3-7 手掛かりは霧の中

「うーむ。昔のこのあたりのことか。よくわからんのう」

 そう言って、玉川老人は、店のカウンターの中でうつらうつらと舟をこぎはじめた。

「ちょっと。寝ないでください。ほら、ラムネあるから」

 カナトがラムネの瓶を差し出すと、老人ははっと目を開いてそれを受け取り、嬉しそうに目を細めた。

「おお。ありがとう。どういうわけか、最近妙にこれが恋しくてのう。うまい飲み物じゃよな。このラムネというやつは……」

「それより。玉川さんはずっと東京に住んでいるのでしょう。大昔、このあたりはどのようだったのですか」

「いや。わしの出身地は北国の田舎じゃよ。大学生になって上京したが、学校は都心のほうじゃったし。職場は埼玉じゃった。今住んでるのは世田谷。あまりこの幸ノ丘学園のことは知らんのう」

「でも、ここに店を出したからには、何かの縁があったのでしょう。思い出でもあったのでは?」

 玉川老人はラムネの瓶から口を離すと、天井を見上げた。そのまま難しい表情でしばらく虚空を見つめていたが、やがてうなだれ首を振る。

「わからん。昔のこと……特に学生時代のことはよく覚えていないんじゃ」

 そう弱々しく答えて、老人は彼に背を向け咳き込んだ。窓から差し込んだ薄い光が小さな背中にあたって寂しそうな影をつくる。その背にカナトはもう、問いを投げかけることができなくなった。

 彼はひとつため息をついて店の入り口に視線を向ける。相変わらず客のいない店内は、今日も静かだ。従業員も、今いるのは玉川老人だけ。月影さんは岩崎さんを引き連れて公園で練習。守口さんは、あるところに行ってくれている。

(月影さんが毎日見ている風景も、こんなだったんだな)

 うつらうつらとまた舟をこぎはじめた老人に毛布を掛けながら、カナトは店内を見渡す。薄暗い店内に並ぶ商品棚。その間の通路の先に、ガラス戸が立ちふさがっている。その木枠にはめ込まれた、ガラスの大きさの小さな外の世界は、店内の暗さとのコントラストで妙に明るく感じられる。

 感慨にふけるカナトの胸が、突然のように締め付けられる。

 毎日、彼女はこの風景を見ていたんだな。毎日、毎日。この薄暗い店のカウンターから、あの小さな明るい外の世界を。いったい彼女は、どんな気持ちであの明るさを見つめつづけていたのだろう。

 わかりそうな気もするし、全く理解できない気もする。ただ、彼女に思いをはせるとき、カナトの心はいつでも切なくなる。彼女のいた空間。彼女の見ていた風景。全てが特別なものに感じる。

 開かずの扉のようなガラス戸が、突然軽快な音を立てて開いたので、カナトはびっくりして立ち上がった。

 一瞬月影さんかと思ったが、まったく違った。光をさえぎって入ってきたのは、無精ひげを生やした小柄な男。守口さんだった。

 彼はカナトの顔を見ると、口をゆがませて低い笑い声を漏らした。

「月影さんでなくて悪かったな。そんな残念そうな顔をしなさんなよ」

「そ、そんなことないですよ」

 ちょっと当たっている。でも、そんなに表情に出ていたかなと、恥ずかしくなって、カナトは頬やあごをしきりに撫でさすった。

「冗談だよ。それより、例のこと、調べてきたよ」

 そう言って守口さんは紙の束をカウンターの上にのせた。

「法務局で調べてもらった。不動産登記。つまり、結朋堂の歴代の持ち主たちだ」

「それで……」

 カナトの鼓動が速くなる。結朋堂を造ったのはだれか。それを知るには法務局で調べてもらうのがいいと教えてくれたのは玉川老人だ。法務局にはその建物の持ち主たちの記録が保管されているらしい。その助言を受けて、今日、守口さんがそこに行ってくれていたのだ。

 うまくすれば、結朋堂の謎を解く糸口が見つかるかもしれない。その希望に、思わず紙に触れようとするカナトの手が震えた。

「残念だが……」

 守口さんの声が、紙をめくるカナトの手をとめる。

「記録は、五十年前までのしか、残っていなかったよ。それ以前の持ち主は誰かわからなかった。つまり、誰が造ったのかも、わからないままだ」

 カナトは思わず天井を仰いだ。

「ううーむ」

 そんなうめき声を発して、今度はカウンターにうつ伏せる。そんな彼の頭上から、守口さんの相変わらず能天気な声が日差しのように降ってくる。

「まあ、そう悲嘆しなさんな。これも何かの手掛かりにできるかもしれないし。市の歴史のなかから結朋堂が造られた背景を見つけられるかもしれないしね。調べているんだろう。歴史」

 守口さんの問いに、カナトはうつ伏せたままうなずく。

「どうだい?」

「まだ、大枠ですが。近代あたりから調べはじめているんですけど……」

 もぞもぞと起き上がりながら、カナトはリュックから調べもの用のノートを取り出した。

 いちだ市の本町ほんまちあたりには江戸時代末期から市が立つようになっていた。通称、三八さんぱちの市。しかしここが目覚ましい発展をみせはじめるのは、明治時代からである。生糸の一大産地である八王子と、貿易港の横浜。そこを結ぶ「シルクロード」の中継地として、街道沿いに多くの店が立ち並ぶようになる。キリスト教や自由思想などの西洋思想も流入し、思想家や民権家も多く輩出したという。明治の終わりから昭和の初めにかけて鉄道も敷かれ、交通の要衝ようしょうとしてますます発展を遂げていく……。

「うん。糸口になりそうなポイントもいくつかあるね」

「ええ。この土地出身の思想家とか。明治にできた商店たちとか。こんど、資料館にも行ってみようと思います」

「あんまり頑張りすぎるな。受験もあるんだから。今度、俺の受験生の時のノート持ってきてあげるよ」

「ありがとうございます」

 店番に戻る守口さんと入れ替わるように、リュックを担いだカナトはカウンターから出て、もう一度挨拶をする。店から出ようとして、いったん立ち止まった彼は振り返り、守口さんに問うた。

「月影さんは……、元気にしていますか」

 月影さんとは土曜以外に顔を合わせなくなった。彼女も勤務時間を減らして練習に励んでいるのだ。その間はこのようにして、守口さんや玉川老人が店番をしてくれている。

「ああ。頑張ってるよ」

 守口さんは無精ひげをなでながら答えてくれる。

「寂しいかい。週一しか逢えなくなって」

 カナトはほほ笑みながら首を振る。頑張って練習しているという月影さんの姿を想像しただけで、彼の胸は春風のわたる森の木々ように波うつ。顔を合わせられなくても、心は結朋堂を通してつながっている。

 木の幹に寄りかかった月影さんが、口からオカリナを離して額の汗を拭く。

(さて、私はもう一曲。君はちょっと休みなよ)

 まだまだ。僕も頑張りますよ。そう、心の中の彼女に語り掛けて、カナトは店を後にした。


 そんなふうにして、カナトの夏休みは過ぎていった。

 受験勉強と調べ物のために図書館に通う日々。積み上げた資料のページをめくるように時間と日が進み、ノートを埋める文字が増えてゆくごとに、蝉の鳴き声の威勢は衰え、かわりに夜の虫の音が力強さを増していった。

 結朋堂へ行く回数も減った。土曜日の午後。週一回の発表の日だけ。しかし寂しくはなかった。たとえ結朋堂に行かなくても、彼の心はあそこにあったから。調べていることで、いつもあそことつながっていたから。

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