3-9 いざ鎌倉

 調べたところ、絵本の作者、田山砂塵たやまさじんは今もちゃんと存命で、今は鎌倉に住んでいる。電話に出た声はしわがれていて不愛想だったが、あの結朋堂ゆいほうどうで働いている者だというと、意外とあっさりと面会に応じてくれた。

 そしてその週の日曜、カナトは月影つきかげさんと連れだって田山氏の家を訪れた。

 田山氏の家は鎌倉の東部、しずかな谷戸やとの奥の方にひっそりとある。傍には小川が流れていて、光散らすせせらぎの音が心地よく路傍に流れる。近所の寺の境内や裏の丘からきこえる小鳥のさえずりものどかだ。家々の屋根瓦や木々の葉に反射する光がまぶしい。ここから海は見えないけれど潮騒しおさいがきこえるようで、ふと見上げると、木々が優しげに揺れてさざめいていた。

 カエデの枝のかかる年季の入った木戸の前で立ち止まり、呼び鈴を押した月影さんは深呼吸をして姿勢を正した。今日はいつも公園に行くときの格好とはちょっと違う。黄色いプリーツスカートには一筋のしわもなく、白いブラウスの首元には花のようなリボンがついている。その上にはおっているのはカーディガンではなく若葉色のジャケット。髪の毛もいつもの無造作なひっつめではなく、どこをどうやっているのか、綺麗にまとめて結ってあった。卒業式かよ、という突っ込みは胸の奥にしまって、カナトは自分の服装に視線を落とす。彼はというとワイシャツにジーパン。ジャケットくらい持ってきた方がよかったかな。

「さ、さあ行くよ」

 ただそれだけはいつも通りの黒縁眼鏡を、今日何度目か入念に拭いてから、月影さんは木戸を開いて中に入り、カナトもあわててそのあとに続いた。


 作家ときいて何となく偏屈そうな仙人のような老人を想像していたのだが、廊下の奥から玄関に姿を現したのは小柄でおだやかな、その辺の公園で犬と遊んでそうな雰囲気の人だった。

「ああ。こんにちは。ようこそ……」

 遠くから来た孫でも迎えるように、にこやかに言う。しかし田山氏のその表情は、月影さんの顔に向けられるなり、どういうわけか色を失って固まってしまった。糸のように細かった目が丸く見開かれ、口もとから笑みが消える。

「……ホシカワ……さん?」

 かすれた声でそうつぶやいて黙り込む。誰かと見間違えたのだろうか。ホシカワさん? だれだろう、その人は。

 カナトと月影さんが戸惑いながら口を開けて彼を見つめていると、やがて老人はハッと今目覚めたような顔をして首を振った。

「いや。すまんかった。どうぞ、あがってください」

 そしてまたその表情に笑みを浮かべた。

 通された彼の書斎は日当たりのよい、しかし本棚と積み重ねた本に床の大半を占拠された、雑然とした部屋だった。

「すまんのう。これでも片づけたつもりなんだが。整理が下手なのは学生のころからで……」

 田山氏は本の谷間に置かれた椅子にカナトと月影さんを座らせながら言った。

「そう。わしがあの結朋堂と出会ったのも、学生の頃だった。あの店が、まだ残っていたとはのう……」

 そして窓の方に顔を向け遠くを見るように目を細めた。木漏れ日をゆらす白いレースのカーテンの下で、机の上に置かれた小さな額の表面がきらめいていた。

   * * *

 もう、何十年前になるだろう。友達に連れられてあの結朋堂に行ったのは、わしが幸ノ丘大学の学生の時だった。

 当時結朋堂は文具や雑貨を売る店で、大学の学生や近所の子供がときどき通っていた。店主は星川雪子ほしかわゆきこさんという若い女の人で、そんな学生連中の憧れの的だった。彼女は博識で教養もあって、歌も上手だった。

 もっとも結朋堂に行く客はそんなに多くはなかったがね。なにせ戦前はあの丘のふもとにバスターミナルがあって幸ノ丘学園の玄関口だったが、戦後はそれがなくなってあの辺は一気に僻地になってしまったから。大学近くに駅ができて、駅前に商店街ができて、みんなそこで用が済んだんだ。

 客が減っても星川さんは一生懸命あの店を切り盛りしていた。とてもあの店を愛していた。彼女のお父さんが有名な画家で、結朋堂はその画家のお父さんがつくったものだったんだ。戦後まもなく亡くなった父の、結朋堂はいわば形見のようなものだったのだろう。

