3-11 最後のリハーサル

 最後のリハーサルには、玉川老人も招待した。

 ちなみに本番には彼が会場に引率してくれるらしい。並みいる紳士淑女の前で若者たちが失礼のないようについていてくれるという彼は、いつもカナトが座っていた窓際の席に座ると、しばらく苦しそうに咳をした。

「大丈夫ですか」

 そう言って気遣う守口さんに、老人は何度かうなずいて問題ないという意思を示し顔をあげる。そして部屋の中心に立つカナトと月影さんを交互に見やり、白い眉の下の細い目をさらに細めた。

「さあ、きかせてておくれ」

 まるで孫の学芸会を見に来たお爺ちゃんだ。そのしわくちゃの微笑に誘われるように、カナトは一歩前へ出る。

「では、僕から」

 そしてノートを開き、発表をはじめた。

 書かれている字に時々視線を落としながら、懸命に言葉を紡ぎだすカナトの脳裏を、これまでに過ごした夏の日々が走馬灯のように駆け巡っていく。幸ノ丘学園ゆきのおかがくえん児嶋正芳こじままさよし。学問の理想郷。看板建築。シルクロード。路線バス。そんな単語を口から出すたびに、それを調べた日のことを、図書館から見上げた空の色を、雲の形を、差し込む光の色を、つぶさに思い出すのだった。

 カナトの声は震えていた。それが緊張のためかそれともこみあげる感慨のためかは、彼自身にも分からなかった。

 時々窓辺の席に座る面々に視線を向ける。守口さんも岩崎さんも真剣な表情で聴いてくれている。別のテーブルについている月影つきかげさんも、緊張した面持ちで、手を握り締めてカナトを凝視している。ただ、玉川老人だけは少し顔をうつ伏せて、その表情はよくわからない。おきているのか寝ているのかもわからない。ただ彼は、日の当たる縁側で転寝をしているかのような風情で、心地よさそうに上半身をゆらしていた。

 そんな玉川老人の様子に異変が出はじめたのは、カナトが星川賢三ほしかわけんぞうの話をはじめた時だ。彼の発表の核でもあり、最も強調したいところ。結朋堂の文化遺産たる根拠を示すエピソード。

「星川……。はて? 星川じゃと……」

 玉川老人はこめかみに指をあてて、しきりにつぶやく。テーブルにのせたもう片方の手が、プルプルとふるえだした。

「あの……。玉川さん……」

「ああ、かまわん。つづけて」

 老人に促されてカナトは、口に出しかけた言葉を飲み込んで、ノートに視線を戻した。玉川さんは、記憶を戻しかけている。それを感じながら、しかし彼は思う。でも自分たちが田山氏から聞いたことをそのまま伝えたところで、きっと意味はないのだろう。彼の記憶の底の蓋を開けられるのは、彼自身なんだ。今自分にできることは、発表を最後まですることだ。

 カナトは発表をつづけた。

 星川賢三の、短い活動期間の間に残した業績。彼が児嶋正芳の知り合いだったこと。児嶋の理念に共感した最初の人々のひとりだったこと……。

 星川賢三は、学園創設とほぼ時を同じくして地元でもある中谷村に移った。児嶋の夢に寄り添うためだったという。しかし学園前には店を構えず、あえて離れたあの場所に造った。当時中心街の本町に対する玄関口であったあの場所に。学生や学校職員と地元住民を結ぶ交流の場とするために。

「この結朋堂ゆいほうどうは立派な文化遺産です。そして学園とこの地域を結ぶ象徴でもあったのです。だから、我々市民はこれを継承してゆくべきと思うのです」

 そう、締めの言葉を言い終わり、カナトは頭を下げた。

 土曜の午後の、白い光の満ちる洋室に、拍手がわいた。

 うなずきながら手をたたいてくれる、結朋堂の人々。守口さん。岩崎さん。そして月影さんが、優しいまなざしでカナトを見ている。「よくやったね」。そう、褒めてくれるように。

 僕じゃない。

 彼らの表情を見ながら、カナトはしんみりと思う。

 僕の力じゃない。守口さんが導いて、助けてくれたからできた。岩崎さんが励ましてくれたから続けられた。そして、月影さんへの想いがあるから、達成できたんだ。僕独りではきっと、何もできやしなかった。これは、みんなのおかげなんだ。

