3-12 玉川老人の追憶・前

 玉川幸次たまがわゆきじがその日多摩方面へ出かけようと思いたったのは、近年運行開始された新型特急に乗ってみたかったからだ。そして幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんという駅で降りたのは、上京したばかりの学生である彼には金がなかったのと、丘陵に挟まれた田舎らしい風景が故郷を思い出させたのと、自分と同じ幸の字のついた駅名に親近感がわいたからだった。

 駅前の小さな商店街を、幸次ゆきじは人の少ない方少ない方へと歩いて行った。まだ東京の人の多さになれない彼は、自然と人のいないところを求めてしまう。新宿の街など歩いていれば、体がふわふわして地に足がついていないみたいに感じる。それは自身の心の不安定さを表してもいるのかもしれないと、彼は思う。今年入学した薬科大の授業は思いのほか難しく、東京での独り暮らしは心細い。本当に自分はやっていけるのだろうか。昨年完成したばかりの東京タワーを見上げるたびに、希望や誇らしさよりも不安や恐ろしさを感じてしまう。今の彼はそんな人間だった。

 少し歩くとすぐに商店は途切れ、線路と反対側の斜面は竹林になった。木漏れ日の落ちる田舎っぽい道を歩いていると体に力が戻る。坂はきついが繁華街を歩くよりも気持ちは楽だった。

(よし。あそこの桜の下で少し休むか)

 坂の上には雑木林に囲まれて一軒の商店がポツリと佇んでいた。ヨーロッパの建物のような正面の外観。でもそれは表だけで裏は普通の木造家屋だ。その店先にベンチが出ていて、そこに桜の枝から散った花びらが、チロチロと煌めきながら降り落ちていた。

 ベンチに腰を下ろしてしばらく春風に揺れる桜の枝を見上げていると、背後で鼻歌がきこえた。

「ここ。座っていい?」

 幸次が振り向くと同時に、木製のベンチがわずかに沈んで隣に声の主が座った。若い、女の人だ。

「君。学生さんだね」

 幸次は答えずに唖然と彼女を見つめていた。あまり女の人と話したことがないので、恥ずかしくて何と答えたらいいかわからない。しかも結構な美人さん。自分よりは年上みたいだ。落ち着いた雰囲気だけど、二十代半ばくらいだろうか。黒い髪を後ろで束ねた彼女は、手にしたラムネを一口飲んで、眩しそうに桜の枝を見上げた。

「今日はあったかいねえ。君も飲む?」

 そしてもう一本のラムネを差し出しながら、幸次をみてニイっと微笑んだ。

「私は星川雪子ほしかわゆきこ。この結朋堂ゆいほうどうの店主だよ」


 それから幸次は、毎週のように結朋堂を訪れた。

 癒しを求めて。星川さんと会うために。

 そこは上京して初めて彼が得た、心安らぐ場所だった。結朋堂の周囲、そして星川さんの傍だけは、この成長に追われる都会の喧騒を遮断して、ゆっくり時が流れている。やっと居場所を見つけた。そんな気持ちを、結朋堂を訪れるたびに彼はかみしめた。

 星川さんは大変教養のある人でもあった。文学や歴史、とりわけ絵画に造詣が深く、ことあるごとにいろんな話を語り聞かせてくれた。

 店先のベンチに座って。ラムネをちびちびと飲みながら。

 どんな内容も彼女の話は興味深く、幸次に時間を忘れさせた。無機質な薬物名や化学構造を詰め込む日々を送っている彼には、それは乾いた心を潤す、オアシスのような貴重な時間だった。

 たまに文具を買いに来る幸ノ丘学園の学生とも次第に交流を持つようになった。様々な考えや知識を持つ彼らと話をしたり議論をすることも、幸次には楽しかった。ああ、自分は生きている。生きていて、考え、話すことを楽しんでいる。幸次は彼らとの交流の中で、しだいにそう実感できるようになっていった。

 いつしか彼は、結朋堂に行くことを毎週の楽しみにするようになった。結朋堂から帰るときはいつでも、もう翌週訪れることを考えている。その時のことを考え胸を躍らせている。彼にとってはもう、結朋堂は東京生活に欠かせぬ、人生の大事な一部分となっていた。

 星川さんが結朋堂二階の洋間に幸次をあげてくれたのは、初夏のある雨の日だった。その日はほかに学生もいなくて、いつも出してくれるラムネもきらしていて、奥の休憩室でぼんやり雨音に耳を傾けていた彼女は突然「そうだ。いいもの見せてあげる」と言って立ち上がったのだった。

 二階の広い洋間にあったのは、たくさんの絵画だった。壁面に所狭しとかけられてあって、それはかつて写真で見たことのある外国の美術館のそれを彷彿とさせた。部屋の真ん中にはキャンパス立てが立ったたままになっていて、テーブルや床にたくさんの絵の具やバケツや画材などが散らばっていた。

