

 空っぽになった建物を茫然と見上げる幸次に、彼女は大阪にある母方の実家に行ったことを、常連だった学生のひとりが教えてくれた。



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