3-10 その人の名は

 はやく着け。はやく!

 帰りの電車の中で、カナトは何度も念じた。駅につくたびに流れる呑気なアナウンスやドアの開け閉めを、この時ばかりは早送りしたくなった。駅から結朋堂へ向かう道のりが遠く感じられた。いつもはのんびりのぼるあの坂道を、まるで体にエンジンがついているかのように一気に駆け上がった。

 それほど、はやく確認したかった。

 月影さんと結朋堂の関係を知ってしまったから。そしてついに、結朋堂ゆいほうどうの正体にたどり着こうとしていたから。

 かつて結朋堂を切り盛りしていた星川雪子ほしかわゆきこさん。月影さんは彼女の妹の孫だった。そして結朋堂を創ったのは雪子さんの父で、つまり、月影さんの曽祖父というわけだ。有名な画家であったという、雪子さんと陽子さんの父。その人物の名を、最後に田山氏は教えてくれた。その名前をカナトも月影さんも知っていた。どこかで見ていた。どこで見たのか、すぐに思いあたった。そしてそれを今まさに確認しようとしていた。


 巨大な板チョコのような扉をカナトがあけると、月影さんは脱兎のように躊躇なく洋間にとび込んだ。つまずきそうになりながら壁際の棚にすがりついて、一冊の分厚い本を取り出す。いつも眺めていた画集。「多摩の郷愁」と刻印された表紙の下の方に、その人の名前は書いてあった。

星川賢三ほしかわけんぞう

 その画集の著者。画集に載っている絵を描いた画家。そして、結朋堂を創った人の名だ。

 両手に持ったその画集の表紙を眺める月影さんの顔に、窓から差し込んだ秋の午後の光が当たっている。頬が柔らかな白さでかがやき、半開きになってふるえる唇がつややかな光沢をはなつ。長いまつ毛の下でゆれる瞳は透きとおっていて、まるで水紋のゆれる湖の底のようで……。

「ひいおじいさん……」

 画集を抱きしめた月影さんは、そう、絞り出すように言って床に座り込んだ。


「まさか、こんなところで手掛かりがつかめるとは」

 その週の土曜日、カナトの発表の後、守口さんはテーブルの上におかれた本に視線を落としながら腕を組んだ。

「絵画とは、盲点だったねえ。ところで有名なの? この星川って人」

「絵のことはよくわからないけど……。有名でなければ、こんな画集が出たりはしないでしょう。あの田山さんも有名だと言っていたし」

 月影さんがテーブルからその本をとって「多摩の郷愁」と書かれた題字をなでた。

 カナトも月影さんに賛同するようにうなずき、手にしていたノートの付箋を貼ったページを開く。彼の調べた、星川賢三についてのメモの書かれたページ。

 星川賢三は大正から昭和初期に活躍した画家、文筆家だ。一九〇一年、東京中谷村(現いちだ市幸ノ丘学園)に生まれる。東京芸術学校卒業後、若くして日展に入選する。主に市井の風景を描き、その絵は国内外から高く評価された。気鋭の画家として将来を嘱望されていたが、一九三〇年に突如として故郷に隠棲してしまう。その後はとくに作品を世に出すこともなく、自らデザインして文具店を造り、結朋堂と名付けてそこで生涯をすごした。一九五一年没。

 さらに、画集のあとがきには賢三けんぞうの故郷に対する想いもつづられていた。そして幸ノ丘学園創始者児嶋正芳との友情も。その夢を支える手助けがしたくて店を創ったという告白も。

 かつて一世を風靡した画家、星川賢三。この結朋堂は彼の引退後の貴重な作品の一つだった。そしてそれは創建間もない幸ノ丘学園を支えるために創られたものだった。だとしたら……。

「だとしたら、この結朋堂は立派な文化財だ。後世に残すべき文化遺産だ。これは説得力がある」

 守口さんの言葉に皆がうなずいた。

 ひょっとしたら……。

 かすかな、ほんのかすかな期待がそんな彼らの表情に、ほのかにやどっている。ひょっとしたら本当に、この古ぼけた建物を守ることができるかもしれない。と。

 守口さんはカナトに向き直って、確認するように彼の目を覗き込んだ。

「成瀬さんからは、再来週の演奏会の後でどうかとお話があったんだ。これなら、その日で大丈夫だね」

 成瀬さんも幸学の会の会員で、例の演奏会にも出席するらしい。その演奏会の後に、話を聞く時間を設けてくれているというのだ。

 無論。望むところだ。

 カナトには異論はない。明日にでもこの話を聞かせてあげたいくらいだ。鼻息を荒くして彼はもう一度力強くうなずく。待っていろよ地主さん。あんたの考えを覆させてやる。

 カナトの意気に呼応するように、今度は月影さんが勢いよく椅子を引いて、立ち上がった。

「じゃあ、私も気合を入れて吹くね。再来週は本番。来週はリハーサル。でも今日も、本番のつもりでいくよ」

 そして机の上に置いたケースからオカリナを取り出し、部屋の真ん中に行って構えた。

 岩崎さんは席についたままだ。

 あれ。今日は着替えないのか。

 カナトは守口さんと同じ角度に首を傾げる。さては、さすがにもうネタ切れか。

 不審げに眉をひそめるカナトに、岩崎さんが意味深な薄笑いをむけた。

「月影さんの家で、いい衣装を見つけたの。本番はそれを着てもらう。今クリーニングに出してるから、来週のリハーサルでお披露目よ。楽しみにしていて」

 彼女の目が光り、口の端があがる。なんか、怖いなあ。そう思うと同時に、本番用の衣装に身を包んだ月影さんの姿を想像して、カナトはひそかに心躍らせた。

 うまくいく。きっと、何もかも。オカリナに息を吹き込む月影さんの姿を眺めながら、カナトは胸に沸くその予感に心地よく身をゆだねた。




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