「ここはね。お父さんのアトリエだったの」

 星川さんは遠くを見つめるように目を細めて、優しい声で語ってくれた。

   * * *

 父はね、画家だったんだ。

 星川賢三。知らないかな。私が生まれるころに画家をやめちゃったみたいだからね。

 この店をつくったのは彼なんだよ。そこの幸ノ丘学園ができたときに、友達の夢を支えるんだって。

 おかしいよね。そのくせ、こんな学校から離れた街の端っこの、寂しい場所に造っちゃってさ。

 父は人が苦手なのかなあとか思って、一度聞いたの。そしたら「ここが本町とこの街を結ぶ点なんだ。じきに幸ノ丘学園はここまで商店や家でいっぱいになる」だって。

 父は、ここを学園と地元をつなぐ場所にしたかったんだ。

 学生さんたちと地域の人々の交流できる場に。

   * * *

「そんな父ももう、何年も前に亡くなった。今はもう、バスターミナルもなくなって、街の中心は駅前になっちゃったし。お客さんもほとんどいなくなっちゃったけど。だけど……」

 星川さんは、その空間に残る思い出の残り香をかぐように息を吸いながら、部屋を見渡す。

「この店は、残したいなあ……」

 雨が止んで陽がさしたのか、その時部屋の中が突然白い光で満たされた。星川さんの向ける視線の先で、アーチ型の窓が無数の小さな光の粒を瞬かせている。

 星川さんは鼻をすすって、指で目の下をぬぐった。

「いつかね。ここにお父さんの美術館をつくりたいの」

 そして幸次の方を向いて微笑んだ。彼女のその目じりにはまだ涙の粒が宿ってきらめいていた。

 そんな彼女を、幸次は美しいと思った。今まで出会ってきた人、風景の中で最も美しいと感じた。そしてそんな彼女を見つめる自分の中に今、不思議な感情が宿っていることを認識し、彼は戸惑い動揺する。

 胸が激しく鼓を打っている。苦しく、甘い感情。これは一体何なのだ。

 そして彼は今さら漠然と気づく。きっとこれが恋であり、そして憧憬なのであろう、と。


 星川さんに対する憧憬。恋心。それらは本格的な夏に入り気温が上がるのに合わせて、幸次の中でますます高まっていった。それは降り注ぐ蝉しぐれのように騒がしく、青空に浮かぶ入道雲のように力強く盛り上がり、そして噴き出る汗のように彼の体内からほとばしり出た。

 星川さんもそんな幸次を弟のようにかわいがってくれた。

「玉川君がいてくれると助かるわ。にぎやかだし、店番もしてくれるし」

「ええ。なんでもいいつけてください」

「おっ。えらいねえ。じゃあ、お駄賃あげよう」

「もう。子ども扱いしないでくださいよ」

 星川さんが差し出してくれたラムネに口をつけながら幸次は口をとがらせる。弟分としてではなく、男としてみてもらいたい。そんな欲求が頭をもたげ、彼に背伸びをさせようとする。

「僕はこれでも成績優秀者として名前を張り出されたんですよ。そのうちノーベル賞だってとるかもしれません」

「そうしたら、私は君のお嫁さんにしてもらおうかなあ」

 そして星川さんは大きな声で笑った。幸次もそれにつられて笑いだす。君のお嫁さん。そんな彼女の冗談に胸をときめかせながら。そして思う。

 本当にそうなってもらえたらどんなにうれしいだろう。結婚なんて遠い先の話に思えるけれど。自分なんか彼女とは不釣り合いで、夢みたいな空想だけど。でも今のこの楽しい日々が続けば……。続けてゆけるなら、ひょっとして、そんな夢もそのうちかなうのかもしれない。

 しかし、そんな幸次の幸福な時間は長くは続かなかった。

 その人物の来訪があったのは、夏休みも終わりを迎えた、九月のある日曜のことだった。

 いかめしい髭を生やした、小太りの中年の紳士。成瀬と名乗るその男が店に入ってくると、星川さんは表情をこわばらせて彼を奥の休憩室に通した。

 店番をしながら幸次は、星川さんに何かあったらすぐに助けに行こうと耳をそばだてていたが、奥からは何も聞こえてこなかった。

 一時間くらいはそうしていただろうか。やがて扉が開いて成瀬氏が何食わぬ顔で出ていった。しかし、何分待っても、星川さんは姿を現さない。幸次は心配になって奥の休憩室をそっと覗いた。

 星川さんはちゃぶ台に頬杖をついてじっと壁を見つめていた。話しかけるのをためらわせるような、真剣な、怖い顔で。

「ねえ……。玉川君」

 しばらくして星川さんは壁を見つめたままつぶやいた。言葉を詰まらせながら。しかしはっきりと、覚悟を込めて。

「私。このお店を、たたもうと思うの」

 言い終わって口を閉じると、その目から涙がひとつぶ、またひとつぶと零れ落ちていった。

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