 彼らへの感謝を込めて、カナトは深々と頭を下げた。

 玉川老人もゆっくり手をたたいている。ただ、その細い眼は、カナトではないどこか遠くに向けられていた。唖然と開かれた口は同じ動きを繰り返す。「ホシカワ……ホシカワ……」そう口ずさんでいるようだった。

「次は、私」

 そう言って月影さんが立ち上がり、岩崎さんを従えて部屋から出ていく。着替えるためだ。彼女たちが用意した最後の衣装。本番用の衣装に。

 月影さんたちの着替えを待つ間も、玉川老人は難しい顔をして、しきりにつぶやきをつづけた。

「何か思い出しそうなんじゃ……。何か、大事なことを……。忘れていたことを……。でも、本当は忘れてはいけなかったことを……」

 そんな言葉を発しているのが聞こえる。カナトは声をかけようとして、しかしそれをやめた。今の玉川老人の思考を邪魔してはいけない。今、彼の中で大事なことがよみがえろうとしている。それは我々にとっても重要なことなんだ。

 それよりもカナトは扉の方を注視した。これから入室するであろう人物の姿を想像しながら。これまで、毎週驚かされてばかりだった。だが月影さんのコスプレもこれで最後だ。もう驚くまい。何が出てきても拍手で迎え入れてあげよう。そう、自らに言い聞かせて。

 やがて、遠慮がちな軋み音をたてながら、扉が開いた。

 手を胸の位置まで上げて用意していたカナトは、しかし拍手することを忘れた。さっき自分に言い聞かせた覚悟も忘れた。代わりに彼は、目をこれ以上できないほど丸く見開いて、入室してきた人物を凝視した。

 彼女は白いドレスに身を包んでいた。ミモレ丈の、釣り鐘型のスカート。でもリボンなんかはついていない。胸にフリルもついていない。上も下もシンプルで、しかし気品のあるスマートなドレスだった。その細い肩に紺色のストールをかけ、結い上げた髪には純白のヘアバンド。化粧は控えめだが、それが彼女の肌の美しさをひきだしていた。眼鏡はかけていない。しかしコンタクトも入れていないらしく、彼女はおぼつかない足取りで部屋の真ん中まで進んで、不安そうにあたりを見渡した。

 誰ですか。とは、もうカナトはつっこまなかった。

 それは月影さんだった。まったく彼女らしくない格好だけど。まるで庶民らしくなくて、薬剤師らしくもなくて、映画のキャラクターとも違っていて……。でも、まぎれもなくそれは月影さんだった。今までで最も美しい月影さんだった。彼女を最も美しく彩り引き立たせる最上の衣装に身を包んだ、月影さんに他ならなかった。

 そしてカナトはその衣装を知っていた。あの田山氏の部屋で見せてもらった写真の中の人が着ていたドレス。スカートの裾に、数輪のコスモスの花が刺繍してある。

 玉川老人が、いつの間にかつぶやくのをやめていた。ただ唖然と月影さんを見つめている。ただ、それはカナトも守口さんも同じ。そして、その視線に応じるようにひとつうなずいて、月影さんはオカリナを構える。

「多摩の四季」

 短く曲名をつぶやいてから彼女は目を伏せ、楽器に息を吹き込んだ。

 それは不思議な曲だった。岡哀子おかあいこの曲ともポピュラーミュージックとも、アニソンとも雰囲気が違う。哀しい旋律でも楽しいリズムでもない。でも、聴く者の胸を締め付ける。どこか懐かしい気持ちを抱かせる。そんな曲だった。

 多摩の四季……。その曲名の示すとおりだった。目を閉じると様々な情景が瞼の裏に浮かんだ。花散らす桜並木。新緑の森。夕焼け空。枯れ枝に咲く雪の花……。故郷の風景が、生まれ育った土地に対する想いが、しんみりと心に染み入ってくる。

 鼻をすする音が聞えたので、カナトが振り向くと、玉川老人が顔を両手で覆って泣いていた。

「ああ……。どこにもいってほしくなかった。ずっとあなたと一緒にいたかった」

 しばらく嗚咽を漏らし、彼はようやく手を離して顔をあげる。少年のようなまなざしを月影さんに向け、

「星川さん」

 そうはっきりと口ずさんだ。彼のその頬を、目から零れた涙が一粒、つたい落ちていった。

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