3-4 父からの言葉

 夕食を食べ、アパートに戻ると、父がダイニングで一人食事をとっていた。

「今日は早かったんだね。お疲れ」

 カナトが声をかけると、父は焼き鮭をつつきながら背中で答えた。

「お前は遅かったな。飯は食べたのか」

「うん」

 いつものようにそっけなく返事をして部屋へ向かう。しかしカナトはふと足を止め、踵を返した。

「ねえ。お父さん」

「ん」

「学問って、果てしないね」

 言ってしまってから、カナトは急に恥ずかしくなって、ほてった頬を手のひらでさすった。

 父が箸をとめ、怪訝けげんそうな表情で振り向く。しかしすぐに思案するように目を細め、そして口元をゆるめた。

「そうさ。学問は、果てしがない」

 そう言ってから茶碗と箸をおいて、カナトに向き直った。

「どうした。今日は何かあったか」

「別に……。どうして」

「久しぶりだ。お前のそんな顔を見るの」

 父はあごをさすりながらまた目を細くした。今度はさっきよりも柔らかい表情で。はるか遠く、昔の思い出を懐かしむように。

「いつからだろうな。お前が勉強していても楽しくなさそうになったのは……」

 父のその言葉を聞いて、カナトの胸がきゅっと締め付けられた。ああ、この人はずっと僕のことを見ていたんだ。そして僕の様子を、ちゃんとわかっていた。そう思うとなんだか気まずいような、でもちょっとうれしいような、そんな気持がする。

「……大学の図書館で、調べ物をしたんだ。すごい図書館だった」

 カナトが横を向いて答えると、父の頬に笑みが浮かんだ。

「楽しかったか」

 カナトは横を向いたまま小さくうなづく。

 楽しかった……。

 そう。楽しかった。

 調べ物は全然はかどらなかったし、蔵書数に圧倒されたし、戦慄せんりつすら覚えたし、疲れたけど。でも、久しぶりにワクワクもした。あれらは、これから自分が読むべき本の数々だ。将来自分が挑んでゆく、未知の世界そのものだった。そういうものがちゃんとそこで待っているということを、知ることができただけでも嬉しかった。カナトは、はるか水平線を見晴るかす気持ちで想う。今はまだ全然太刀打ちできないけど、でも、いつかその中を冒険してみせる。守口さんのように、嬉々として目を輝かせながら。

「ねえ、お父さん。もし僕が……」

 ずっと言えなかったことを、今言おうと、カナトは何の力みもこめずに思った。あの図書館に身を置いた余韻がまだ残る今なら言える気がした。あの膨大な知の海原に漕ぎ出す勇気があれば、受験の相談など何ほどのことであろう。

「僕が、医学部を受けなかったとしたら、別の道を選んだとしたら、お父さんは、失望するかな」

 父の頬から笑みが消えた。黙り込んで、顎をさすっていた手をとめ、視線を床に落とす。

 沈黙が狭いダイニングに降りる。しかしそれは失望や不機嫌さを表すものではなく、父の沈思によりつくりだされたものだった。彼はしばらく考え込んでから、慎重に、かみ砕くようにつぶやいた。

「そりゃあ、子供にはこうなってもらいたいという願いは持つよ。親だもの。この子に幸せになってもらいたい。そのためにはこの子がどうなるのがいいんだろうと、いつまでもいろんな想像をめぐらすのさ。でも……」

 父は言葉を切って顔をあげた。まじまじとカナトを見る。二人で暮らすようになって初めてと思われるくらいに。いや、そう思うのは僕の方だけかもしれないと、カナトは気づく。父は僕のわからぬところで、いつも僕を見ていたに違いないのだから。

「でも、それで、お前から学ぶ楽しさを奪ってしまっていたのだとしたなら……、それは大変すまなく思う」

「そんな……。すまないだなんて……」

 父は少しも悪くないことを、カナトも知っている。本当は、悪いのは自分だ。自分で自分の将来のことをちゃんと考えず、人に判断をゆだねて目の前の成績ばかりにとらわれていた。そんな自分がいけなかったんだ。

 そんな我が身を悔いながら、カナトはすがるように父に向き直って思う。こんな僕が、今更主張してもいいのだろうか。こんな僕を今さら、あなたは信用してくれるのだろうか。

「そうだ。お前に、いい言葉を贈ろう」

 父はポンと手をたたくと姿勢を正し、何か思索にふけるように顎をあげて目をつむった。一本立てた右手の人差し指を、リズムをとるようにゆっくり振りながら、彼は低い声でその言葉を唱える。

「これを知る者はこれを好む者にかず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」

 そして数秒間余韻に浸ってから薄く目を開ける。

孔子こうし大先生の言葉だよ。ただ物知りな人間は学問好きの人にはかなわない。学問好きな人も、そこに楽しみを見出している人には、およばない」

 そして付け加える。カナトの進む道も、そこに楽しみを見いだせるものでありますように。

 その時、自分はどんな顔をしていたのだろうか。カナトにはわからないが、しかし見えたとしてもそれを表現することはきっとできないだろうと、思う。水が、体内に注ぎ込まれてゆく。ひび割れていた脳の隙間を、その言葉の余韻が甘露かんろのように潤してゆく。そんな今の自分の表情を表すことは。

 ああ、そうだった。

 カナトは今さらのように己が失っていたものの一つに気が付く。かつてはそれがわかっていたはずなのに、いつの間にか課題をこなし目標を達成することに縛られていた。目標を持つこともそれを達成することも、反復することも大事だけれど、それだけではいけなかった。僕は楽しんでいいんだ。学問を、楽しんでいいんだ。そうするべきなんだ。そしてそれはきっと、学問以外のいろんなことに言えるのだろう。そう、確信をもって思う。

「どうした。具合でも悪いのか」

 箸をとって肉じゃがのイモをとろうとしながら父が声をかけてくれる。ほおけたように突っ立っていたカナトは中空を見つめたまま答えた。

「ありがとう。いい言葉だね。さすが孔子大先生だ」


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