 しかし、そんな星川さんの想いは神様には届かなかったようだ。経営困難から立ち直れなかった結朋堂はほどなくつぶれてしまった。店をたたんだ彼女は大阪に引っ越していったらしい。建物だけは人手に渡ったが、その後どうなったかわしもわからない。わしは卒業してから仕事の都合で千葉に移り住んで、以来あそこは訪れていないから。

 大学卒業後あの時の思い出をもとに絵本を作ったが、あまり売れずにすぐに絶版になってしまった。それが内容だけなんとなくあの土地で語り継がれているのはうれしいねえ。

   * * *

 語り終わってからも、老人は窓辺に視線をむけつづけていた。まるでまだ語り足りないというように。まだ話さなければならないことを窓辺の机の上のどこかに置き忘れていて、それを探しているように。

「ところで、今は結朋堂は、何屋さんなんだい?」

「薬屋さんです」

 月影さんが答えると、田山氏はようやくその声に反応して彼女の方に顔を向けた。

「薬屋、結朋堂か。君が……店主さん?」

「いいえ。玉川さんという方が、オーナーです」

「玉川……。ひょっとして、その人のフルネームは玉川幸次たまがわゆきじではないかね」

 月影さんがうなずくと、老人はパッとその表情をほころばせた。

「そうか。玉川君か!」

「ご存じなんですか」

「ああ」

 そして老人はその目をますます細くする。

「彼は、あの店の常連の中でただ一人薬科大の学生で、わざわざ世田谷から通っていた。星川さんが一番かわいがっていた人さ」

「でも、玉川さんは当時のことは覚えていないって……」

「つらかったんだろう。彼は、星川さんのことが好きだったから。だからきっと、その別れの哀しみに耐えられなかったんだ。耐えられなくて、記憶を閉ざしてしまったんじゃないかな。本人も意識せずにね」

 祈るように老人は目を閉じた。

 彼に合わせて、カナトも目を閉じる。瞼の裏に独りの青年の姿が浮かぶ。それは若いころの玉川さんだろうか。結朋堂への坂をのぼる学生服を着た彼は、しかし自分とそっくりの顔をしているようにも見えた。

「私たちには、何もできないんでしょうか」

 月影さんの声にカナトは目を開けて横を向く。月影さんは床に視線を落として、両手でスカートを握り締めている。沈痛な表情。そしていたわりと優しさに満ちた、その表情。

 月影さんの痛みは美しい。しかしカナトは、その想いも結局は無意味なものであると知っている。過去の別れの哀しみを解消することなんて、できるわけがないと思う。玉川さんの心の奥底の哀しみはそっとしておくほかないと。追いかけたって、しょうがないんだ。

「君。歌は、うたうかい」

 突然田山氏はそんなことを月影さんにきいた。

「オカリナを、吹きます」

 彼女の答えに満足そうにうなずいて、田山氏は本の山から一冊の薄い本を取り出した。さらにそこから一枚の紙を抜き出して、月影さんに差し出す。それは、楽譜だった。

「あげるよ」

「いいんですか」

「コピーの一枚だ。遠慮することはない。もう一度、その曲を玉川君に聴かせてやってくれ」

 そしてまた振り返り、窓辺の机の上に愛おしむようなまなざしを投げた。

「わしたちが、あの結朋堂で最後にうたった曲だよ」

 彼のその声につられるように、カナトも月影さんと一緒に窓の方をみやった。鉛筆たてや本の並んだ机の上に、小さな額がのっている。その額に入っているのはセピア色の写真だ。何人かの学生たちの写った写真。彼らに囲まれて、白いドレスを着たひとりの若い女の人がほほ笑んでいる。

「君は本当に、あの星川さん……雪子ゆきこさんに、似ている」

 老人の吐息まじりのつぶやきに、カナトもうなずいて同調する。たしかに写真の中の女の人は、眼鏡をはずした月影さんにそっくりだった。

「ひょっとして、親戚とか」

「わからない。私のおばあちゃんは雪子という名ではなかったし、親戚なんて、よくわからないし。でも……」

 月影さんはそう言って身を乗り出し、食い入るようにその写真の中の人をみつめた。

「あのドレスは、見覚えがある。見覚えがあるなんてものじゃない。あのスカートの裾のコスモスの柄。間違いない。あのドレスを、私は成人式の時に着たの。おばあちゃんから譲り受けたドレスだって、お母さんは言ってた」

「そういえば、雪子さんはあのドレスを妹さんから借りたといっていたな。妹さんの名前は確か……」

「おばあちゃんの名前は……」

 そして、田山氏の声と月影さんの声が重なり合って同じ名前を呼んだ。

 ──陽子ようこ


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