3-6 カナトの危惧

 ひとりごとのようにカナトはもらす。漠然とだけど、気になることがある。それは月影つきかげさんの演奏が丁寧すぎやしないだろうか、ということだ。間違えないように。失敗しないように。そんな慎重さが今の彼女にはある。丁寧なことも慎重なことも悪いことではないし、実際彼女の演奏は上手だけど、カナトは何か不安だった。それは彼女の気負いの表れではないか。彼女の気負いのつくりだす緊張が、そうさせているのではないか。そう思えてしまうから。彼女はきっと演奏会用に整えようとしている。音も、リズムも、強弱も。正確に、丁寧に、間違えないように……。でもカナトにはそんなふうに整えられた演奏よりも、かつて公園で聴いていたオカリナの音色のほうが好ましく思えた。木の幹にもたれるようにして彼女が吹いていた、粗削りだけどのびのびとしていて、哀しいけれども生きている。あの演奏のほうが。

「ねえ。どうでしょうね。守口さん」

 問いかけてから、カナトはそれを後悔した。

 守口さんは一点を見つめて、例の哲学者のような風情で黙り込んでいる。こういう時はたいていろくなことを考えていない。

「そうだな……。俺が思うに」

 守口さんがおもむろに口を開く。

「やはり、露出をもっと多めにした方が、いいのではないだろうか。スカートはもっと短めに。胸元はもっと開けてだね……」

 やっぱり。あなたにたずねた僕がバカでした。カナトは脱力してガックリと首を垂れる。それと同時に、遠慮がちに軋みながら洋間の扉が開いた。

 部屋に入ってきたのは黒いドレスの女だった。

 いや、ドレス……ではない。かぶって着れそうな、ゆるゆるの真っ黒いワンピース。手にはほうきを持たされている。頭には大きな紅いリボン。

 思わず腰を浮かせたカナトと守口さんは、声をそろえて突っ込んだ。

「いったい誰ですか!」


 その日アパートに帰ったカナトは、自分が調べるべきことをノートに整理してみた。

 最終的に突き止めたいことは、結朋堂の文化的価値。そのために調べることを、彼は四つに分類した。

 ひとつは、看板建築かんばんけんちく自体の価値。

 ひとつは、結朋堂ゆいほうどうの造られた時期。

 ひとつは、結朋堂を誰が造ったのか。

 もうひとつは、結朋堂の造られた背景。

 そしてカナトは、その四つの事柄一つ一つについて吟味する。

 看板建築の価値は、それにかかわる書籍やインターネットを調べればだいたいわかるだろう。

 結朋堂の造られた時期。これも、看板建築について調べるなかでだいたい分かった。一九三〇年ごろ。それで大体間違いはないだろう。

 問題はあとの二つだ。結朋堂を誰が造ったのか。そしてそれが造られた背景。これがわからない。そして最も重要なことが隠されているのもまたここだ。

 どうすれば突き止められるんだろう。

 カナトは考えながら髪の毛を指でこねくり回す。街の歴史を調べる。今彼が考えられる方法はそれだけだ。しかし本当に、それでたどり着けるのだろうか。それで、何もなかったら? 結朋堂なんか、この街に何の足跡も残してこなかったのだとしたら? そしたら、どうすればいいんだろう。

 暗い気持ちに胸をつかまれそうになり、カナトは思わず顔をあげた。

 その視界に、いくつもの光の点が入り込む。

 一瞬星空かと錯覚し、すぐにそれが窓から望む街の夜景であることに気がついた。近所の家々の窓から漏れる灯り。坂に張り付くように建つアパートの灯り。遠くのマンションの灯り。街灯の灯り。黄色っぽい灯りや青っぽい灯り。ほんのり赤みがかった灯り……。

 その無数の灯りを眺めながら、カナトは思う。

 あの灯りの一つ一つの下に、人が暮らしている。人の人生がある。古い建物にも、新しい建物にも。そこに流れる年月があって、人とのかかわりがある。

(私ね。小さいころ、あそこでよく本を買ってもらったの……)

(二階の喫茶室で買ってもらった本を読んで……。あそこで過ごす時間が、とても好きだった……)

 耳の奥で、あの人のささやき声が聞こえる。街の明かりの一部がふと、池の面に浮かぶ白いきらめきのように見えて、カナトは思わず目をしばたたかせた。今にも新緑の葉のさざめきが降ってくるような錯覚を覚え、耳を澄ませてみる。

 結朋堂だってそうだ。

 部屋の静寂の中で耳を澄ませ、公園のさざめきを求めながら、カナトは思う。どこからともなくオカリナの音が流れてきた気がして振り向くと、本棚のわきに置かれたヴァイオリンに視線が留まった。

 カナトは机から離れてヴァイオリンの前に座り、そのケースのふたを開けた。ほおっておかれた弦はさび付いている。それをはずして、ケースのポケットに入っていた新しい弦に張り替える。調律をしながらその弦をはじくと、懐かしい振動とともに、母の声がよみがえった。

 このヴァイオリンにはね、物語があるの。

 そう言って語ってくれた、このヴァイオリンを作った人の恋物語。

   * * *

 彼はね、学生の時進路に悩んでいたの。職人になるか、それとも進学するか。

 物思いにふけるために通っていた公園で、ある日年上の女性と出会って恋をした。

 その人に励まされて彼は職人を志し、卒業と同時に留学した。自分の作った楽器の音色をいつか聴かせると約束して。

 十年後、帰国した彼はその女性をたずねた。約束を果たすために。でも不安もあった。彼女は年上。もうとっくに結婚して、自分のことなんか忘れているのではないか。でも、彼女は彼を待っていた。そしてめでたく結ばれて、結婚後、はじめて作ったのがこの楽器なの。

   * * *

 結朋堂だってそうだ。

 カナトは楽器の表面をなでながら、ふたたび思う。

 何にもないなんてことが、あるだろうか。いや、そんなことはない。必ずそれをつくった人がいて、そこには何かしらのドラマがあるはずなんだ。

 調律を終えたカナトはケースのふたを閉じ、そして力強く立ち上がった。


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