3-5 定期報告会

幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんは東京都いちだ市の町名。現行行政地名は幸ノ丘学園一丁目から七丁目。町内には学校法人幸ノ丘学園がある。いちだ市の中東部に位置する。東は神奈川県K市、北は神奈川県Y市と接している。丘陵地帯を幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんが買収し学園運営と同時に宅地分譲したため、その名を地名とした。教育と文化の共同体という理念に共感した人々が移住し、その中には文化人や学者が多くいた。今でも作家、漫画家、建築家、大学教員や音楽家などが多く住んでいる。一九六×年に住居表示の実施により幸ノ丘学園一丁目から七丁目が新設された』

幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんは一九三〇年、哲学者児嶋正芳こじままさよしにより創設された学校である。芸術、道徳、人間愛を重視する教育理念を掲げた児嶋は、この多摩の丘陵地に理想郷を築こうと、当時中谷なかや村の一部であったこの広大な土地を購入し、狭隘きょうあいな山地を開拓し、分譲した。当初の住民は児嶋の家族と近親者の三戸のみ。それが終戦直後には五十戸ほどになり……』


「とりあえず今日分かったことは、幸ノ丘学園という町名は昭和の半ばにできたものだが、学園自体は昭和初期にできたということ。それから宅地もそのころに開発がはじまったということです」

 カナトが発表を終えノートを閉じると、テーブルに視線を落としていた男一人と女二人は、椅子の背もたれに寄りかかり腕を組んでウーンとうめいた。

「つまり。結朋堂ゆいほうどうの歴史についてはまだ何もわからないということだね」

 岩崎さんがポツリと痛いことをこぼす。そのとおりなのでカナトは何も言えない。そこにすかさず月影つきかげさんがフォローを入れてくれる。

「まあまあ。まだ調べはじめたばかりなんだから。これからだよねえ」

 結朋堂ゆいほうどう二階の洋間の窓辺。差し込む土曜の午後の光は焼け付くように熱く、目に痛いほど明るい。相変わらず無駄に元気なセミの鳴き声が生ぬるい風と一緒に窓から流れ込んでくる。目をしかめて窓外に目をやると、鈴を溶かしたような光が桜の枝の間に眩しく瞬いていて、それがふとカナトに、先ほどまでいた市立図書館の窓からの風景を思い出させた。

 守口もりぐちさんと計画を練り直したカナトは、大学図書館ではなく市立図書館に主に通うことにしたのだ。調べる対象はこの幸ノ丘学園という地域の歴史。そこにもしかしたら結朋堂の存在を見いだせるかもしれないと考えたのである。看板建築かんばんけんちくの歴史や価値ももちろん調べる。それは大学図書館に豊富な資料がある。しかしそれだけでは足りない。結朋堂という存在そのものの価値を示すものがほしかった。この地域に対して結朋堂のはたしてきた功績のようなもの。それが発見できたならば、それは大きなアピールポイントになると思われたのだが……。

「だが、わかったこともある」

 腕を組んで瞑目していた守口さんがおごそかに口を開いた。

「この街の開発のはじまったのが一九三〇年。関東大震災の数年後だ。この前調べた看板建築が盛んにつくられるようになった時期と重なる」

 看板建築は関東大震災後、耐火性を高めた建築様式として復興期の東京で盛んにつくられるようになり、後に地方にも波及した。昭和初期に開拓がはじまった街ならば、その様式の建物が建設されるのは自然なことだろう。幸ノ丘学園の創設と何か関りがあると考えることもできる。

「じゃあ、この結朋堂は幸ノ丘学園のために造られたお店だってこと?」

 首をかしげる岩崎さんに、守口さんは首を振ってこたえる。

「いや。それにしてはこの店は学校から離れすぎている。学園のための店ならば、敷地内とか、学校の門前とか、もっと近いところに建てるだろう。まだ商店街だってなくて住宅も三戸しかなかった時期だ。こんなに離す必要はなかったはずだよ」

 守口さんの言うとおりだ。カナトは腕を組んで考え込んだ。やはり学園との関係は薄いとみたほうがいいのか。だとしたらどうしてこの店はできたのだろう。わざわざこんな不便なところに。そもそも何を売る店として、どんな人が建てたのだろう。

 ああ、まだまだだな。わからないことだらけだ。

 思考が混乱して、カナトは思わず頭を抱える。幸ノ丘学園について調べれば何かしら出てくるだろうと思っていたが、甘かった。結局、何もわからないままだ。でも……。

 カナトの頬に笑みがにじむ。

 でも、面白い。

 彼は頭から手をはなし、それを軽く握りしめて己を鼓舞するようにガッツポーズをとった。きっと、突き止めてみせる。そう、自分に言い聞かせながら。

「調べる対象を幸ノ丘学園から近隣の地域にも広げようと思います。いちだ市全体の歴史を調べたら、見えてくるものもあるかもしれない」

 カナトが声を弾ませて言うと、テーブルに頬杖をついてカナトを見る岩崎さんがにこやかにうなずいた。

「その意気その意気。来週の発表を楽しみにしてるよ」

 来週の発表……。それは結朋堂ゆいほうどうのこの洋間で土曜の午後に行うことにした、この定期報告会のことだ。演奏と調査。それぞれどれくらい進んだか、その週の成果をリハーサルを兼ねて発表する。今のカナトの報告はこれで二回目。まだまだ始まったばかりだが、受験勉強の間を縫っての調査なので意外と進まない。成瀬さん宅に行く日程はまだ決まっていないが、演奏会のあたりには何とかしたいところだ。演奏会は九月の半ば。それまでに間に合うだろうか……。

「じゃ、じゃあ。次は私だね」

 若干かたい声で言って月影さんが席をたった。そのあとに続いて岩崎さんも部屋から出ていく。彼女はこれから着替えるのだ。

 カナトの発表の次は月影さんの演奏だ。公園でのコスプレは免除された彼女だったが、その代わりこの週一のリハーサルでの仮装を義務付けられてしまった。まあ、にぎやかな公園のど真ん中をメリーポピンズの姿で歩かされるよりはましだろう。前回はあれと同じ衣装で、メリーポピンズとは程遠い岡哀子おかあいこの曲を熱演してくれた。その異様にクオリティの高い演奏で見事にリベンジを果たした月影さんだったが、今回も同じ格好なんだろうか。それとも……。

「どうだろうかな。月影さんは」

 守口さんが片手で頬杖をつきながら、いま彼女たちが出て行った扉の方を向いて言った。その眉の間には心配するように皺が寄っている。

「技量自体は大丈夫だと思いますよ。緊張さえしなければ……」

 カナトは答えながら先週の彼女の発表を思い出す。

 見事な演奏だった。音色の美しさも表現力も、プロ顔負けの出来だったように思う。岩崎さんなど涙ぐんで鼻をすすっていたくらいだ。得意な曲とはいえ、メリーポピンズの格好をして人前であれだけの演奏ができるのだ。実力としてはもう十分じゃないだろうか。だけど……。

「ひとつ気になることがあるんです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます